くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編2編12節
幸いな者、すべて主のもとに逃れる人は。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙3章12節
キリストにあって、私たちは、キリストの真実により、確信をもって、堂々と神に近づくことができます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さんおはようございます。
今日で8月も最終日となりました。そして8月最後の主日です。
このひと月を振り返りながら、新しい一週間の始まりを迎える者として、今日の一日が良いスタートとなりますように。お祈りします。
さて、今日のローズンゲンですが、実は先週日曜日(24日)に、今日のローズンゲンに示された聖句の黙想を掲載してしまいました。完全に私のミスだったのですが、今日はその時の黙想を再掲したいと思います。すでにお読みになられた方も多くおられるかと思いますが、お詫びとともにお付き合いくだされば幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。
(以下、再掲文です)
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは「神の御前に進み出る」ということでした。そのことについて、黙想をつづってみたいと思います。
私たちが神の御前に進み出る大前提に、神が私たちのために生きて働いてくださっているという事実があります。それは、私たちが神の御前に近づこうが近づかまいが、神は私たちのためにご自分の言葉と行いをもって、私たち人間を養い続けてくださっていることが聖書全体を通して私たちに伝えられていることです。
しかし、どんなに聖書に神のお働きが記されていたとしても、私たちがそのことを心からの実感としないかぎり、私たちは神に近づこうという発想は起きてこないのかもしれません。私たちにとって「神に近づく」とは何でしょうか。礼拝に出席することでしょうか。もちろんそれもあると思います。ただ、私たちが真剣に考えたいことは「礼拝する『心』がどこにあるのか」ということであると私は自戒を込めつつ思わされます。
礼拝というのは、神である主と出会うことが明らかにされる機会であり、それは賛美や祈りを通して、また神の言葉をいただきつつ、それをいかに自分自身の生きるために無くてはならない糧とすることができるかというところにこそ、礼拝の魅力や醍醐味というものが存在するのだと思います。神に近づくとは、単に物理的に教会へ足を運ぶことだけではなく、その中身がいかに私にとって必要なものなのかということが、常に問われているような気がするのです。
世界中の多くの教会では、日曜日に礼拝が行われることがあります。しかし、この日本においては、日曜日にさまざまな予定がひしめき合っているなかにあって、礼拝に出席し続けることが難しい場合もしばしばあることでしょう。だからこそ、私たちは考えたいのです。私たちの心がどこにあるのかということをです。
昔は教会も強気でした。主日礼拝厳守。礼拝に出られないのであれば、それを妨げる要素はすべて排除せよと。牧師が「主日礼拝に出られないような仕事をしているのであれば、そんな仕事など辞めてしまいなさい」などということもよく耳にしたことでした。しかし、今はそんな時代ではありません。そんなことを口にしたら、すぐにハラスメント問題、宗教虐待問題と騒がれてしまいます。
しかし、だからと言って「礼拝を大切にする」ということがないがしろにされるべきでもありません。それは強要されることでは決してなく、あくまで礼拝者本人の「判断と決断」の問題であるということなのです。その判断と決断のためには、私たちが常に「神の価値観」というものを身に付けつつ、私自身が神に近づく心というものを養い続けていくことが大切なのだ。今日のふたつの聖句はまさに、そのようなことを黙想させる御言葉だったのではないかと思えてならないのです。
今日の礼拝もまた、神が備えてくださいました。その備えに私たちがどのように応答することができるのだろうか。たとえ物理的に礼拝に出席することが叶わなかったとしても、私たちの心を問われる神に近づくことは可能なのです。その思いを大切にすることができますように。皆さんの新しい一週間に、神の守りと平安がともに豊かにありますことを、心からお祈りします。
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