くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記15章1節
主に向かって私は歌おう。なんと偉大で、高くあられる方。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一14章15節
私は霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊でほめ歌を歌い、理性でもほめ歌を歌いましょう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さんおはようございます。
仙台は曇り空の朝を迎えました。仙台の街は昨日から夏祭りが始まりました。昨晩の花火大会、そして今日からは仙台七夕が始まります。そのなかで、ちょうど50年前から七夕の一角に「平和七夕」の吹き流しが設けられています。広島と長崎の原爆倒壊をいつまでも記憶するために、祈りを込めて吹き流しの房の部分をすべて折り鶴でこしらえます。
おととい、私の働く仙台宮城野教会の礼拝堂で、平和七夕を長年続けて来られた油谷重雄さん(仙台北教会員)の指導のもと、市内の中高生、そしてこの時期に毎年ボランティアチームとして関わり続けて来られた明治学院大学東村山高校の佐藤飛文先生と生徒・卒業生の方々が、平和七夕で配る折り鶴のレイを製作されました。明学東村山チームは、随分前から仙台宮城野教会の礼拝堂に寝泊まりして、ボランティアに励んでおられます。私たちの教会にとっても、この時期の恒例行事となりました。このような行事が続くことを、私はただ宿泊場所を貸すだけの立場ではありますが、とても嬉しく、楽しいものであり、感謝の念にあふれるものとなっています。
今日は広島原爆投下80年を覚えて、朝からさまざまな報道がなされています。そして多くの祈りがささげられているのを目にしました。どんな信仰を抱いていても、祈る心というものを私たちは本能的に持ち合わせているということを、あらためて感じさせられました。そして、私たちも神に祈りをささげます。では、私たちの祈る祈りとはどのようなものなのかということを、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、私たちに気付きを与える大きな助けになると私は受け止めました。
嬉しい時に、私たちはその喜びを神に向けることができます。感情が沸き起こった結果としての祈りは、その喜びを与えてくださった神をほめたたえるという行動を促します。今日の旧約聖書の言葉は、エジプト軍に追われていたイスラエルの民が、その恐怖から解放されたときにほとばしった喜びとともに語られたものです。私たちが喜べるのは神がそのように導いてくださったから。神の助けと力を実感した人々が、その感情をストレートに神に向けることができたのです。祈りとはそういう私たちの思いの大切な表現方法なのだと、あらためて思わされます。
と同時に、私たちは嬉しい時だけに祈る訳ではありません。苦しい時も、痛んだ時も、私たちは神に祈りを向けることができますし、神から見捨てられているのではないかと思う時、神に祈りたくないと思うときにも、私たちは自分自身の心のうちにあるものをじっくりと見つめつつ、どんな時にも私の命を支えられる神に、自分自身の理性をもって神に祈りをささげることができるのです。
今日の新約聖書の言葉には、霊だけでなく理性をもって祈る時にこそ、神が神としておられることの実感を噛みしめることができるのだということを、私たちに示すものなのです。私たちは感情任せに神と向き合おうとすれば、そこには大きなムラが生じます。そのようなムラは誰にでもあることですが、それを放置しておくならば、私たちは都合の良い時だけに神へ向いてしまうのです。まさに私たちの感情が結果として神を利用してしまうことになるのでしょう。
しかし、そのような私たちの傾向のある無しにかかわらず、神は私たちとともに歩んでくださいます。そのことを理性をもって感じ取る時に、私たちは原爆投下のような惨事のなかにあっても、そういう時だからこそ祈る言葉というものが神によって与えられるのではないか。私はそういうことを是非期待したい、願いたいと今日の聖句を通して想わされました。
私たちの祈りをバランス良いものとしてくださる神とともに歩む幸いに、今日も私たちのひとりひとりが応じることができますように。祈りつつ、私たちのあいだに宿る平和を心から願いたいと思います。皆さんの今日の一日に、神が豊かに臨み、ともに歩んでくださいますように。お祈りします。
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