くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ43章24~25節
あなたは私のために
あなたの罪で私に労苦させ
あなたの過ちで私を疲れさせた。
私、この私は、私自身のために
あなたの背きの罪を消し去り
あなたの罪を思い起こすことはない。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書5章17節
イエスはお答えになった。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さんこんにちは。
まず、皆さんにお祈りくださっていた入院と手術のことですが、無事に手術を終え、木曜日に退院してまいりました。皆さんのお祈りに、心から感謝申し上げます。さっそく張り切って昨日(金曜日)は仕事をしましたが、やはり術後の身体は万全ではなかったようで、今日は先ほどまでベッドで横になっておりました。午後も半ばを過ぎて、明日の準備に取り掛かられなければと思いましたので、遅ればせながらローズンゲンの黙想を最初に行おうと思いました。無理のない限り、黙想をお届けすることが出来る日は、お届けしたいと思っております。引き続きのお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことがありました。それは「神はご自分のために、生きて働いておられるのだ」ということでした。そのことについてつづってみたいと思います。
今日の旧約聖書の言葉は、預言者イザヤを通して語られた神の言葉です。神がお選びになられたイスラエルの民たちは、ことあるごとに神とともに歩む道をないがしろにしてきたことが聖書に記されています。民たちはもしかしたら、神とともに歩むことをないがしろにしてきたという意識などなかったのかもしれません。しかし、その無自覚さが結果として神との関係が乖離するという結果を生み出してしまったのでした。
私も「神を信じています」とか「私はクリスチャンです」という自覚を抱きながらも、本当にその自覚は、神が期待しておられるその思いに沿ったものなのだろうかと、振り返させられることこそが大切な営みなのだとたびたび反省とともに思わされることがあります。前述のイスラエルの民のように、気づいた時にはとんでもなく神から離れている自分自身に気付かされるということも実際にあるからです。
私たちは神と直接会話をしたり、その息づかいというものを人と接するように感じ取ることが難しいかもしれません。だからこそ、神の言葉である聖書の言葉に丁寧に向き合い、そこに神の御心がどのようにあるかということに、心を寄せつつ、聖霊の助けをいただきながら、決して独り善がりになることなく、神の御声を聴き続けようとする真摯さというものが求められているのだとつくづく思わされるのです。
今日のイザヤ書にある神の声は、私たちのそのような無自覚さのせいで、神御自身が疲れてしまったことが伝えられます。私たちは神を疲れさせているなどということに対して、本当に無自覚な自分自身なのです。しかし、そんな私たちをお選びになった神は、ご自分の責任において私たち人間に、神と向き合う自覚に気付かせ、その自覚を養い育てるために、生きて働いてくださっておられるのです。
今日のイザヤ書のなかで、神は「あなたのために」、つまり私たちの罪を赦そうと神は言っておられないことに注目できます。神は「私のために」、つまり神御自身の責任が責任として果たされるために、私たちの罪を赦そうと告げてくださっているのです。この神の誠実さにこそ、私たちが生かされているのだということに、私は深く心を寄せて生きていきたい。そのように思わされた今日の聖句でした。
イエスが言われました。父なる神が働いておられるから私も働くのだと。この神の誠実に生かされてこそ、与えられた務めを神の御心とともに、神の助けによって果たしてまいりたいと心から願います。明日から新しい一週間が始まります。どうかその備えの時が、私自身の自覚を高めるひと時となりますように。神のお働きに心から感謝しつつ、皆さんの今日の残りの時にも、大きな守りt祝福がありますように。心からお祈りいたします。
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