28/02/2025

2025.2.28(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編66編12節
神よ、あなたは人が私たちの頭の上を乗り越えることを
お許しになった。
私たちは火の中、水の中を通ったが
あなたは私たちを広々とした地に導き出された。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二4章9~10節
私たちは迫害されても見捨てられず、倒されても滅びません。私たちは、死にゆくイエスをいつもこの身に負っています。イエスの命がこの身に現れるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句が指し示しているメッセージは「私たちをとことん守り続けてくださる神がともにおられる」ということだと私は受け止めました。そのことを黙想したいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、伝道者パウロ自身が日々を歩むなかで、それが決して順風満帆ではなかったことをうかがい知ることができるものです。実際に使徒言行録に記されたパウロによる宣教の記録を見るならば、いかにキリストの救いを伝えることが命懸けであって、人々からの迫害が押し迫っていたかが分かるわけですが、そんなときにこそパウロの思いというものがどこにあったのか。今日の聖句はパウロの心底にあったものが浮き彫りにされています。
 
私たちは、死にゆくイエスをいつもこの身に負っています。
そのようにパウロは語っています。自分たちが痛みつけられているという現状をはるかに超越する、イエスの痛み苦しみが私たちを守ってくださっているのだと、パウロは力強く手紙の文面を通して私たちに伝えているのです。イエスが十字架の上で身体的にも精神的にも痛みの極みを味わわれたことで、イエスの命が今この私の身に表れているのだとパウロはつづりました。まさに、自分が経験している痛みをすべて負ってくださるイエスが、ともにおられるのだと。とことん私たちの命をイエスご自身の命で守ってくださるというのです。
 
だから、私たちは愛する者から、信頼関係のうえに成り立っていると思っていた隣人から見捨てられるようなことがたとえあったとしても、究極的な隣人であるイエスから見捨てられることは決してない。これがパウロ自身にとっての生きる支えになったのでした。
 
私自身がそうですが、基本的に苦しむことを好みません。できるならば、そういうものからは避けて生きていたいのです。しかし、この世の中で生きている以上、さまざまな価値観がある以上、自分自身の至らなさや欠けがある以上、そのような苦痛から逃げることはできません。クリスチャンになったからと言って、物理的にそういうところから離れて生きることができない。だからこそ、痛みを負ってくださる方がおられるというだけで、それは生きる支えになるに違いないし、実際そうであることを振り返りながら喜びたいのです。
 
今日もそのような救い主イエスが、私たちの苦しみをすべてご存知なうえでともに生きてくださる。そのことを胸にして生きることができますように。心から祈ります。

27/02/2025

2025.2.27(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
サムエル記上12章20~21節
心を尽くして主に仕えなさい。役にも立たず救うこともできない空しいものを求めて離れてはならない。それは空しいものなのだ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙5章17節
愚かにならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
最初に、昨日は無事に伯父の弔いを執り行うことができました。葬儀司式と遺族代表というふたつの事柄を行うことは、予想以上に疲れをきたすものではありましたが、仙台宮城野教会の皆さんのお支えと会葬者の皆さん、葬儀社はじめ関係各位のご協力、そして何よりも皆さんのお祈りと、その祈りを聞いてくださる神の慰めと励ましのおかげで、すべてを終了することができ、心からホッとしています。まだ少々しなければならないことが残っておりますが、最後まで丁寧に作業してまいりたいと思います。心から感謝申し上げます。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が受け止めることができたのは「神の御心を神の御心として受け止める誠実さ」についてです。私たちには、究極的には神の御心がどこにあるかなどということを、100%知り得ることはできません。それをできる限り知ろうとするならば、聖書を通して知ることのできる神の御言葉と、その御言葉を理解するための助けとして私たちに与えられた聖霊と、聖書と聖霊の両輪によって歩んできた教会の歴史という営みという3点に尽きるのではないかと私は考えています。
 
ただし、御言葉にしても、聖霊の導きにしても、教会の歩みにしても、それを解釈して、受容して、それを実行するのは、私たち人間であるということです。その人間は根本的な「罪」を抱えながら生きているわけですから、神の御心を100%キャッチして生きるということなど、土台無理な話なのだと私は思います。必ずどこかに「取りこぼし」というものがあるのです。だからこそ、完璧な平和など私たちの現実にはあり得ないのです。悲しいかな、これが私たちの現実なのです。
 
だからこそ、神の御心をできるかぎり神の御心のままに受け取ろうとする私たちの誠実さが問われているのでしょう。御言葉にしても、聖霊の導きにしても、キリスト教会の歴史にしても、それを受け止めようとする私たちの主観が入ってしまうことを考えれば、そのいずれも先鋭化しすぎることによって、神の御心を知らず知らずのうちに「私自身の御心」にすり替えてしまうのだと。私(たち)自身には、そういう危うさがあるのだということを心の片隅に置いているだけで、神の御心を受け止めようとする私自身が、柔軟にそれを受け入れることができるだろうし、聖書・聖霊・教会のあいだに節妙なバランスが保たれることによって、神の御心が見えてくるのだろうと。私はそういうことを心から信じて歩みたいのです。
 
今日も私たちの生活すべてに、神の御心が余すところなく働くことを信じて、私自身のありようをも見つめることができますように。お祈りします。

26/02/2025

2025.2.26(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書40章13節
誰が主の霊を計り
助言者として主に教えたのか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書3章8節
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
ここのところ、コンスタントに黙想をお届けすることができず、大変心苦しいばいかりです。まことに申し訳ありません。今日、伯父の葬儀を執り行います。遺族の代表でありながら葬儀を司式する立場となりますが、ひとりの神に愛された隣人の弔いを、心を込めて行いたいと思います。心の片隅にでも、祈りにお憶えくだされば幸いです。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「霊」という言葉であると私は受け止めました。神の霊が働かれるとは一体何を意味するのだろうかということを、あらためて思わせる問いかけの言葉が、今日の旧約聖書であるイザヤ書で語られています。誰が主の霊を計るのかと。
 
私たちは神の霊が私たちひとりひとりの心と思い、身体に働かれるときに、それをどのように受け止めることができるのでしょうか。それは私たちひとりひとりの感性や知性というものとあいまって、霊の働きというものを認識するのですが、そのときに大切なこととは、私たちの感性や知性というものが、何によって形づくられているだろうかということへの洞察なのだと私は思います。
 
別な言い方をしますと、神の霊を受信できるような感性や知性というものを、私たちは大切にしているだろうかということです。ですから、私たちは自分のうちに持っているチャンネルというものがどこを向いているのかというところに、深い関心を抱くことが期待されているのだと思うのです。どんなに素晴らしい受信機を持っていたとしても、チャンネルが合わなければ電波をキャッチすることはできませんし、情報を知ることもできないわけです。
 
だからこそ、私たちが「主の霊」を計ろうとするときに、自分自身がどこを向いて歩もうとしているのかということを是非確かめながら、神の霊によって生きるということの意味と幸いというものをとらえていきたいと心から願わされます。この願いこそ、今日の新約聖書の言葉でイエスが言われた「霊によって生まれる者」のスタートとなるのでしょう。
 
私たちが自分のうちに与えられた感性や知性が、神の霊の導きによって整えられますようにと祈りつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんそれぞれに与えられた一日もまた、そのような神の霊の促しによって、幸いな時となりますように。心からお祈りします。

24/02/2025

2025.2.24(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
アモス書6章6節
鉢でぶどう酒を飲み
最高の香油を身に塗るが
ヨセフの破滅に心を痛めることがない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙5章18節
酒に酔ってはなりません。それは身を持ち崩す元です。むしろ、霊に満たされなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
まず、皆さんに祈ってもらっていた私の伯父が、昨朝神の御許に召されました。ちょうどローズンゲン黙想を打ち込もうと思っていた時に施設から連絡があり、午前の礼拝を済ませてから施設へ向かいました。伯父の顔はとても安らかであり、必ずしも十分にケアをすることができなかった私にとって、大きな慰めとなりました。伯父の身体を礼拝堂に安置してもらい、水曜日に弔いの式を行うことになりました。父に続いて身内の葬儀を執り行うこととなります。心を込めつつ、祈りつつその時を過ごしてまいりたいと思います。皆さんのお祈りに心から感謝いたします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「酒」です。そして、そのどちらも身に破滅を招き、身を持ち崩すものとして酒という素材が用いられています。私は酒飲みですので、この言葉は額面通りに受け取ることに対しては何となく違和感がありますが、ではこれらの言葉を神の言葉として受け入れるには、どのような思いを抱くことが大切か。そんなことを黙想しました。
 
確かに酒で身を持ち崩すということはしばしばある話で、キリスト教、特に禁酒運動の担い手になった19世紀のプロテスタント教会では、実際に酒で家庭崩壊をした事例が後を絶たなかったので、この聖書の言葉がさかんに用いられたという歴史がありますし、その背景が日本宣教につながったことから、今でも酒の存在がネガティブに捉えられている面を否定することはできません。
 
ただ、私はあらためて思うのですが、これは酒に限ったことではないのですが、私はそれそのものに害悪を求めるのではなく、それを用いようとする人間の態度に関心を向けたいと思うのです。それでもし、私たち自身の態度が害悪に向かうのであれば、それは神の御前にどうあるべきなのかということを、私たちは自分に与えられた判断と決断によって明確にすることが、このような聖句に触れる際に必要なことなのでしょう。
 
身を持ち崩すほどに依存してしまうような素材や態度であるならば、なにも酒だけには限らない話なのだということだと私は思います。つまり、神よりも依存してしまうような何かに対して、私たちは自分自身の判断と決断を神とすることのないように、何事にもとらえることができるような態度を大切にしたい。それが今日の聖句を通して私が受け止めたいと思ったことです。
 
過ぎたるは及ばざるがごとし。今日も神の御前に自分自身を、御言葉と聖霊の助けによって整えつつ、神からの祝福を十分に受ける者となることができますように。皆さんの主にある守りと祝福を、心からお祈りします。

22/02/2025

2025.2.22(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記16章20節
あなたは、ただ正義のみを追い求めなさい。そうすれば、あなたは命を得ることができる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章6節
義に飢え渇く人々は、幸いである
その人たちは満たされる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
おととい、昨日と黙想をお届けすることができませんでした。皆さんに祈っていただいていた伯父がいよいよ看取りの時に入り、そのことに時間を費やしていたのと、今週は私の左眼の不調が再び出てきたため、なかなか自分の思うように動けずにおりました。しかし、心はいたって平安に過ごしております。今日も祈りつつ与えられた時を過ごしたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、とてもハッとさせられた思いでおります。今週のように、なかなか自分の思うようにいかない時にこそ、何をたいせつにんしなければならないかということに、心の眼を向けさせる聖書の言葉であったからです。今日の聖句が指し示しているテーマ、それは「何を求めて生きるのか」ということであり、それを「正義」というキーワードを通して神が語り掛けておられる。私はそのように受け止めたのです。
 
正義を追い求め、義に飢え渇きを覚える。どうしても自分のことで忙しくなってしまうと、忙しい自分自身を正義だと思ってはいないだろうか。昨日帰宅してから、妻とちょっとした言い合いになってしまいました。自分の正しさを分かって欲しいという甘えからくるものであって、妻が私のためにしていることがなかなか受け入れられずに、私は妻を責めてしまうことがありました。私自身が正義であるという立場になって、妻を責めてしまったのです。
 
本来ならば妻に心からの感謝をしなければならないところだったのですが、自分自身の体力的な疲れがそうさせてくれませんでした。正義の置場を間違えていたゆえのことでした。自分自身に正義を置き、それを貫こうとすると、こういう結果を招いてしまうのだ。だからこそ、今朝与えられた聖句がとても身に沁みました。私自身の正義を追い求めるのではなく、神が与えてくださる正しさに飢え渇きを覚えるがゆえに、神の正義というものを徹底的に追い求めようとする態度。結局神に自分自身を整えていただくしかないのです。そのことをあらためて痛感させられたのです。
 
今日が一週間のなかで最高だったと振り返られる一日であるように、今日も過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日が、明日への備えの一日が神の正義という祝福にあふれますように。心からお祈りします。

19/02/2025

2025.2.19(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編127編1節
もし、主が家を建てるのでなければそれを建てる人々は空しく労苦することになる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書5章5~6節
シモンは、「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が受け止めたのは、「神の助けがあってこそ私たちの日々の営みが報われる」というものです。そのことについてもう少し書きつづってみたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスと彼の弟子となる漁師シモン・ペトロとのあいだで起きたやり取りについてです。他の福音書に比べて、今日の聖句であるルカ福音書では、そのときの様子がより具体的に記されています。
 
夜通し網をおろしても魚を取ることができなかった漁師たち。網をおろしたりあげたりするという作業は、大変な重労働に違いありません。それで魚が獲れるのであればその苦労も報われるというものですが、この時は魚がまったく獲れなかった。こういう時の徒労感というものは半端なものではなかったと、漁師経験のない私ですら容易に思うのです。
 
しかし、そんな漁師たちに対してイエスの言葉には何の妨げも躊躇もありません。沖へ漕ぎ出し網をおろしてみなさいと漁師たちに伝えます。漁師経験の豊富なシモンは、そんなことをして何の意味があろうかと思ったに違いありませんし、自分たちの徒労をイエスに伝えます。しかし、そんなシモンも「しかし、お言葉ですから」という言葉を告げたのち、イエスの言われた通りに網をおろしてみました。
 
結果はシモンの経験や徒労というものが吹き飛んでしまうほどに、イエスの言葉が漁師たちを喜ばせる結果となりました。人間の苦労というものが徒労だけで終わらなかったのは、まさにイエスを通して働いた神の力が、シモンたちとともにあったことを明確に示すエピソードです。このあと、彼らはイエスとともに神が与えてくださった喜びのニュースを伝え、享有する働きへ遣わされたのです。
 
主が家を建てるのでなければそれを建てる人々は空しく労苦することになる。
今日の旧約聖書の言葉は、イスラエル王ダビデによって歌われたものです。ダビデも国家という家を建てる業にあたりました。しかし、その業は彼の能力だけでは成し得ないということを、ダビデ自身よく知っていたのです。神がともにいてくださらなければ、徒労が徒労のままに終わってしまう。そんな空しさを超えて神がともに働かれるときに、たとえ疲れを覚えてもその苦労は決して無駄にならないのだというダビデの声が聞こえてきます。
 
自分自身が今味わっている苦しみがあるとすれば、それを必ずや解決へと向かわせてくださる神が、今日も私たちとともにおられる。このことに心から報われる一日でありたいと心が祈り、また願いながら一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの新しい一日に、神の守りと祝福が豊かにありますように。心からお祈りします。

18/02/2025

2025.2.18(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書49章23節
王たちがあなたを養育する者となり
こうして、あなたは知るようになる。
私が主であり
私を待ち望む者は恥を受けることはないと。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書12章11~12節
会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
気温20度近い台北の街から仙台の街へ戻ってきて、今朝は雪の朝を迎えました。今は氷点下2度です。今日から大きな寒波がやって来るとのこと。仙台はまだまだ良いほうですが、この寒さゆえ、雪ゆえに不便を感じるすべての方々の安全が守られるように、心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたのは「聖霊の受け止め方」についてでした。今日の新約聖書の言葉は、イエスによって弟子たちに語られた励ましの言葉であると私は思います。太刀打ちできないと思えるようなこの世の中の空気や相手に対して、自分自身が神から守られ、救いを受け取っている者として大切なこととは、人を恐れるのではなく、この世の空気におびえるのでもなく、神が私たちのために与えてくださる聖霊の導きというものをただただ信じて歩むということ。そのことをイエスは私たちに対して、この世を神とともに生きるための励ましとしてお与えになられているのだと感じたのです。
 
しかし、その時に私たちがより大切にしなければならないのは、聖霊を感じ取り、受け取る「受信器」である私たち自身のことだと私はあらためて思わされています。どんなに良いものが私たちに与えられていたとしても、私たちの側にその価値を知ることができなかったり、自分自身の内側にあるものがゆがみ切っていたのでは、それを健全なかたちで受け取ることができないのだと私は真剣に感じたいと思ったのです。
 
聖霊という言葉はとても強いものだけに、聖霊の導きとひと言発せば、それが本当に「神の意志」のようにとらえることもあれば、感じさせてしまうことだってあるのだと思うのです。単なる個人的感想、私自身の願望を「聖霊」という名前にかぶせてしまい、それをよろいかぶとのように補強しながら遂行してしまうのであれば、それはもはや神の意志でもなんでもなくなってしまうのです。偽りの姿というものをもって自分のわがままというものを他者に対してさらけ出してしまうことになるでしょう。
 
そうであってはならないのです。あくまで神は何を考え、何を想い、私たちに向き合ってくださっているのだろうか、私たちをどのように扱ってくださるのだろうか。そのことを常日頃から聖書の言葉に聴きつつあるところにこそ、聖霊が神の霊として働いている現実というものを、私たちは感じることができるのだと思うのです。私たちの社会に聖霊がどのように働き、私たちがその働きをどのように受け取ることで、神とともに生きる幸いというものが私にとって無くてはならない大切なものとすることができるのかを、私は今日の聖句を通して受け取りたいと思いました。
 
そのような営みのなかにこそ、神がヤハウェというお名前をお持ちであり、私たちとともにいてくださることを心の底から理解する者にさせてもらえるのだということを心の励みとすることができますように。皆さんの一日に、そのような神の助けと祝福が豊かにありますように。お祈りします。

17/02/2025

2025.2.17(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編40編11節
私はあなたの正義を心の中に秘め置かず
大いなる集会にあなたの真実と救いを語り
あなたの慈しみとまことを隠しませんでした。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一2章2節
私たちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中でもあなたがたに神の福音を語ったのでした。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
主の日が終わり、それぞれの日常に戻られることと思います。私も朝の便で日本へ戻ります。この一週間に起きた数々の出来事を胸にしつつ、新しく与えられた日々を歩んでまいりたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉ですが、選ばれたふたつの聖句を通して私が受け止めたのは「神が与えてくださった良いものを良いものとして伝え、分かち合うことへの幸い」というものでした。神がご自分の言葉を通して、また聖書の言葉を通して、そのように受け止めたいと思ったのです。
 
しかし、聖書は誤りなき神の言葉であるという私たちの信じている土台であったとしても、私たちがその言葉をどのように受け止めるかということは、とても重要なことなのだと私は思うのです。文字面だけを追い求めて神が伝えようとしている本質から乖離してしまうような聖書の読み方や受け止め方、伝え方というものが、本当に神の願いや望みなのだろうかとも思うのです。もちろん私なりの曲解ではなく、神が私たちに語ろうとしていることを誠実に求めていくのですが、文字にこだわるあまり本質からずれてしまうようなことがあってもならないのだと思います。
 
私たちが神からいただいた良いもの(それは「福音」と言うこともできるでしょう)が本当に良いものとして私たちに授けられるとするならば、それは枝葉のことではなく本質において充実しているということなのでしょう。あくまで枝葉が本質が明らかにされるための枝葉なのであって、枝葉だけを見て幹を見ることのない聖書の読み方や伝え方からは解放されたいと心から願うのです。
 
聖書の読み方は人の数だけあることは確かです。いろいろな解釈をする自由も与えられているのも確かです。しかし、聖書は「神の言葉」であることを私たちは忘れてはならないし、そこには自ら「ことば」となられた救い主イエスの思いが凝縮されているということも、私たちは心のうちに保ちながら、御言葉に聴く幸いというものを今日も味わっていきたいと思ったのです。それが、神が与えてくださる私たちの幸いへと直結するからです。
 
どうか、今日の一日も神の言葉が私たちを活かしますように。心からお祈りします。

16/02/2025

2025.2.16(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書40章29節
主は疲れた者に力を与え
勢いのない者に強さを加えられる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二12章9節
ところが主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言われました。だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。今日、私は台湾基督長老教会国際日語教会で礼拝説教を担当します。日本を愛する台湾の方々によって建てられた日本語教会であり、長い歴史をもっています。現在は日本基督教団から派遣されたうすきみどり宣教師が、伝道牧会の任にあたっておられます。午後に礼拝がおこなわれますので、ゆっくりとした午前のひと時を過ごしています。
 
さて、今日の礼拝でも聖書の言葉としていただくのは、今日のローズンゲンにも示された第二コリント書の有名な言葉です。「我が恵み、汝に足れり」。神が使徒パウロに対して、私は十分な恵みであなたを満たすのだと、パウロは神からそのように示されていることを手紙に記しました。しかし、実際にパウロの身に起こったことは決して恵みとは言い難いものでした。パウロは福音を宣べ伝えることによって起きる苦難や迫害について触れ、また持病という「とげ」に苦しみ続けました。何度も神にそのとげを取り除いてくださいと願ったと、手紙に書いている通りです。
 
一方で、神から十分な恵みをいただいているというパウロの自意識は、実際に彼の身に起きていたこととは別次元で語られていることがわかります。いや、パウロは実際に苦しんでいたからこそ、その苦しみの向こうに神からの慰めを必要としていたし、確かにそのことによってパウロは自分の弱さと向き合いながらも、神によって強くされていることを実感していたのでしょう。神の強さがあるからこそ、自分の弱さを自覚できるし、神によって生きるという強さが与えられていることに、素直に喜べていたに違いないのです。
 
とかく強さがもてはやされるなかにあって、自分自身のなかにある弱さを自覚することの幸いこそ、神とともに生きる幸いなのだと。そんなことを胸にして、新しい一週間を過ごしていきたいと心を新たにさせられました。明日日本に帰ったら、通常の生活に戻ります。たとえ大変なことがあっても、主によって日々を祝されながら、恵まれながら生きることができますようにと祈ります。皆さんもどうぞ素敵な一週間を、主にあってお過ごしください。お祈りします。

15/02/2025

2025.2.15(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編22編3節
わが神よ
昼に呼びかけてもあなたは答えられない。
夜もなお、私は黙ることができない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙5章7節
キリストは、人として生きておられたとき、深く嘆き、涙を流しながら、自分を死から救うことのできる方に、祈りと願いとを献げ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。あっという間の一週間だと私は感じましたが、皆さんはいかがでしょうか。今、台北駅近くにあるYMCAホテルの部屋からこの黙想をつづっていますが、今週一週間あったことを振り返りながら、神がどのように私に与えられた生活に関わってくださったのか、それに対して私がどのようにそれに応えることができたのか。そんなことを思い巡らせていました。皆さんにとっても、良い振り返りの時としての今日の一日が、神とともにありますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に示されているのは、呼びかけても応えてくださらない神の姿かもしれません。しかし、そのような孤独のなかでも。神は必ずそのような叫びに応えてくださる。その真骨頂と言えるのがイエス・キリストに他ならないのだ。そんなメッセージがふたつの聖句をハーモニーのように響き合っているのだと私は受け止めることができました。
 
今日の旧約聖書である詩編22編は、イエスのご受難を予兆する言葉であるとも言われています。イエスが十字架のうえで「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのか(エリ、エリ、レマ、サバクタニ)」と神に向かって叫んだのは、詩編22編の冒頭にあるダビデの祈りに込められた叫びとつながります。ダビデも孤独のなかで神に「わが神、わが神」と叫びの声をあげました。その続きの言葉として、どんなに叫んでも神が応えてくださらないがゆえに、私の心が黙することができないほどに叫び声をあげたくなるのだということを歌っているのです。
 
どんなに神を信じていたとしても、私は自分の思うような願いがかなえられることを望んでいるのかもしれません。しかし、そうならない時に、私たちは果たしてどうなるのでしょうか。神が応えてくださらないことに不信や疑いを抱き、神の効き目の無さに失望して信じることを放棄してしまうのでしょうか。
 
神は私自身が願うようにすべてをかなえさせてくださるわけではありません。時には私自身にとってそうあって欲しくないということを、神は私自身に指し示すかもしれません。イエスは神に叫びました。しかし、神がイエスに差し出したのは十字架上での痛みと孤独でした。願わくば避けたいと思うようなむごたらしいことをです。
 
しかし、イエスはそれを甘受されました。神の御心ならばその苦い杯を受ける覚悟をもって、しかし、そのようななかで神に叫びの声をあげました。イエスの思いは正直でした。しかし、そのイエスの視線と思いは一貫して神に向き続けていました。十字架にかけられる前も最中も、イエスは何ら変わらず神とともに歩もうということに変わりはなかった。だからこそ、神はイエスを救い主として私たちに与えてくださるというご自分の御心を実現させてくださったのです。すべてが私たちのためにです。
 
このイエスに生かされている私たちがあるということを、私たち自身が忘れることなく、どんな時にもご自分の御心をもって私たちに命を与えてくださっていることを心の中で思い巡らせながら、感謝をささげる一日でありたいと思い、御言葉を受け止めることが出来ました。インマヌエル・アーメン!

13/02/2025

2025.2.13(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書6章16節
古くからの通り道に尋ねてみよ
「幸いの道はどこにあるのか」と。
その道を歩み
あなたがたの魂に安らぎを見いだせ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙6章11~12節
私たちは、あなたがた一人一人が、同じ熱心さを示して、最後まで希望を持ち続けてくれるよう願っています。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束を受け継ぐ人たちに倣う者となるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は氷点下の軽井沢から次の出張地である台北へ移動しました。今の気温は14度で雨音がホテルの外から聞こえてきます。詳細を記すことは控えますが、今日は大切なミーティングがあります。万事神が導いてくださいますように、祈りつつ臨んでまいりたいと思います。
 
さて、今日の旧約聖書のことばは、昨日の旧約聖書の続きとして書かれているものが選ばれています。旧約聖書は「くじ」で選ばれていますので、続きの聖句が選ばれるのは本当に珍しいと思いました。それをお選びになった神の意図はなんだろうかと思いながら、黙想をしたいと思いました。
 
昨日の旧約聖書の言葉が示していたのは、神の意図を自分自身で都合よく曲解することによって起こる、人間の偽りの姿についてでした。この偽りこそ認知のゆがみであって、それは意図的に嘘をついたりしていなくても、神が本来人間に期待した神の真実によって生かされる姿とはかけ離れているという意味での「偽り」であったのではないかと黙想をしました。
 
そのような認知のゆがみこそ、今日の聖句で言われている「歩むべき道の選択」というものに関係してくるのだと私は受け止めたのです。どのような道を歩むことが、神とともにある自分自身の姿としてふさわしいのだろうかという、冷静でありながらも神の熱情に生かされることによって起きる幸いというものを、私たち自身が神に与えられた自由意志をもって選び取っていきたいと思ったのです。そのためには、神の言葉に照らし合わせながら、自分自身の歩みに問い尋ねることが必要なのだと。これこそ黙想の肝となることなのだと、あらためて思わされたのです。
 
神は、そのような私たちの営みを必ず祝福してくださる。魂に安らぎを見い出すことができるような道へと必ず導いてくださるということを、今日を生きる希望としたい。これこそ、イエス・キリストという信仰の実体が私たちに与えられたことによる熱心と希望なのだと。今日の新約聖書の言葉であるヘブライ人への手紙の一節が伝えようとしていることなのだと受け止めることができました。
 
どうぞ今日の一日もまた、神が与えてくださる希望が生きる礎となりますように。お祈りします。

12/02/2025

2025.2.12(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書6章13~14節
小さな者から大きな者に至るまで皆、暴利を貪り
預言者から祭司に至るまで皆、虚偽をなす。
彼らは、わが民の傷を安易に癒やして
「平和、平和」と言うが、平和などはない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙12章9節
愛には偽りがあってはなりません。悪を退け、善に親しみなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今朝は軽井沢南教会の一室から黙想をお届けします。昨日の2.11集会(於・長野県町教会)を終えて、先輩牧師である宮澤豊牧師が長年伝道牧会されているこの教会で一泊させてもらっています。今の気温は何とマイナス7度(午前5時)。キリリとした朝を迎えました。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「偽り」です。偽ることが良い出来事ではないということは、私たちの誰もが知っています。今日これらの聖句を通して黙想したのは、偽るというのは、単に嘘をつくということにとどまらないものなのだということです。もう少し具体的な言い方をすれば、神が私たちに望まれ、期待しておられることに背を向ける生き方にこそ、偽りの本質というものがあるのではないか。そのように感じたのです。
 
今日はエレミヤ書の言葉に注目したいと思ったのですが、安易に人を傷つけて、平和平和と叫ぶ人たちの姿こそ、偽りの示す姿なのだということをあらためて知ることができたのです。神の望まれることは、ご自分が愛をもって創造された人々が「傷つかない」ことであると私は思います。しかし、現実の世の中で、私たちがまったく傷つかないということは無理であることはよく知っています。そして、私たちが傷ついたとしても、他者を傷つけて良い理由などどこにもないことをも、私たちはよく知っているはずです。
 
ですから、神が望まれないような生き方というものを好戦的に行おうとするならば、神の似姿として生きる私たちはすでに、偽りを自分自身の身に帯びながら生きているということになるのではないか、そのように思ったのです。たとえ嘘をつくことがなかったとしてもです。
 
平和でないのに、平和であると叫ぶならばなおのことです。自分は平和かもしれない。しかし、平和とは人と人とを神が結び合わせたときにはじめて成立するものであるということを、やはり私たちは忘れてはいけないのだと思います。だからこそ、今日の新約聖書の言葉のなかで、パウロが「愛には偽りはあってはならない」と述べたのも、私たちはしばしば愛をはき違えて、自分自身の思いの赴くままにそれを利己的に表してしまうことだってあるのです。私もその一人であり、そのたびごとに思い違いに気づかされること数あまたです。
 
だからこそ、偽りという言葉の意味というものについて、表面的なことにとどまらない思いをもって、今日の一日を過ごしてまいりたいと思いました。どうぞ皆さんの一日にも、神様がご自分の愛をもって臨んでくださいますように。お祈りします。

11/02/2025

2025.2.11(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
レビ記19章15節
弱い者に偏ってかばってはならない。強い者におもねってはならない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙2章1節
私のきょうだいたち、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰があるなら、分け隔てをしてはなりません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は日本では「建国記念の日」ですが、この日は神武天皇が即位した紀元前660年1月1日(旧暦)に由来していると言われていますが、この日をキリスト教の多くでは「信教の自由を守る日」として、日本国憲法に定められた信教の自由が意味するところの「信じる自由」「信じない自由」を大切にする日として守り続けています。私は、日本基督教団東海教区北信分区(長野県北部)の2.11集会に招かれて、カルト宗教についてのお話を担当します。こういう時にこそ、神を信じるとはどういうことなのかを、あらためて考える機会となれればと心から願うばかりです。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「神のもとに私たちはみな同じである」と受け止めました。ただし、こうも考えたのです。本来はそうであるはずなのに、私たちのあいだではそうでない現実があることを、私たちはいかに受け止めなければならないかと。
 
つまり、神にあって私たちにないものとは、ひとつの視点で公平に物事を見て、それを扱うということなのかもしれません。私たちはどうしても、その時の情に流されやすい存在なのかもしれません。情があること自体、決して悪いことではないのですが、感情に振り回されて、健全な判断ができないということに問題があるのだと、私自身を振り返っては思わされるのです。
 
繰り返し想うことなのですが、私たちにとって大切なのは、神の視点、キリストの視点というものをもって、世のなかの動きを観察すること、物事を判断し決断するというセンスというものを、神の御言葉を通して、聖霊の助けをいただきながら謙虚に受け止めていくことなのだと。そのための黙想を大切にすることで、聖書の言葉を文字面で利用することから解放されたいし、聖霊様の導きという看板を持ち出して、聖書の一部だけを取り出してそこだけを強調することからも逃れたいと心から願わされます。
 
それが結果的に、決して分け隔てをしないという、神の視点に自分自身を合わせて生きるということへとつながっていくのでしょう。そうなることを心から願いつつ、今日の一日を過ごすことが出来ますように。お祈りします。

10/02/2025

2025.2.10(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨブ記12章16節
力と洞察は神と共にあり
惑う者も惑わす者も神のものである。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一2章4節
神は、すべての人が救われて、真理を認識するようになることを望んでおられます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
週末週明けの2日間は、黙想をお届けすることができませんでしたので、今日から再開して、神の御言葉の幸いを味わいたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私は自分自身のうちにある「認知」について考えていました。決して認知症のことを言っているのではありません。私が神の御言葉に向き合うときに、どのような思いを抱きながら向き合っているだろうかという意味での認知です。この認知無くして、健全な判断や決断はできないのだといつも意識しているつもりですが、はて、本当にそうなのだろうかとあらためて思わされるのです。
 
大切なことは、自分自身の思いや考えというものが、神が願っておられることと沿っているだろうかということなのですが、私はスーパーマンでも知者でもないただの人間、それどころか自覚しているだけでも、ああ、これは明らかに思い違いだぞと思わされることが多々ありますので、自分が神の御心に沿って歩んでいるという自負があったとしても、それは甚だ怪しいのもまだ事実なのでしょう。そこに自分自身の眼を留めることができるのだろうかということを考えさせられるのです。
 
今、SNSなどで話題になっていることのひとつに、ある聖書解釈をめぐってそれが本当に聖書で言われている事なのだろうかと問題提起がなされ、聖書的だ、いや聖書的ではないという議論があるのをしばしば目にします。その双方も、聖書にもとづいて真摯に向き合った結果であることに間違いないと思います。しかし、とても残念に思うのは、それが正義からなのでしょうか。相手と自分が違う意見を持っているから批判すること自体は悪いとは思わないのですが、正義が昂じるあまり、口汚く、そして下品と言って良いほどに非難する向きも多少あるということです。
 
SNSというものは、使いようによっては大変有効なツールだと思いますが、その逆もしかりで、それの用い方というものが、神の思いや願いに沿ったものになっているだろうかということを、立ち止まって考えることは本当に大切だと自戒を込めて思わされるのです。
 
私たちに神が与えてくださった力と洞察は、あくまで神由来のものであるというところに、私たちは自分の言動を神によって整えていただく者でありたいと心から願いました。今日の新約聖書の言葉にも「真理を認識する」という言葉でそのことが表現されています。ただ知識として知るのではなく、心で理解することの大切さと幸いというものを、今日の一日もまた大切にすることができますように。皆さんの主にある守りと幸いを心からお祈りします。

07/02/2025

2025.2.7(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編63編2節
神よ、あなたこそわが神。
私はあなたを探し求めます。
魂はあなたに渇き体はあなたを慕います。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録22章17節
渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「渇き」です。そして、その渇きをいやされる神が私たちを招き、ともにいてくださるというメッセージが語られています。
 
私は今朝起きたときに、喉が渇いているのを感じました。冬場で空気が乾燥しているからということもあるでしょうし、前の晩に少々塩辛いものを食べたからということもあるかもしれません。理由はともあれ、喉の渇きを感じたのでした。そして、台所に行って水道からコップに水を注いで、一杯の水を口に含むと、冷たい水の心地よさが喉を通ってすっきりすることができました。
 
この時には、まだローズンゲンの言葉に触れていませんでしたので、いざ今日の聖句をいただいたときには、とても時宜にかなったものを感じたのでした。おそらく詩編の歌い手ダビデ王にしても、幻のなかでヨハネが観た神の呼びかけにしても、生きることの幸いというものを、水を飲むときの爽快さになぞらえながら、私たちの渇きをいやしてくださる神の存在を明らかにしようとしたのだなと思わされたのでした。
 
私たちは時に喉の渇きを感じることがあっても、命が危ぶまれるほどの渇きというものを実際に経験していないかもしれません。水資源の豊富な日本であればなおのことだと思います。ですから、これは私だけかもしれませんが、私自身このような渇きという言葉が聖書に記されているときに、どれだけのリアリティというものを抱いているかと言えば、はなはだ怪しいものを感じたりもするのです。
 
しかし、その渇きこそ、神の助けをしたい求めて、神の言葉が自分自身を生かす無くてはならないものと心から感じるときに、喉の渇きをいやすように神を求めた結果、神が差し出してくださる一杯の水に、これまでどれだけ癒しというものを実感してきただろうかと振り返ることができるのは、本当に感謝なことなのだと思わずにはいられないのです。
 
聖書の舞台となったイスラエルや地中海沿岸は、日本ほど水の確保が容易ではありません。それだけに、聖書が書かれた背景に「渇き」という言葉が描かれているというのは、私が想像する何十倍もの幸いを感じる機会だったのだろうと思うのです。そんな幸いを胸にして、今日という一日を歩むことが出来ますように。皆さんの主にある平安と祝福をお祈りします。

06/02/2025

2025.2.6(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
創世記8章21節
人のゆえに地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書3章17節
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された旧約聖書のことばは、いわゆるノアの洪水が起きた後、神がこの世界に対してなされた宣言です。ノアの洪水は、神がつくられた世界をリセットし、本来のかたちに回復するための手立てであったと私は理解しています。しかし、神によるこの宣言の言葉は、神がこのようなかたちでの回復を望んでいないということの表れであるとも私は感じるのです。
 
神は「人が心に計ることは、幼い時から悪い」ということをも述べておられます。神に背中を向けて歩もうとする人間の選択というものを、神は決して阻止することはなさいませんでした。結局のところ、人間がどれだけ頑張っても神のようには決してなれないことを人間自身が自覚しない限り、この世界に究極的な平和が訪れることがないのだと。そのような人間の自覚無しに、どんなに災いを降りかからせようとも、暴力的ともいえる行動をなそうとしても、その意味はないのだということを、神はよくご存知なうえでの宣言だったのだと私は受け止めたいのです。
 
神による人間への譲歩の歴史は、人間が神の譲歩に気付くことによって、神に背を向けて歩むことよりも、神とともに生きることのほうがはるかに意味があることを物語るものです。その究極的なかたちとして、ご自分のひとり子をイエスという人間として私たちに与えられることで実現されました。その目的が私たちを断罪するためではなく、私たちを本来あるかたちに回復するためのものであることを、今日の新約聖書のことばは示しているのだとあらためて感じさせられるのです。
 
自分で背反したことのツケは自分で払わなければならないというのは、この世の常でしょう。しかし、大切なのはツケを払うにしても、その意味というものを理解しない限り、ツケを払うことが何かに強制されながらしているのだという意識を、私たち人間は抱くようになる。この意識こそが「人が心に計ることは、幼い時から悪い」という神の言葉の真意なのでしょう。
 
だからこそ、救い主イエスが私たちに与えられたという真実に心を寄せたいの思うのです。今日のふたつの聖書の言葉を通して、私はそんなことを受け止めたいと思ったのです。今日という一日もまた、イエスによって自分の心が整えられることを祈りつつ過ごしていくことができますように。皆さんの主イエスとともにある生活が幸いを生むことを、心よりお祈りします。

05/02/2025

2025.2.5(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書50章6節
打とうとする者には背中を差し出し
ひげを抜こうとする者には頰を差し出した。
辱めと唾から私は顔を隠さなかった。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書15章13節
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲン、特に新約聖書・ヨハネによる福音書15章13節の聖句に私が初めて触れたのは、中学を卒業する時でした。当時、私は「エホバの証人」になるべく、その準備をしていた頃だったのを思い出します。イエスが弟子たちとの最後の夜を過ごすなかで語られたこの言葉の意味というものを、私はよく理解していなかったと思います。しかしこども心、思春期真っただ中を生きていた私にとって、この言葉はとても重く、また感動を覚えたことを、今でも思い出すことができます。
 
友のために命を捨てること。実際にそのような場面に即したときに、自分の命を失ってでも人を助けようとする逸話というものを、私たちは時々聞くことがあるでしょう。その献身的な姿というものに感銘を受けながらも、では、いざ私がその場面に遭遇した場合、そんなことを果たしてできるのだろうかと思うのです。私だったら自分の命欲しさに、そんな勇気すら出てこないかもしれません。何とかして次善の策というものを考えて対処し、それでもだめだったら諦めてしまうということすらしてしまうのかもしれないのです。
 
そんな意気地のない私ですが、同時に思わされるのは、私たちのために本当にそうしてくださった方がおられるという真実があるということです。イエスは私たちという友のために、自分の命を犠牲にされた。多くのあざけりののしりを受けながら、私たちに尊い命を与えてくださった。私たちはイエスの生きざまというものを通して、私たちにはそう簡単にできない「愛」の本当のかたちというものを、身をもって示してくださったのだと。
 
私はそう簡単に自分自身の命というものを投げ捨てることはできません。しかし、生きていると人によるあざけりや中傷を受けることや、断片的な情報だけで自分自身という姿を判断されて、偏見を受けると感じることも時としてあります。もちろん、自分自身の未熟さや至らなさがそうさせることも十分に、かつ謙虚に認めなればなりませんが、いわれなきことゆえに結構傷つくこともあったりするのです。
 
しかし、そんな自分自身に付いた傷口を見つめながらも、だからこそ私たちのために傷つかれたイエスをただ見つめることが本当に慰めとなり励みとなる。そんな時に、たとえそれで自分自身のことが多少失われることがあったとしても、神がそのすべてをご存知であるゆえに、失うことに過剰な恐怖心というものを抱かずにいられるのだということを、今日の聖書の言葉からあらためて受け止めることができるのだと思います。
 
大切なのは、どんなに傷を受けることがあったとしても、救い主イエスのゆえに、神の助けによって、神の御前で誠実であり続けることであり、そのために今日も御言葉に聴き、祈り、聖霊様の助けによって歩むことなのだと私は思います。どうか、私たちのあいだに宿る平和が、そのような思いによって支えられますように。お祈りします。

04/02/2025

2025.2.4(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書23章29節
私の言葉は火のようではないか――主の仰せ。また、岩を打ち砕く槌のようではないか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙4章12節
神の言葉は生きていて、力があり、いかなる両刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
おととい昨日と黙想をお届けすることができませんでした。いつも読んでくださっている皆さまには、申し訳ありませんでした。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が受け取ったのは「神の言葉の鋭さ」というものでした。そのあたりについて黙想したことを書きつづりたいと思います。
 
こうして日々、聖書の言葉に耳と心を傾けるひと時が与えられているわけですが、神の言葉というものに鋭さというものを感じながらそれを受け取っているだろうか。そんなことをあらためて思わされたのです。習慣が惰性となってしまうばかり、ただ聖書の言葉に目を通してルーティーンをこなすかのように聖書の言葉というものに触れている自分があることに気付かされることが間々あるのです。
 
もちろん、その時のコンディションというものがありますし、まったく御言葉に触れていないよりはましだとも思うのです。そして、その時には凡庸に受け流すかのように聖書の言葉に接したとしても、あとになってハッと気づかされることもあるわけであって、その時に感動であるとか、鋭い刃物で突き刺されたような気持ちにさせられることもある。こういうことの繰り返しが結果として、神の言葉の鋭さというものにじかに触れることのできる体験となるのでしょう。
 
人を通して御言葉の取り次ぎ、解き明かしがなされることで気づかされることもありますし、神との深い対話のなかで発見できることもある。しかし、いずれにせよそうなるためには、まずは神の御言葉に聴くことがなければ、すべては始まらないのだと。
 
日々慌ただしいなかにあっても、何もすることがなくて手持無沙汰に過ごすことがあっても、聖書の言葉に聴くために少しでも時間を取ることによって得られる幸いというものを、今日も味わいたいと心から願いたい。これが今日の私に与えられた祈りの言葉でした。
 
「朝の15分があなたを変える。聖書を読む暇のない、祈れない時だからこそ毎日のディボーションを。」こう言ったのは、ちいろば先生こと故・榎本保郎牧師でした。祈れない時だからこそ、神の御言葉に聴くひと時というものを大切にしたいのです。
 
自分自身を神に変えていただくために、今日も歩むことができますように。皆さんの一日に、神の祝福がともに、豊かにありますように。お祈りします。

01/02/2025

2025.2.1(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ダニエル書12章2節
地の塵となって眠る人々の中から
多くの者が目覚める。
ある者は永遠の命へと
またある者はそしりと永遠のとがめへと。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙14章9節
キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。この七日間の旅路はいかがだったでしょうか。私は主に伯父のことで多くの時間を必要とする一週間でしたが、とても充実した日々を過ごすことができました。一方で本来しなければならなかったことをすべてこなせなかったので、それは来週への課題として気持ちを新たにして取り組もうと思いながら、一週間を締めくくりたいと思っています。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたのは「すべてが明らかにされるためにイエスは私たちのもとへ来られた」というものでした。そのことについて書きつづってみたいと思います。
 
今日の旧約聖書と新約聖書のどちらでも言及されているのは「死者の復活」です。旧約聖書では私たち人間の復活について、新約聖書については救い主イエスの復活についてそれぞれ語られています。復活という言葉は、単に死者がよみがえるということにとどまらず、やり直しできることなども私は復活が意味するところのひとつであると思っているわけですが、今日の聖書の言葉からは「すべてが明らかにされる」という意味でも、復活という言葉が指し示す者があるのではないかと思いました。
 
今日の旧約聖書の言葉であるダニエル書12章は、まさに新約聖書で言えば「ヨハネの黙示録」のような存在なのではないかと思います。私がかつてエホバの証人だったときは、この聖句が終末預言としてよく用いられていたのを思い出します。そしてダニエル書によると、死者の復活は何も永遠の命を得る人たちだけのためではなく、審判を経て永遠の苦しみを得なければならない人たちにもなされるというのは、とても興味深いことであると私は思います。
 
つまり、復活という出来事が最終的には、すべてが神によって明らかにされるための前提にあるものだということを、私は受け止めたいと思ったのです。すべてが明らかにされるときに、私自身の生き方というものも神によって明らかにされるのだと。それは死んでからの話にとどまらなず、生きていて今日を生きる一日一日に当てはまるのだということに、私自身心を寄せたいと思ったのです。
 
のちに救い主イエスが、生きている者にも死んでいる者にも救い主となられるために、ご自身が死なれ、また復活されたことが記されれているのが今日の新約聖書の言葉です。イエスの御復活は、神による祝福のなにものでもありません。しかし、その復活を私たちがどのように受け止めることができるのかというのと、私たちの生き方がどのようなものとして神に整えていただけるのかは、抜き差しならぬ関係にあるのだと私は思いました。
 
一週間を振り返るときに、私の生き方というものが主イエスによって明らかにされていることを心から感謝しつつ、明日への備えをしてまいりたいと思います。皆さんの一日にも、す辺手を明らかにしてくださる神の守りと祝福がともにありますように。お祈りします。