くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編66編12節
神よ、あなたは人が私たちの頭の上を乗り越えることを
お許しになった。
私たちは火の中、水の中を通ったが
あなたは私たちを広々とした地に導き出された。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二4章9~10節
私たちは迫害されても見捨てられず、倒されても滅びません。私たちは、死にゆくイエスをいつもこの身に負っています。イエスの命がこの身に現れるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句が指し示しているメッセージは「私たちをとことん守り続けてくださる神がともにおられる」ということだと私は受け止めました。そのことを黙想したいと思います。
今日の新約聖書の言葉は、伝道者パウロ自身が日々を歩むなかで、それが決して順風満帆ではなかったことをうかがい知ることができるものです。実際に使徒言行録に記されたパウロによる宣教の記録を見るならば、いかにキリストの救いを伝えることが命懸けであって、人々からの迫害が押し迫っていたかが分かるわけですが、そんなときにこそパウロの思いというものがどこにあったのか。今日の聖句はパウロの心底にあったものが浮き彫りにされています。
私たちは、死にゆくイエスをいつもこの身に負っています。
そのようにパウロは語っています。自分たちが痛みつけられているという現状をはるかに超越する、イエスの痛み苦しみが私たちを守ってくださっているのだと、パウロは力強く手紙の文面を通して私たちに伝えているのです。イエスが十字架の上で身体的にも精神的にも痛みの極みを味わわれたことで、イエスの命が今この私の身に表れているのだとパウロはつづりました。まさに、自分が経験している痛みをすべて負ってくださるイエスが、ともにおられるのだと。とことん私たちの命をイエスご自身の命で守ってくださるというのです。
だから、私たちは愛する者から、信頼関係のうえに成り立っていると思っていた隣人から見捨てられるようなことがたとえあったとしても、究極的な隣人であるイエスから見捨てられることは決してない。これがパウロ自身にとっての生きる支えになったのでした。
私自身がそうですが、基本的に苦しむことを好みません。できるならば、そういうものからは避けて生きていたいのです。しかし、この世の中で生きている以上、さまざまな価値観がある以上、自分自身の至らなさや欠けがある以上、そのような苦痛から逃げることはできません。クリスチャンになったからと言って、物理的にそういうところから離れて生きることができない。だからこそ、痛みを負ってくださる方がおられるというだけで、それは生きる支えになるに違いないし、実際そうであることを振り返りながら喜びたいのです。
今日もそのような救い主イエスが、私たちの苦しみをすべてご存知なうえでともに生きてくださる。そのことを胸にして生きることができますように。心から祈ります。