くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書23章29節
私の言葉は火のようではないか――主の仰せ。また、岩を打ち砕く槌のようではないか。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙4章12節
神の言葉は生きていて、力があり、いかなる両刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
おととい昨日と黙想をお届けすることができませんでした。いつも読んでくださっている皆さまには、申し訳ありませんでした。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が受け取ったのは「神の言葉の鋭さ」というものでした。そのあたりについて黙想したことを書きつづりたいと思います。
こうして日々、聖書の言葉に耳と心を傾けるひと時が与えられているわけですが、神の言葉というものに鋭さというものを感じながらそれを受け取っているだろうか。そんなことをあらためて思わされたのです。習慣が惰性となってしまうばかり、ただ聖書の言葉に目を通してルーティーンをこなすかのように聖書の言葉というものに触れている自分があることに気付かされることが間々あるのです。
もちろん、その時のコンディションというものがありますし、まったく御言葉に触れていないよりはましだとも思うのです。そして、その時には凡庸に受け流すかのように聖書の言葉に接したとしても、あとになってハッと気づかされることもあるわけであって、その時に感動であるとか、鋭い刃物で突き刺されたような気持ちにさせられることもある。こういうことの繰り返しが結果として、神の言葉の鋭さというものにじかに触れることのできる体験となるのでしょう。
人を通して御言葉の取り次ぎ、解き明かしがなされることで気づかされることもありますし、神との深い対話のなかで発見できることもある。しかし、いずれにせよそうなるためには、まずは神の御言葉に聴くことがなければ、すべては始まらないのだと。
日々慌ただしいなかにあっても、何もすることがなくて手持無沙汰に過ごすことがあっても、聖書の言葉に聴くために少しでも時間を取ることによって得られる幸いというものを、今日も味わいたいと心から願いたい。これが今日の私に与えられた祈りの言葉でした。
「朝の15分があなたを変える。聖書を読む暇のない、祈れない時だからこそ毎日のディボーションを。」こう言ったのは、ちいろば先生こと故・榎本保郎牧師でした。祈れない時だからこそ、神の御言葉に聴くひと時というものを大切にしたいのです。
自分自身を神に変えていただくために、今日も歩むことができますように。皆さんの一日に、神の祝福がともに、豊かにありますように。お祈りします。
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