くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編22編3節
わが神よ
昼に呼びかけてもあなたは答えられない。
夜もなお、私は黙ることができない。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙5章7節
キリストは、人として生きておられたとき、深く嘆き、涙を流しながら、自分を死から救うことのできる方に、祈りと願いとを献げ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。あっという間の一週間だと私は感じましたが、皆さんはいかがでしょうか。今、台北駅近くにあるYMCAホテルの部屋からこの黙想をつづっていますが、今週一週間あったことを振り返りながら、神がどのように私に与えられた生活に関わってくださったのか、それに対して私がどのようにそれに応えることができたのか。そんなことを思い巡らせていました。皆さんにとっても、良い振り返りの時としての今日の一日が、神とともにありますように。お祈りします。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に示されているのは、呼びかけても応えてくださらない神の姿かもしれません。しかし、そのような孤独のなかでも。神は必ずそのような叫びに応えてくださる。その真骨頂と言えるのがイエス・キリストに他ならないのだ。そんなメッセージがふたつの聖句をハーモニーのように響き合っているのだと私は受け止めることができました。
今日の旧約聖書である詩編22編は、イエスのご受難を予兆する言葉であるとも言われています。イエスが十字架のうえで「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのか(エリ、エリ、レマ、サバクタニ)」と神に向かって叫んだのは、詩編22編の冒頭にあるダビデの祈りに込められた叫びとつながります。ダビデも孤独のなかで神に「わが神、わが神」と叫びの声をあげました。その続きの言葉として、どんなに叫んでも神が応えてくださらないがゆえに、私の心が黙することができないほどに叫び声をあげたくなるのだということを歌っているのです。
どんなに神を信じていたとしても、私は自分の思うような願いがかなえられることを望んでいるのかもしれません。しかし、そうならない時に、私たちは果たしてどうなるのでしょうか。神が応えてくださらないことに不信や疑いを抱き、神の効き目の無さに失望して信じることを放棄してしまうのでしょうか。
神は私自身が願うようにすべてをかなえさせてくださるわけではありません。時には私自身にとってそうあって欲しくないということを、神は私自身に指し示すかもしれません。イエスは神に叫びました。しかし、神がイエスに差し出したのは十字架上での痛みと孤独でした。願わくば避けたいと思うようなむごたらしいことをです。
しかし、イエスはそれを甘受されました。神の御心ならばその苦い杯を受ける覚悟をもって、しかし、そのようななかで神に叫びの声をあげました。イエスの思いは正直でした。しかし、そのイエスの視線と思いは一貫して神に向き続けていました。十字架にかけられる前も最中も、イエスは何ら変わらず神とともに歩もうということに変わりはなかった。だからこそ、神はイエスを救い主として私たちに与えてくださるというご自分の御心を実現させてくださったのです。すべてが私たちのためにです。
このイエスに生かされている私たちがあるということを、私たち自身が忘れることなく、どんな時にもご自分の御心をもって私たちに命を与えてくださっていることを心の中で思い巡らせながら、感謝をささげる一日でありたいと思い、御言葉を受け止めることが出来ました。インマヌエル・アーメン!
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