17/02/2025

2025.2.17(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編40編11節
私はあなたの正義を心の中に秘め置かず
大いなる集会にあなたの真実と救いを語り
あなたの慈しみとまことを隠しませんでした。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一2章2節
私たちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中でもあなたがたに神の福音を語ったのでした。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
主の日が終わり、それぞれの日常に戻られることと思います。私も朝の便で日本へ戻ります。この一週間に起きた数々の出来事を胸にしつつ、新しく与えられた日々を歩んでまいりたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉ですが、選ばれたふたつの聖句を通して私が受け止めたのは「神が与えてくださった良いものを良いものとして伝え、分かち合うことへの幸い」というものでした。神がご自分の言葉を通して、また聖書の言葉を通して、そのように受け止めたいと思ったのです。
 
しかし、聖書は誤りなき神の言葉であるという私たちの信じている土台であったとしても、私たちがその言葉をどのように受け止めるかということは、とても重要なことなのだと私は思うのです。文字面だけを追い求めて神が伝えようとしている本質から乖離してしまうような聖書の読み方や受け止め方、伝え方というものが、本当に神の願いや望みなのだろうかとも思うのです。もちろん私なりの曲解ではなく、神が私たちに語ろうとしていることを誠実に求めていくのですが、文字にこだわるあまり本質からずれてしまうようなことがあってもならないのだと思います。
 
私たちが神からいただいた良いもの(それは「福音」と言うこともできるでしょう)が本当に良いものとして私たちに授けられるとするならば、それは枝葉のことではなく本質において充実しているということなのでしょう。あくまで枝葉が本質が明らかにされるための枝葉なのであって、枝葉だけを見て幹を見ることのない聖書の読み方や伝え方からは解放されたいと心から願うのです。
 
聖書の読み方は人の数だけあることは確かです。いろいろな解釈をする自由も与えられているのも確かです。しかし、聖書は「神の言葉」であることを私たちは忘れてはならないし、そこには自ら「ことば」となられた救い主イエスの思いが凝縮されているということも、私たちは心のうちに保ちながら、御言葉に聴く幸いというものを今日も味わっていきたいと思ったのです。それが、神が与えてくださる私たちの幸いへと直結するからです。
 
どうか、今日の一日も神の言葉が私たちを活かしますように。心からお祈りします。

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