くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
サムエル記上12章20~21節
心を尽くして主に仕えなさい。役にも立たず救うこともできない空しいものを求めて離れてはならない。それは空しいものなのだ。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙5章17節
愚かにならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
最初に、昨日は無事に伯父の弔いを執り行うことができました。葬儀司式と遺族代表というふたつの事柄を行うことは、予想以上に疲れをきたすものではありましたが、仙台宮城野教会の皆さんのお支えと会葬者の皆さん、葬儀社はじめ関係各位のご協力、そして何よりも皆さんのお祈りと、その祈りを聞いてくださる神の慰めと励ましのおかげで、すべてを終了することができ、心からホッとしています。まだ少々しなければならないことが残っておりますが、最後まで丁寧に作業してまいりたいと思います。心から感謝申し上げます。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が受け止めることができたのは「神の御心を神の御心として受け止める誠実さ」についてです。私たちには、究極的には神の御心がどこにあるかなどということを、100%知り得ることはできません。それをできる限り知ろうとするならば、聖書を通して知ることのできる神の御言葉と、その御言葉を理解するための助けとして私たちに与えられた聖霊と、聖書と聖霊の両輪によって歩んできた教会の歴史という営みという3点に尽きるのではないかと私は考えています。
ただし、御言葉にしても、聖霊の導きにしても、教会の歩みにしても、それを解釈して、受容して、それを実行するのは、私たち人間であるということです。その人間は根本的な「罪」を抱えながら生きているわけですから、神の御心を100%キャッチして生きるということなど、土台無理な話なのだと私は思います。必ずどこかに「取りこぼし」というものがあるのです。だからこそ、完璧な平和など私たちの現実にはあり得ないのです。悲しいかな、これが私たちの現実なのです。
だからこそ、神の御心をできるかぎり神の御心のままに受け取ろうとする私たちの誠実さが問われているのでしょう。御言葉にしても、聖霊の導きにしても、キリスト教会の歴史にしても、それを受け止めようとする私たちの主観が入ってしまうことを考えれば、そのいずれも先鋭化しすぎることによって、神の御心を知らず知らずのうちに「私自身の御心」にすり替えてしまうのだと。私(たち)自身には、そういう危うさがあるのだということを心の片隅に置いているだけで、神の御心を受け止めようとする私自身が、柔軟にそれを受け入れることができるだろうし、聖書・聖霊・教会のあいだに節妙なバランスが保たれることによって、神の御心が見えてくるのだろうと。私はそういうことを心から信じて歩みたいのです。
今日も私たちの生活すべてに、神の御心が余すところなく働くことを信じて、私自身のありようをも見つめることができますように。お祈りします。
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