くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書6章16節
古くからの通り道に尋ねてみよ
「幸いの道はどこにあるのか」と。
その道を歩み
あなたがたの魂に安らぎを見いだせ。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙6章11~12節
私たちは、あなたがた一人一人が、同じ熱心さを示して、最後まで希望を持ち続けてくれるよう願っています。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束を受け継ぐ人たちに倣う者となるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
昨日は氷点下の軽井沢から次の出張地である台北へ移動しました。今の気温は14度で雨音がホテルの外から聞こえてきます。詳細を記すことは控えますが、今日は大切なミーティングがあります。万事神が導いてくださいますように、祈りつつ臨んでまいりたいと思います。
さて、今日の旧約聖書のことばは、昨日の旧約聖書の続きとして書かれているものが選ばれています。旧約聖書は「くじ」で選ばれていますので、続きの聖句が選ばれるのは本当に珍しいと思いました。それをお選びになった神の意図はなんだろうかと思いながら、黙想をしたいと思いました。
昨日の旧約聖書の言葉が示していたのは、神の意図を自分自身で都合よく曲解することによって起こる、人間の偽りの姿についてでした。この偽りこそ認知のゆがみであって、それは意図的に嘘をついたりしていなくても、神が本来人間に期待した神の真実によって生かされる姿とはかけ離れているという意味での「偽り」であったのではないかと黙想をしました。
そのような認知のゆがみこそ、今日の聖句で言われている「歩むべき道の選択」というものに関係してくるのだと私は受け止めたのです。どのような道を歩むことが、神とともにある自分自身の姿としてふさわしいのだろうかという、冷静でありながらも神の熱情に生かされることによって起きる幸いというものを、私たち自身が神に与えられた自由意志をもって選び取っていきたいと思ったのです。そのためには、神の言葉に照らし合わせながら、自分自身の歩みに問い尋ねることが必要なのだと。これこそ黙想の肝となることなのだと、あらためて思わされたのです。
神は、そのような私たちの営みを必ず祝福してくださる。魂に安らぎを見い出すことができるような道へと必ず導いてくださるということを、今日を生きる希望としたい。これこそ、イエス・キリストという信仰の実体が私たちに与えられたことによる熱心と希望なのだと。今日の新約聖書の言葉であるヘブライ人への手紙の一節が伝えようとしていることなのだと受け止めることができました。
どうぞ今日の一日もまた、神が与えてくださる希望が生きる礎となりますように。お祈りします。
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