くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ダニエル書12章2節
地の塵となって眠る人々の中から
多くの者が目覚める。
ある者は永遠の命へと
またある者はそしりと永遠のとがめへと。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙14章9節
キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。この七日間の旅路はいかがだったでしょうか。私は主に伯父のことで多くの時間を必要とする一週間でしたが、とても充実した日々を過ごすことができました。一方で本来しなければならなかったことをすべてこなせなかったので、それは来週への課題として気持ちを新たにして取り組もうと思いながら、一週間を締めくくりたいと思っています。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたのは「すべてが明らかにされるためにイエスは私たちのもとへ来られた」というものでした。そのことについて書きつづってみたいと思います。
今日の旧約聖書と新約聖書のどちらでも言及されているのは「死者の復活」です。旧約聖書では私たち人間の復活について、新約聖書については救い主イエスの復活についてそれぞれ語られています。復活という言葉は、単に死者がよみがえるということにとどまらず、やり直しできることなども私は復活が意味するところのひとつであると思っているわけですが、今日の聖書の言葉からは「すべてが明らかにされる」という意味でも、復活という言葉が指し示す者があるのではないかと思いました。
今日の旧約聖書の言葉であるダニエル書12章は、まさに新約聖書で言えば「ヨハネの黙示録」のような存在なのではないかと思います。私がかつてエホバの証人だったときは、この聖句が終末預言としてよく用いられていたのを思い出します。そしてダニエル書によると、死者の復活は何も永遠の命を得る人たちだけのためではなく、審判を経て永遠の苦しみを得なければならない人たちにもなされるというのは、とても興味深いことであると私は思います。
つまり、復活という出来事が最終的には、すべてが神によって明らかにされるための前提にあるものだということを、私は受け止めたいと思ったのです。すべてが明らかにされるときに、私自身の生き方というものも神によって明らかにされるのだと。それは死んでからの話にとどまらなず、生きていて今日を生きる一日一日に当てはまるのだということに、私自身心を寄せたいと思ったのです。
のちに救い主イエスが、生きている者にも死んでいる者にも救い主となられるために、ご自身が死なれ、また復活されたことが記されれているのが今日の新約聖書の言葉です。イエスの御復活は、神による祝福のなにものでもありません。しかし、その復活を私たちがどのように受け止めることができるのかというのと、私たちの生き方がどのようなものとして神に整えていただけるのかは、抜き差しならぬ関係にあるのだと私は思いました。
一週間を振り返るときに、私の生き方というものが主イエスによって明らかにされていることを心から感謝しつつ、明日への備えをしてまいりたいと思います。皆さんの一日にも、す辺手を明らかにしてくださる神の守りと祝福がともにありますように。お祈りします。
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