12/02/2025

2025.2.12(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書6章13~14節
小さな者から大きな者に至るまで皆、暴利を貪り
預言者から祭司に至るまで皆、虚偽をなす。
彼らは、わが民の傷を安易に癒やして
「平和、平和」と言うが、平和などはない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙12章9節
愛には偽りがあってはなりません。悪を退け、善に親しみなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今朝は軽井沢南教会の一室から黙想をお届けします。昨日の2.11集会(於・長野県町教会)を終えて、先輩牧師である宮澤豊牧師が長年伝道牧会されているこの教会で一泊させてもらっています。今の気温は何とマイナス7度(午前5時)。キリリとした朝を迎えました。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「偽り」です。偽ることが良い出来事ではないということは、私たちの誰もが知っています。今日これらの聖句を通して黙想したのは、偽るというのは、単に嘘をつくということにとどまらないものなのだということです。もう少し具体的な言い方をすれば、神が私たちに望まれ、期待しておられることに背を向ける生き方にこそ、偽りの本質というものがあるのではないか。そのように感じたのです。
 
今日はエレミヤ書の言葉に注目したいと思ったのですが、安易に人を傷つけて、平和平和と叫ぶ人たちの姿こそ、偽りの示す姿なのだということをあらためて知ることができたのです。神の望まれることは、ご自分が愛をもって創造された人々が「傷つかない」ことであると私は思います。しかし、現実の世の中で、私たちがまったく傷つかないということは無理であることはよく知っています。そして、私たちが傷ついたとしても、他者を傷つけて良い理由などどこにもないことをも、私たちはよく知っているはずです。
 
ですから、神が望まれないような生き方というものを好戦的に行おうとするならば、神の似姿として生きる私たちはすでに、偽りを自分自身の身に帯びながら生きているということになるのではないか、そのように思ったのです。たとえ嘘をつくことがなかったとしてもです。
 
平和でないのに、平和であると叫ぶならばなおのことです。自分は平和かもしれない。しかし、平和とは人と人とを神が結び合わせたときにはじめて成立するものであるということを、やはり私たちは忘れてはいけないのだと思います。だからこそ、今日の新約聖書の言葉のなかで、パウロが「愛には偽りはあってはならない」と述べたのも、私たちはしばしば愛をはき違えて、自分自身の思いの赴くままにそれを利己的に表してしまうことだってあるのです。私もその一人であり、そのたびごとに思い違いに気づかされること数あまたです。
 
だからこそ、偽りという言葉の意味というものについて、表面的なことにとどまらない思いをもって、今日の一日を過ごしてまいりたいと思いました。どうぞ皆さんの一日にも、神様がご自分の愛をもって臨んでくださいますように。お祈りします。

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