くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨブ記12章16節
力と洞察は神と共にあり
惑う者も惑わす者も神のものである。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一2章4節
神は、すべての人が救われて、真理を認識するようになることを望んでおられます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
******
皆さん、おはようございます。
週末週明けの2日間は、黙想をお届けすることができませんでしたので、今日から再開して、神の御言葉の幸いを味わいたいと思います。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私は自分自身のうちにある「認知」について考えていました。決して認知症のことを言っているのではありません。私が神の御言葉に向き合うときに、どのような思いを抱きながら向き合っているだろうかという意味での認知です。この認知無くして、健全な判断や決断はできないのだといつも意識しているつもりですが、はて、本当にそうなのだろうかとあらためて思わされるのです。
大切なことは、自分自身の思いや考えというものが、神が願っておられることと沿っているだろうかということなのですが、私はスーパーマンでも知者でもないただの人間、それどころか自覚しているだけでも、ああ、これは明らかに思い違いだぞと思わされることが多々ありますので、自分が神の御心に沿って歩んでいるという自負があったとしても、それは甚だ怪しいのもまだ事実なのでしょう。そこに自分自身の眼を留めることができるのだろうかということを考えさせられるのです。
今、SNSなどで話題になっていることのひとつに、ある聖書解釈をめぐってそれが本当に聖書で言われている事なのだろうかと問題提起がなされ、聖書的だ、いや聖書的ではないという議論があるのをしばしば目にします。その双方も、聖書にもとづいて真摯に向き合った結果であることに間違いないと思います。しかし、とても残念に思うのは、それが正義からなのでしょうか。相手と自分が違う意見を持っているから批判すること自体は悪いとは思わないのですが、正義が昂じるあまり、口汚く、そして下品と言って良いほどに非難する向きも多少あるということです。
SNSというものは、使いようによっては大変有効なツールだと思いますが、その逆もしかりで、それの用い方というものが、神の思いや願いに沿ったものになっているだろうかということを、立ち止まって考えることは本当に大切だと自戒を込めて思わされるのです。
私たちに神が与えてくださった力と洞察は、あくまで神由来のものであるというところに、私たちは自分の言動を神によって整えていただく者でありたいと心から願いました。今日の新約聖書の言葉にも「真理を認識する」という言葉でそのことが表現されています。ただ知識として知るのではなく、心で理解することの大切さと幸いというものを、今日の一日もまた大切にすることができますように。皆さんの主にある守りと幸いを心からお祈りします。
0 件のコメント:
コメントを投稿