くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書40章13節
誰が主の霊を計り
助言者として主に教えたのか。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書3章8節
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
ここのところ、コンスタントに黙想をお届けすることができず、大変心苦しいばいかりです。まことに申し訳ありません。今日、伯父の葬儀を執り行います。遺族の代表でありながら葬儀を司式する立場となりますが、ひとりの神に愛された隣人の弔いを、心を込めて行いたいと思います。心の片隅にでも、祈りにお憶えくだされば幸いです。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「霊」という言葉であると私は受け止めました。神の霊が働かれるとは一体何を意味するのだろうかということを、あらためて思わせる問いかけの言葉が、今日の旧約聖書であるイザヤ書で語られています。誰が主の霊を計るのかと。
私たちは神の霊が私たちひとりひとりの心と思い、身体に働かれるときに、それをどのように受け止めることができるのでしょうか。それは私たちひとりひとりの感性や知性というものとあいまって、霊の働きというものを認識するのですが、そのときに大切なこととは、私たちの感性や知性というものが、何によって形づくられているだろうかということへの洞察なのだと私は思います。
別な言い方をしますと、神の霊を受信できるような感性や知性というものを、私たちは大切にしているだろうかということです。ですから、私たちは自分のうちに持っているチャンネルというものがどこを向いているのかというところに、深い関心を抱くことが期待されているのだと思うのです。どんなに素晴らしい受信機を持っていたとしても、チャンネルが合わなければ電波をキャッチすることはできませんし、情報を知ることもできないわけです。
だからこそ、私たちが「主の霊」を計ろうとするときに、自分自身がどこを向いて歩もうとしているのかということを是非確かめながら、神の霊によって生きるということの意味と幸いというものをとらえていきたいと心から願わされます。この願いこそ、今日の新約聖書の言葉でイエスが言われた「霊によって生まれる者」のスタートとなるのでしょう。
私たちが自分のうちに与えられた感性や知性が、神の霊の導きによって整えられますようにと祈りつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんそれぞれに与えられた一日もまた、そのような神の霊の促しによって、幸いな時となりますように。心からお祈りします。
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