18/02/2025

2025.2.18(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書49章23節
王たちがあなたを養育する者となり
こうして、あなたは知るようになる。
私が主であり
私を待ち望む者は恥を受けることはないと。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書12章11~12節
会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
気温20度近い台北の街から仙台の街へ戻ってきて、今朝は雪の朝を迎えました。今は氷点下2度です。今日から大きな寒波がやって来るとのこと。仙台はまだまだ良いほうですが、この寒さゆえ、雪ゆえに不便を感じるすべての方々の安全が守られるように、心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたのは「聖霊の受け止め方」についてでした。今日の新約聖書の言葉は、イエスによって弟子たちに語られた励ましの言葉であると私は思います。太刀打ちできないと思えるようなこの世の中の空気や相手に対して、自分自身が神から守られ、救いを受け取っている者として大切なこととは、人を恐れるのではなく、この世の空気におびえるのでもなく、神が私たちのために与えてくださる聖霊の導きというものをただただ信じて歩むということ。そのことをイエスは私たちに対して、この世を神とともに生きるための励ましとしてお与えになられているのだと感じたのです。
 
しかし、その時に私たちがより大切にしなければならないのは、聖霊を感じ取り、受け取る「受信器」である私たち自身のことだと私はあらためて思わされています。どんなに良いものが私たちに与えられていたとしても、私たちの側にその価値を知ることができなかったり、自分自身の内側にあるものがゆがみ切っていたのでは、それを健全なかたちで受け取ることができないのだと私は真剣に感じたいと思ったのです。
 
聖霊という言葉はとても強いものだけに、聖霊の導きとひと言発せば、それが本当に「神の意志」のようにとらえることもあれば、感じさせてしまうことだってあるのだと思うのです。単なる個人的感想、私自身の願望を「聖霊」という名前にかぶせてしまい、それをよろいかぶとのように補強しながら遂行してしまうのであれば、それはもはや神の意志でもなんでもなくなってしまうのです。偽りの姿というものをもって自分のわがままというものを他者に対してさらけ出してしまうことになるでしょう。
 
そうであってはならないのです。あくまで神は何を考え、何を想い、私たちに向き合ってくださっているのだろうか、私たちをどのように扱ってくださるのだろうか。そのことを常日頃から聖書の言葉に聴きつつあるところにこそ、聖霊が神の霊として働いている現実というものを、私たちは感じることができるのだと思うのです。私たちの社会に聖霊がどのように働き、私たちがその働きをどのように受け取ることで、神とともに生きる幸いというものが私にとって無くてはならない大切なものとすることができるのかを、私は今日の聖句を通して受け取りたいと思いました。
 
そのような営みのなかにこそ、神がヤハウェというお名前をお持ちであり、私たちとともにいてくださることを心の底から理解する者にさせてもらえるのだということを心の励みとすることができますように。皆さんの一日に、そのような神の助けと祝福が豊かにありますように。お祈りします。

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