くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編63編2節
神よ、あなたこそわが神。
私はあなたを探し求めます。
魂はあなたに渇き体はあなたを慕います。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録22章17節
渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「渇き」です。そして、その渇きをいやされる神が私たちを招き、ともにいてくださるというメッセージが語られています。
私は今朝起きたときに、喉が渇いているのを感じました。冬場で空気が乾燥しているからということもあるでしょうし、前の晩に少々塩辛いものを食べたからということもあるかもしれません。理由はともあれ、喉の渇きを感じたのでした。そして、台所に行って水道からコップに水を注いで、一杯の水を口に含むと、冷たい水の心地よさが喉を通ってすっきりすることができました。
この時には、まだローズンゲンの言葉に触れていませんでしたので、いざ今日の聖句をいただいたときには、とても時宜にかなったものを感じたのでした。おそらく詩編の歌い手ダビデ王にしても、幻のなかでヨハネが観た神の呼びかけにしても、生きることの幸いというものを、水を飲むときの爽快さになぞらえながら、私たちの渇きをいやしてくださる神の存在を明らかにしようとしたのだなと思わされたのでした。
私たちは時に喉の渇きを感じることがあっても、命が危ぶまれるほどの渇きというものを実際に経験していないかもしれません。水資源の豊富な日本であればなおのことだと思います。ですから、これは私だけかもしれませんが、私自身このような渇きという言葉が聖書に記されているときに、どれだけのリアリティというものを抱いているかと言えば、はなはだ怪しいものを感じたりもするのです。
しかし、その渇きこそ、神の助けをしたい求めて、神の言葉が自分自身を生かす無くてはならないものと心から感じるときに、喉の渇きをいやすように神を求めた結果、神が差し出してくださる一杯の水に、これまでどれだけ癒しというものを実感してきただろうかと振り返ることができるのは、本当に感謝なことなのだと思わずにはいられないのです。
聖書の舞台となったイスラエルや地中海沿岸は、日本ほど水の確保が容易ではありません。それだけに、聖書が書かれた背景に「渇き」という言葉が描かれているというのは、私が想像する何十倍もの幸いを感じる機会だったのだろうと思うのです。そんな幸いを胸にして、今日という一日を歩むことが出来ますように。皆さんの主にある平安と祝福をお祈りします。
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