05/02/2025

2025.2.5(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書50章6節
打とうとする者には背中を差し出し
ひげを抜こうとする者には頰を差し出した。
辱めと唾から私は顔を隠さなかった。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書15章13節
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲン、特に新約聖書・ヨハネによる福音書15章13節の聖句に私が初めて触れたのは、中学を卒業する時でした。当時、私は「エホバの証人」になるべく、その準備をしていた頃だったのを思い出します。イエスが弟子たちとの最後の夜を過ごすなかで語られたこの言葉の意味というものを、私はよく理解していなかったと思います。しかしこども心、思春期真っただ中を生きていた私にとって、この言葉はとても重く、また感動を覚えたことを、今でも思い出すことができます。
 
友のために命を捨てること。実際にそのような場面に即したときに、自分の命を失ってでも人を助けようとする逸話というものを、私たちは時々聞くことがあるでしょう。その献身的な姿というものに感銘を受けながらも、では、いざ私がその場面に遭遇した場合、そんなことを果たしてできるのだろうかと思うのです。私だったら自分の命欲しさに、そんな勇気すら出てこないかもしれません。何とかして次善の策というものを考えて対処し、それでもだめだったら諦めてしまうということすらしてしまうのかもしれないのです。
 
そんな意気地のない私ですが、同時に思わされるのは、私たちのために本当にそうしてくださった方がおられるという真実があるということです。イエスは私たちという友のために、自分の命を犠牲にされた。多くのあざけりののしりを受けながら、私たちに尊い命を与えてくださった。私たちはイエスの生きざまというものを通して、私たちにはそう簡単にできない「愛」の本当のかたちというものを、身をもって示してくださったのだと。
 
私はそう簡単に自分自身の命というものを投げ捨てることはできません。しかし、生きていると人によるあざけりや中傷を受けることや、断片的な情報だけで自分自身という姿を判断されて、偏見を受けると感じることも時としてあります。もちろん、自分自身の未熟さや至らなさがそうさせることも十分に、かつ謙虚に認めなればなりませんが、いわれなきことゆえに結構傷つくこともあったりするのです。
 
しかし、そんな自分自身に付いた傷口を見つめながらも、だからこそ私たちのために傷つかれたイエスをただ見つめることが本当に慰めとなり励みとなる。そんな時に、たとえそれで自分自身のことが多少失われることがあったとしても、神がそのすべてをご存知であるゆえに、失うことに過剰な恐怖心というものを抱かずにいられるのだということを、今日の聖書の言葉からあらためて受け止めることができるのだと思います。
 
大切なのは、どんなに傷を受けることがあったとしても、救い主イエスのゆえに、神の助けによって、神の御前で誠実であり続けることであり、そのために今日も御言葉に聴き、祈り、聖霊様の助けによって歩むことなのだと私は思います。どうか、私たちのあいだに宿る平和が、そのような思いによって支えられますように。お祈りします。

0 件のコメント:

コメントを投稿