10/10/2023

2023.10.10(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ゼファニヤ書3章12節
私はあなたの中に
貧しい者、弱い者を残す。
彼らは主の名を逃れ場とする。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一1章28~29節
神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。力ある者を無力な者にするため、無に等しい者を選ばれたのです。それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。 
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
連休も終わり、通常の生活に戻ったという方も多くおられるのではないかと思います。こういう時、牧師という職についていますと、世の中の動きにあまり連動していないことに気づかされます。日曜日は礼拝、休日もさまざまな行事が入ることがあります。ですので、休日はあるのですかと聞かれることも多々あるのですが、それなりに休めるときにゆっくりと休むことができるのも、牧師ならではであるかもしれません。昨日は東京に行き大学で講義をしたあと、友人の同業者に会って楽しいひと時を過ごしました。宿で一泊し、これから新潟へ向かいます。ある教団の教職者会でカルトについての学びをともにします。そしてゆっくりと時を過ごしたいと思います。
 
さて、今日の旧約聖書・ゼファニヤ書にある「貧しい者、弱い者」とは、いったい誰のことを指すのだろうか。そんなことに思いを寄せながら、聖書の言葉に向き合いたいと思いました。昨日の大学の講義(倫理学を講じています)で、学生たちに「弱者とは誰か?」ということを一緒に考える機会を持ちました。人によって弱者の視点が違うことに気づかされます。誰もが見て分かる弱者でも、本人は弱者と思っていない。そういう認識のズレというものが意外に多いことに気づかされるのです。
 
キリスト教の世界においても、弱者とは誰かということに私たちが注目する時に、あらゆる弱者を取り上げることができるかもしれません。しかし、私たちは聖書を通して、忘れてはいけない弱者の存在に、なかなか気付けないことがあるのだと思うのです。その弱者とは、私そのものであると。。。
 
そのことを、後になって使徒となったパウロは、自分自身のことを想定しながら、弱さについて語ります。パウロはある種の強さ、世の中が評価する強さを持ちながらも、自らの内面については、いかに弱い人間であるかという強い自覚を持ち備えていたと言われています。自分は本当に取るに足らない弱い者なのだと。しかし、そんなパウロも、神がいてくださるからこそ、自分は弱くされ、打ちのめされても、神の強さによって生きていくことができるのだと。自分が強いと思い込んでいる驕りも打ちのめされる代わりに、神の強さが自分のいのちに響き渡るのだと。こうパウロは手紙に書きしたためました。
 
弱く、小さくされた自分自身。しかし、その弱さに働いてくださる神の恵み。そんなことを想いながら、一日を過ごしてまいりたいと願います。皆さんの一日に、神の守りと祝福がゆたかにありますように。お祈りいたします。

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