02/10/2023

2023.10.2(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書30章26節
主がその民の傷を包み
その打ち傷を癒やされる日
月の光は太陽の光のようになり
太陽の光は七倍となり
七日分の光のようになる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一2章24節
キリストの打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
随分秋らしい朝を迎えました。エアコンを付けなくても、涼しい朝を迎えることができるなんてと、長かった夏を思い起こしながら嬉しさを感じています。考えてみればもう10月です。今年の秋は短いと言われていますが、寒さに突入する前に、快適なひと時を存分に楽しみたい。そんな気持ちをもって、鳥のさえずりを聴きながら、今日の聖書の言葉に向き合いたいと思います。
 
今日の聖書の言葉を通して、私は「毒をもって毒を制す」ということわざが思い浮かびました。毒が中和されるために他の毒を用いるということから、本来ならば、悪事には悪事を、悪人には悪人を利用することによって、それらの悪事や悪人全体を滅ぼすといった、あまり良い意味ではない用いられ方がされたりします。
 
しかし、私は今日の聖書の言葉、特に新約聖書であるペトロの手紙の言葉を通して、私たちの傷が癒されるためには、究極的な「傷」が必要だった。それが、イエス・キリストが十字架の上で負われた「刺し傷」であったということを、私たちはこの聖書の言葉から改めて気づかされます。まさに「傷をもって傷を制す」と言えるのではないかと思ったのです。
 
私たちは自分の傷が癒されるために、イエスを十字架にはりつけにしたのだとも言えるでしょう。しかし、イエスが十字架につけられた時に、その場にいた民衆たちは、もちろんそんな意図は少しもありませんでした。憎しみに扇動されながら、イエスを十字架につけたのでした。ただ、イエスを十字架につけたときに、その場に渦巻いていた憎しみこそ、私たちが負い続けた「傷の産物」とも言えるのだと私は思います。
 
私たちは無意識のうちに人を傷つけることがあります。そして、その傷に無意識なことも多くあります。逆に傷つけられたという感情は、いつまでも傷として残り続けることがある、その傷が私の心の中でうずくときに、それがあらゆる負の感情を新たに生み出したりすることが往々にしてあるのを、私たちはよく知っています。いずれにせよ、私たちのうちに存在する傷は、自分自身のなかで解消することが本当に難しいのだと思います。
 
昔、ある人がこんなことを言っていたのを思い出しました。傷口は残る。しかし、その傷口を見て笑える日が来ればこんなに良いことはない。私たちのうちに笑いを起こさせてくださる御方、それがイエスなんだと。
 
私は、ああなるほどと、その時に思ったことを思い出しました。今から20数年前のことでした。その時、私はどうしようもない憎悪の念を、ある人に向けていたことがありました。憎くて憎くてしょうがない。しかし、そんな憎しみからも解放されたい自分もある。まさに、アンビバレンスな感情が私を襲い続けていたのです。
 
しかし、あれから20数年が経過し、その時の記憶は忘れることはなくても、憎悪の念はどこかに消えてしまった自分自身を見い出します。この憎しみは教会の中で起こったことでしたが、教会において、御言葉に聴き続け、神と祈りを通して対話するなかで、神が備えてくださった多くの出会いのなかで、私は徐々に癒されていったのだと思います。水に流すわけでもない、傷口が残りながらも、それを余裕をもって眺めることのできる時が本当にやってきたのでした。
 
そんな言葉が、今日与えられた御言葉なのだと、改めて気づかされたのでした。今日の旧約聖書の言葉にもありますように、それが7倍にも輝きわたる月光・日光となって、今日の一日を歩むための源として喜びつつ、生きてまいりたいと願います。皆さんの一日にも、そのような神の輝きがさんさんと照りわたりますように。お祈りいたします。

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