くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書49章4節
しかし、私は言った。
「私はいたずらに苦労し
意味もなく、空しく力を使い果たしました。
それでも、私の公正は主と共にあり
私の報酬は私の神と共にあります。」
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書5章5節
シモンは、「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された、旧約聖書・イザヤ書49章4節に「私の公正」という言葉が登場します。この言葉に、私は注目してみたいと思ったのです。
公正。ただ正しいのではありません。誰の目から見ても、そして、神の目から見ても「正しい」のです。ここに、私たちはしばしば「勘違い」することがあるのではないかと私は感じるのです。この正しさは本当に「公正」なのだろうかと。
私のなかだけで正しいと感じてもダメなのです。誰の目から見てもです。私たちは自分が正しいことを正しいと信じて行動する存在です。しかし、それは時に、極めて独善的な、人の幸福などお構いなしで強行されることだってあるのです。私さえ気持ち良ければそれでいいのです。こういう態度から私たちは衝突を生み、格差が生じ、いびつな構造が生まれていく。これを「公正」とは決して言わないのです。
究極的に言えば、私たちは「私の公正」などを、自分の力で行使することなどできません。私以外の「公正」こそが、私自身に公正ということを教え、諭し、そのように生きるように促すのです。これこそが神の公正(原語でミシュパート)なのだと言うのです。私たちは、神の公正をしっかりと、ゆがみのない形で受け取ってこそ「私の公正」という言葉がはじめて成立するということなのです。
私の公正は、しばしば「労苦」を生じさせます。公正のふりをする、公正の名のもとに傍若無人に振舞う、自他ともに働くそのような力によって、徒労感を生ませ、ストレスを抱き、疲れさせてしまいます。しかし、私の公正が本当に神の働かれる公正に基づくものであるのならば、そのような徒労感は、必ず神である主によって取り除かれることを心から信じたいのです。
夜通し漁をしたけれど何も捕れなかったシモンの徒労感がありました。彼にとっての経験や知識は、彼なりの公正であったかもしれません。しかし、彼は「お言葉ですから」とイエスに告げ、イエスの言われた通りにもう一度、網を湖に落としました。その結果は、イエスの公正が豊かに働く結果となりました。あふれんばかりの魚が捕れたのです。
私の公正とは神の公正を十分に受けたところで初めて働くものであることを、私は今日のふたつの聖句から受け取りたいと思いました。それに抗うさまざまな出来事に苦労しつつも、その苦労があるからこそ、神の正しさに自らを委ねて今日を生きたいのです。この一日が少しでも、神の平安を味わうものであるためにです。皆さんの主にある平和を、心からお祈りします。
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