くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編71編23節
私の唇は喜び歌い、あなたに贖われた私の魂はあなたをほめ歌います。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章63~64節
父親は書き板を持って来させて、「その名はヨハネ」と書いたので、人々は皆不思議に思った。すると、たちまちザカリヤは口が開き、舌がほどけ、ものが言えるようになって、主をほめたたえた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用
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皆さん、おはようございます。
昨晩はたっぷりと休んで、朝もゆっくりと起きました。今日は午後に会議に出席するために東京へ向かっています。今、その車中からこの黙想をつづっています。
今日のローズンゲンによって選ばれたふたつの聖句に共通するキーワードは「賛美」です。賛美の歌を歌うこと。私たちはそれがたとえ賛美で無かったとしても、歌うということに喜びや楽しさ、心の満たされるような思いにさせられることをよく知っています。
私たちは教会の礼拝で賛美歌を歌うことがあるでしょう。歌うことが好きな方は、音符が自由に読める方は、歌うことに大きな充実感のようなものを感じるに違いありません。歌うのが苦手、声が小さい、そういう方でも、まわりで歌われるその歌声に、うっとりすることもあるかもしれません。もしかしたら、賛美歌に好き嫌いがあるかもしれません。歌詞にこだわりがあるかもしれません。自分の感覚に合わない、そんなことを思ったりするかもしれません。好き嫌いがあるということは、それだけ関心があるということの表れかもしれません。
いずれにせよ、歌うということが、私たちの生活ち切って離せないものであることは確かですし、神の民が長い歴史のなかで、神とともにあることの喜びの表現方法として、賛美という方法が用いられ続けてきたことを考えれば、私たちが賛美というものに、どのように向き合うことができるかについて、じっくりと考えることができるのではないかと私は考えます。
今日の聖句に「贖い(いわゆる「つぐない」と言ってもよい意味の言葉)」や、長い期間口から言葉を発することができなかったひとりの老人が、神によって再び話せるようになったときの心境として、賛美の歌を歌っていることに、私たちは注目したいと思います。賛美はなにも、順風満帆なときだけに歌うものではありません。つぐなってほしいとき、つぐなわなければならないと思っても、なかなかそのことが果たせない時、悩み苦しむとき、そして不自由を感じるときに、私たちはその想いを「神とつながるための大切な道具」として、賛美をゆたかに用いることができるのです。
このような思いが賛美に結び付いたとき、たとえ歌わなくても、歌ったとしても、その場にはえもいわれぬ充足感というものが満ち溢れるに違いありません。聖霊なる神がそのようにしてくださるのです。
私たちの誰もが、今日の営みのなかで、神とともにある喜びや望みを賛美に託すことができますように。皆さんが神に祝福されてお過ごしになられますように。心からお祈りします。
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