くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ヨシュア記1章9節
強く、雄々しくあれと、私はあなたに命じたではないか。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章9~10節
(パウロの言葉)私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用
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皆さん、おはようございます。
昨日から出張で韓国に滞在しています。韓国と日本の両教会が協働して行われ続けてきた「異端・カルトセミナー」に出席するためです。日本側の発題をする役目をいただいています。無事にやり切れるよう、お祈りくだされば幸いです。よろしくお願いいたします。
そんな緊張と不安のなかにある私に、「強く、雄々しくあれと、私はあなたに命じたではないか」という、今日のローズンゲンに示された旧約聖書の言葉は、相当響くものがありました。強くあること、雄々しくあることとは、別に私自身がストレス耐性がしっかりしていて、何事にも負けない強靭な精神力をもって、強く雄々しくあるわけではありません。むしろ逆です。その体も心も、本体は実に脆弱なものであることを、私たちがいかに自覚できるか。そこにこそ「強く、雄々しくある」ことの基盤というものがあると、私は受け止めたいのです。
弱いからこそ、頼りないからこそ、もっとも強く、雄々しくある方が、私たちのことを見放さずに共に歩んでくださるのです。それゆえに、私たちはその方の力強さにしっかり支えてもらって、その方がご自分の思い願いを、私を用いて果たさせてくださるのだ。ここから生じる安心感こそ、私たちが「強く、雄々しくあれ」と命じられた根本にあるのだと思うのです。
もっとも強く、雄々しくある方こそ、私たちの父なる神に他なりません。そして、この父が、私たちの命を救うために、この世界に遣わしてくださった方、み子イエスこそ、キリスト(救い主)であり、聖霊の助けをもって私たちと共に、具体的に歩んでくださるというのです。実際にイエスも、その強さとは裏腹に、十字架に架かられたときには、弱さというものをさらけ出して、私たちに見せてくださいました。「人間とは弱いものだ。しかし、その弱さこそ、神の力によって強くさせられるのだ」と。
さまざまな苦難を味わったパウロが、今手紙を書き送っているコリントのクリスチャンたちへ、その弱さというものに触れながら、このように手紙にしたためました。「神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています。」
神に望みを置くことのできる一日でありますように。皆さん、そして私自身のためにも祈りを合わせます。どうぞ主にあって、素敵な一日をお過ごしください。
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