くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書40章30~31節
若者も疲れ、弱り、若い男もつまずき倒れる。
しかし、主を待ち望む者は新たな力を得
鷲のように翼を広げて舞い上がる。
走っても弱ることがなく
歩いても疲れることはない。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙12章1~2節
すべての重荷や絡みつく罪を捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用
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皆さん、おはようございます。
韓国出張も無事に終わりを迎え、仁川空港にも到着しました。あっという間の数日間でしたが、いろいろ学びの多いひと時でした。そのことを思い巡らせながら、今日のローズンゲンに示された聖句に触れたときに、私たちは「どこ」を見つめ、どこに向かって歩んで行くのだろうか。そんなことを深く考えさせられました。
カルト宗教被害のような、神を利用した人間が人間を支配する構造だけではなく、私たち人間世界は、人と人とのあいだで「つまずき倒れる」ような疲れ、ストレス、弱ってしまうような出来事が、実に多いことを痛感させられています。そんなことから解放されたいと思いつつも、どうしてもいさかいというものが生じてしまう。だとしたら、その原因はどこにあるのでしょうか。
今日の新約聖書であるヘブライ人への手紙には、そのことを「すべての重荷や絡みつく罪」と書かれています。そうなんです。このすべては「罪」のゆえなのです。罪とは、神と同調できない私たちの態度のことを指します。神とともに歩みたいと願いつつも、自我があまりにも強いばかりに、その歩みに素直になれないのです。誰でもそうです。私なんかその最たる者であることをしばしば感じさせられます。そんな私でも、人間関係に疲れ果ててしまうことがあるからです。
つまり、私たちの思いや心のなかで、「神とともに歩みたいと願うこと」「神が私の心や思いをご自分の力で整えてくださること」「神が私たちとともに歩めるように支えてくださること」という神のなさることに、どれだけ心を寄せることができているだろうか。ここにこそ、今日の二つの聖句が指し示すメッセージというものがあるのです。
人ばかり見ていないで神を見るのです!自分自身の足りなさを棚に上げて、人にそのことを要求しないのです!神が愛しておられるすべての人を、私たちは愛することができないこともあるでしょう。でも、神が愛しておられる事実を認めることはできるのです。神の愛は、なにも甘えに満ちたものではありません。時に戒め、気づかせ、悔い改めさせる力すら持っている。愛する子たちに、ご自身とともに歩む幸いというものを味わってほしいのです!
私たちには今日も、忍耐強く走るべき競争路が与えられています。しかし、途中で断念してしまうようなものでもないのです。なぜなら、神が助けてくださるからです。その助けを頼りとして、今日の一日を歩むことができますように。皆さんのためにも、そして私のためにも、祈りをささげます。
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