31/07/2025

2025.7.31(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編103編11節
天が地よりも高いように
主の慈しみは主を畏れる者をはるかにしのぐ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙5章20~21節
しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました。こうして、罪が死によって支配したように、恵みも義によって支配し、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命へと導くのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
早いもので7月も最終日を迎えました。猛暑に見舞われたこのひと月でしたし、昨日はカムチャツカ半島の地震の影響で、津波への不安が私たちの思いをよぎる一日でした。私の住む仙台は14年前の震災で、津波に対してはいまだに私たちの心に傷跡を残していると私は感じています。私たちの不安をすべてご存知である神が、私たちの心と身体を見守り続けてくださいますようにと祈りつつ、朝を迎えました。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは「私たちの努力を超越した神の慈愛」についてでした。そのことを黙想としてつづりたいと思います。
 
私たちの努力ではどうしようもないことがあります。ある程度の問題解決ができたとしても、究極的には解決しがたい問題があることを私たちはよく知っています。地震や津波などの自然災害に対しては、私たちは自然の脅威を目の前にしては、ある程度の予測や予防、対策ができたとしても、それを完全に無くすことはできません。不安が私たちを容赦なく襲うのです。
 
それは物理的なものにとどまりません。私たちの人間関係におけるさまざまな差し障りがあります。格差ゆえに苦しむことがあります。人の傍若無人な態度に辟易することもあります。それを私たちは不断の努力によって解決に向かおうとしても、100%差しさわりのない世界を実現することはどの時代でも不可能でしたし、どんなに科学技術が発展した現代においても、私たちの努力がすべてを解決することは、やはり難しいのだと思わされます。
 
今日の聖書の言葉は、私たちの努力に限界を感じたとしても、いや、限界を感じるからこそ、それを超越した神の力といつくしみが、神御自身の愛をともなって私たちのひとりひとりに豊かに臨み、また及ぶことを伝えるものであると私は受け止めました。私たちの想像をはるかに超えた神の助けが、神のいつくしみを受けて生きようとする人々に明らかに注がれるというのです。罪の増し加わるところにこそ、神の恵みがあふれるのだと、使徒パウロは手紙をつづりました。多くの差しさわりで落胆し、絶望することもあるでしょう。しかし、だからこそ見えてくるものがあるというのです。それが神の慈愛であるということです。
 
私も今月一か月間を振り返る時に、やはり落胆することもありましたし、己の限界というものを痛感させられる場面が幾たびもありました。だからと言ってそのことが私を前に進ませないわけではないのです。明らかに時が進み行くなかにあって、神が私の足取りを一歩、一歩進ませてくださるのです。私は神が道を歩むその力を与えてくださるからこそ、たとえ限界のなかにあったとしても、神のなさることに希望を託しておぼつかない歩みでも、確かに前進していることを感じ取りたいし、そのことを心から受け取りたいと願うのです。
 
今日の御言葉はそのことを感じることのできるものでした。このような御言葉が与えられたことに心から感謝しつつ、一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの一切に、私たちの足取りを少しでも軽くし、ご自身の慈愛という力をもって歩ませてくださる神が祝福してくださいますように。心からお祈りします。

30/07/2025

2025.7.30(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言7章2節
私の戒めを守って生きよ。
私の教えを目の瞳のように守れ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書19章20節
青年はイエスに言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の御心を『瞳』のように大切にする」ということでした。そのことをつづりたいと思います。
 
昨朝のことです。朝起きてしばらく経って、左眼に黒い筋が蜘蛛の子を散らしたように見えてきました。「もしや?」と思ったのもつかの間、左眼がどんどん見えなくなってしまいました。眼底出血を起こしてしまいました。出血した血液がものを見るのを邪魔させてしまうのです。
 
昨年11月に出血を起こして以来、眼科の治療を受けています。適切な治療の甲斐もあって、これ以上の進行をとどめることができているのですが、出血だけは起きてしまう可能性があるとのことで、出血した時にはそれが治まるのを待つしかないとのことでした。毛細血管を強くする薬を飲んで毎日を過ごしており、出血が徐々に収まると視界がどんどん良くなってきて、とても快適に過ごすのを実感していました。
 
今回は4回目の出血であり、かなり視界が晴れてきて喜んでいただけに、また振り出しに戻ってしまったことで、昨日は不便さとなかなか状況が改善しないことにいささか気落ちをしておりました。ただ右眼は問題なく見えていますので、そのことに感謝して今朝もパソコンに向かっている次第です。
 
そんな朝に開いたローズンゲンの言葉には「瞳」という文字が私の眼前にあったことで、今の自分自身の状況に照らし合わせてこの言葉を読むことができました。あらためて「見える」ということの大切さに思いを深く寄せることができたのです。それは単にものが見えるという物理的なことのみならず、見えることで自分自身の心情であるとか何を大切にしなければならないかということに対してじっくりと考えることができるという意味で、見えるということへの幸いというものを実感させられたのでした。
 
今日の旧約聖書の言葉を私は、神の掟、つまり神の私たちの御心に対して、物事の本質をとらえるように自分自身の見える力、つまり瞳を大切にし続けなさいという意味で受け止めました。文字面だけで守ったような気持ちになるのではなく、その本質をとらえ続けることの大切さというものを自分自身のなかで求め続けていきたい。そのように思ったのでした。
 
それに対応する今日の新約聖書の言葉は、律法の言葉をおそらく誠実に守り続けていた青年がイエスに言ったセリフが選ばれています。おそらく彼はまじめに律法の言葉を守り続けてきました。しかし、イエスにこの後言われた言葉に、青年は失望してイエスのもとを去ってしまいます。それは、青年にとってはあまりにもチャレンジングな、守ることの難しい勧めをイエスから受けたからでした。
 
神の掟を文字だけで守ることができやすい環境というものがあるかもしれません。しかし、神はその文字の奥にあるご自身の心を受け取って欲しい。そのように私たちに問いかけておられるのだと私は思えてならないのです。このことは決してたやすいことではないこともあります。しかし、神と心が通い合うことは、たとえその律法の言葉が実現困難なものであったとしても、だからこそ神の助けと支えを私たちが心から求める素晴らしい契機ともなるのではないか。そのように私は受け止めたいと思ったのでした。
 
神と心を通い合うことが、私の心の中にある瞳を大切に守り続けることのできる第一歩なのだと。そのことを胸に、今日も少しだけ不自由な生活を喜びつつ営みたいと思います。皆さんのなかに不自由なことがあるとすれば、それを支え導いてくださる神がともにおられることを、今日の一日を生きる柱とすることができますように。心からお祈りします。

29/07/2025

2025.7.29(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編21編14節
主よ、力に満ちて、高くいませ。
私たちはあなたの力強い業を歌い
ほめ歌を歌おう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書19章37節
いよいよオリーブ山の坂にさしかかられたとき、弟子の群れは皆喜んで、自分の見たあらゆる御力のことで、声高らかに神を賛美し始めた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったメッセージは「神の力によって賛美する喜び」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちは賛美をするときに、どのような思いをもって賛美を神にささげているでしょうか。私たちにとって賛美とは、その多くは「音楽」をともなったものであるというイメージがあるかと思いますし、事実その通りだと思います。しかし、私たちにとって音楽とはいったい何かということを考えたときに、音楽というものに対する私たちの意識というものが問われているような気がしてならないのです。クラシカルな聖歌や賛美歌もあるでしょう。現代的な音楽に合わせたプレイズやワーシップもあることでしょう。そして、私はこう思うのです。神の力によってなされる賛美は、いかなる種類のものであってもそれ自体が素晴らしいものであるということです。
 
私たちはこのことに神への敬意を抱きつつ、自分自身のものとしているでしょうか。それとも、自分の好みや音楽性というものに気を取られて、あらゆる賛美に差異をつけてそれらの賛美に良し悪しを判定するでしょうか。この問いに私たちの各人が真剣に問い直すことは本当に大切なことであると、私は強く感じ取りたいのです。
 
私たちの神へ向かう心の表明として賛美の歌を歌います。ですから、その賛美のかたちはいろいろあって良いのだと思います。しかし、それは「自分自身のおごり」を表明する危険性をもはらんでいるということを、私たちは神の御前にあって謙虚に受け取っていくならば、賛美というものが神の力によってなされることを実感できるに違いないのです。
 
文語がかもしだす響きの良さ、口語だからこそ分かる言葉の意味、心を慰め安心へと導く緩やかな音楽もあれば、心を鼓舞するようなビートでなされる賛美もあるでしょう。そのどれもが神への賛美であることに変わりはないわけだし、この賛美は私自身の音楽力や勇ましくあろうとする力の表明では決してないのです。あくまで神が私たちに生きる力を与えておられるからこそ、その力によって賛美ができるということを、私たちは是非心に刻み込みたいのです。
 
賛美をすることが、私たちの傲慢さを生むことではなく、賛美する喜びというものを分かち合える素晴らしいときとなりますように。そして、私たちとともにおられる神の栄光を心からほめたたえられる機会となりますように。この賛美が、私たちの一日を生きる神からの活力となりますように。そんなことを願いつつ、皆さんの主にある守りと祝福を心よりお祈りします。

28/07/2025

2025.7.28(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記20章7節
あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書6章9節
天におられる私たちの父よ
御名が聖とされますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
今日も猛暑の一日となりそうです。どうか今日の一日もまた、神の守りに支えられて、その時を神とともに生きる幸いに包まれますように。お祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が今日受け止めたいと思ったのは「神の名を『利用』してはならない」ということでした。そのことを黙想としてつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、神がモーセを通して民たちに与えた「十戒」の一節です。神のお名前を「みだり」に唱えてはならない、というものです。そこで、私はあらためてふたつのことを振り返りたいと思いました。「神のお名前」と「みだり」という言葉についてです。
 
神のお名前は「主」という日本語に訳されていることが多いのですが、これは単に「あるじ」という意味だけを示しているわけではありません。結果的には私たちのあるじであることには間違いないのですが、神のお名前には「私はいる」という意味があることを、神は民たちに伝えられました。
 
私はいる。この言葉には「私は神である」「私はあなたがたとともにいる」「私はあなたがたの神となる」という、存在を表す動詞(英語でいうbe)のすべてを物語る意味を私たちに与えています。つまり、神は慈愛をこめてご自分に似せて造られた人間が、御自身と歩調を合わせて生きることを人間に期待し、それを求めておられる。その思いが「主(私はいる)」というお名前に集約されているのです。
 
そのことを踏まえると、そのお名前を受け止める私たちの態度がどのようなものであることが期待されているのかを、私たちはじっくりと考えることができるのです。そこで「みだりに唱えてはならない」という神の戒めというものを意識することができるのではないでしょうか。みだりにとは「勝手気ままなさま」「欲しいまま」という意味があります。つまり、神の期待を勝手に自分好みに解釈し、自分の思い通りにことを動かそうとする態度のことを「みだりに」と表現するのです。
 
私たちとともに神がいてくださるという言葉は、もし神が頼りになる力強く、また優しい方であることを知っていれば、それは私たちに安心感を与えます。しかし、その安心感は神と歩調を合わせることにおいてこそ成立するものであることを、私たちは決して忘れてはならないのです。守ってくれるから神の思いや願い、期待というものをないがしろにして自分好みの神を造り上げて、自分の願望通りに振舞うことは、結局のところ神のことを利用して、自分自身が神となることを示しているのと同じことなのです。
 
私たちにそのような思いがあるでしょうか。全くないということは絶対にないのです。私たちは、神の期待よりも自分自身の願望というものを無意識のうちに第一にしてしまう存在なのです。そこから逃れることは決してできないのです。だからこそ、私自身の言動というものがどこから発しているものなのかを、丁寧に検証することは本当に大切な私たちの営みに他なりません。
 
神の御言葉に聴いて祈るという営み。この地味な私たちの出来事は神の期待と自分自身の願望を照らし合わせることのできるただ一つの道なのです。自分自身の合わせ鏡として、神の御言葉に聴いていくのです。自分は絶対に大丈夫だという思いを捨てるのです。絶対なのは御言葉をもって私たちを導かれる神おひとりであることを、私たちは是非意識したいのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、主の祈りの一節です。御名が聖なるものとされますように。神が私たちとともにいてくださるという神の思いを、私たちは自分自身がおごることなく、その意味というものを祈りをもって問い続けるのです。だからイエスは祈りの言葉として「神のお名前があがめられますように」ということを、冒頭に置いたのではないか。私はそう思えてならないのです。たとえ神の期待に十分に応えることができなかったとしても、その切なる思いさえあれば、神は必ずや祝福をもって私たちを守り導いてくださいます。そのことを胸に抱いて、今日の一日を歩んでまいりたいと思います。
 
どうぞ皆さんの一日に、私たちともにおられる神の思いがしみわたり、神の思い願いによってその時を過ごすことができますように。お祈りします。

27/07/2025

2025.7.27(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編29編11節
主がその民に力を与えてくださるように。
主がその民を祝福してくださるように

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二1章7節
神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
新しい一週間が始まりました。猛暑のなかですが、今日も神によって霊肉の健康が与えられますように。そして、神とともに生きることの幸いを私たちのそれぞれが味わうことができますように。お祈りします。
 
そういう意味で言えば、今日のローズンゲンによって示されたふたつの聖句は、まさに神が私たちひとりひとりに生きる活力を与えてくださることを心から感じることのできるものだったと私は受け止めました。生きる力というのは、もちろん身体的な活力というものもあるでしょう。しかし、私たちは身体的に健康であるとともに、精神的・霊的にも健康であることがいかに大切かということをも、心から感じ取りたいのです。健康な肉体は健全な精神からとはよく言ったものです。
 
今日の聖句は、神が私たちの霊的な部分の健康のために、聖霊の助けを十二分に注いでくださることを黙想できるものであると私は感じました。新約聖書の言葉は、使徒であるパウロがその若き同労者であるテモテに対して勧めている言葉です。臆病という言葉が登場します。私たちは大なり小なり、いろいろなことで不安を抱く存在です。その不安に満たされると、心が思いだけでなく、胃腸に変調を来たしたり、頭痛や不眠などを起こしてしまうことで健康が徐々に損なわれることがあります。悩みがあると、私たちはそのような状況にすぐなってしまうのです。その源こそ、私たちが誰でも抱く臆病であるというのです。
 
しかし、神がご自身の霊をもって現わしてくださるのは、力と愛と思慮とあります。神の力は決して暴力的なものではなく、愛せないときにそれでも自身が神によって愛されていることへの実感によってにじみ出てくる愛するということへの理解、それが決して感情的なものではなく、理性をともないながら用いることのできる安定した愛、そういう目には見えない静かな神の力というものが、聖霊の助けを通して私たちの各人に与えられるというのです。
 
そのような神の力が、私たちを霊肉ともに活かしていく。そして、そのように生かされた命のあるところには、必ずや神が祝福してくださっているということへの実感があふれ、それが分かち合われるところには、必ず神の平和で満たされていくことを物語っている。そのことを胸にして、この新しい一週間を営んでいきたいと願わされました。
 
まずは、その先駆けとなる今日の礼拝が祝されますように。神が私たちのために準備してくださった礼拝に招かれて、私たちが心からそのことを喜ぶ者でありますように。皆さんの主にある守りと平安のために祈りつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。

26/07/2025

2025.7.26(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書21章14節
私はあなたがたの業が結ぶ実に従って
あなたがたを罰する――主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書25章14節
主人は言った。『よくやった。良い忠実な僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい。』
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
今週も最終日を迎えました。この一週間を振り返る大切な一日として過ごしてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の御前に誠実であること」です。そのことについて黙想をつづってみたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉には「罰する」という言葉が登場します。裁きという言葉が意味するひとつに「罰する」という判断があります。裁き=罰することではありません。裁きとは判断という意味がありますから、正当な判断のもとに、罰する場合もあればそうでない場合もあるのです。しかし、今日の旧約聖書の言葉で語られているのは「罰する」、つまり、その人が何を行ったかということに対する、神である主の判断があったということです。
 
この言葉が告げられたのは、都エルサレムのある南イスラエル王国(ユダ王国)の人々でした。神によって守られている、自分たちこそ神が選ばれた民という自負がこの国民にはありました。しかし、実際のところは神の思いや願いというものをないがしろにして、自分の願望に身を任せて行動していました。言行が一致していなかった民の姿がそこにはありました。
 
神との関係性において、神はご自分の正当な判断によって民たちにこのような言葉が語られました。その結果、ユダ王国の民たちはのちにバビロニア帝国の侵略に遭い、彼らは捕囚の民として祖国を去らなければなりませんでした。数十年にわたる辛苦を味わわなければならなかったのです。
 
しかし、神はいたずらに民たちを痛みつけるために裁きを執行されたわけではありませんでした。罰という出来事の先にあるのは、自分のしたことの重大さに気付き、そこから民たちがどのような生き方をするかというところに、神の本来の思いや願いがあったのです。最終的に神はこの民たちを祖国に戻して、この国は再興するにいたりました。そこには、民たちが神の御前に誠実になろうとした心があった。その心に神はご自分の正当な「裁き」を執行されたのでした。この場合の裁きは罰することとは対極にある判断によるものだったのです。
 
私たちは「神が罰する」という言葉に恐れ、おびえ、神が恐ろしい方であるという印象を抱くことはないでしょうか。確かに罰せられることは恐ろしいことなのです。誰も罰せられることを好む者はいないのです。しかし、神はご自分の判断というものを、あくまで人間が神とともに生きる幸いを味わい続けることができるように、常に働きかけてくださっているということなのです。そのことを私たちは忘れてはならないのだと私は思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスによるたとえ話にある一節です。長旅に出る主人が家来たちに自分の財産を預けました。ある者はその財産を運用してさらなる富を得ました。それに対する主人の言葉が今日の聖句です。
 
これは、家来の「実績」を評価したのではなく、あくまで家来が主人に対して誠実に仕えようとしたその心を、主人は高く評価したのでした。目に見える実績がもしふるわなくても、心が主人に対して誠実さをもって向いていれば、神の評価というものがいわゆる「罰する」方向にはいかなかったでしょう。この世の中の一般的な価値基準とは別な価値観が、神の正当な「裁き」にあふれているのです。
 
見た目の華々しさや実績ではなく、その心をしっかりと見ておられる神によって、私たちの生活は守られている。このことを思うだけでも大きな慰めと励ましを得るのだ。私はそのように今日の聖句を受け止めたいと思ったのです。このような思いをもって、今週の歩みを振り返って、明日の主の日への備えに向かいたいと思います。
 
皆さんの一日に、神の守りが豊かにありますように。お祈りします。

25/07/2025

2025.7.25(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編44編2節
神よ、この耳で私たちは聞きました
先祖が私たちに語り伝えたことを
先祖の時代、いにしえの日々に
あなたのされた業について。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二4章3節
誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。その時、人々は耳触りのよい話を聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集めます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
今日も猛暑の一日が始まりました。雨ひとつないお天気のおかげで、土用干しをしていた梅干しもいい具合にしぼんできました。この後天日にさらして、仕上げていきたいと思います。楽しみです。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「耳の用い方」についてです。そのことを黙想したいと思います。文字通りの耳もあれば、心の耳もあります。ですから、ここでは「私たちの聴覚」という意味も込めて、つづりたいと思います。
 
私たちは見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞くということを、日常生活のなかでごくごく当たり前のように行っています。私自身もそうです。どんなことも全部目を凝らし、耳を傾けていたのでは、身がもたないことも正直言ってあるのです。そのことで聞かなければならないことまで聞けなくなってしまったら、それこそ健全な日々を過ごすことができなくなってしまうからです。
 
しかし、今日の聖句が言わんとしていることは基本的に違うものです。聞かなければならないことまで、自分のえり好みによって耳を閉ざすことがあるならば、それはかえって不健全であるということを、今日の聖句は私たちに示しているのではないかと思うのです。今日の新約聖書の言葉は、まさに私たちにそのことを伝えているのだと思います。
 
私たちにとって「おのれが願望すること(I want)」を聞くことよりも、「おのれが必要とすること(I need)」を聞く。一見すると似たようなことかもしれませんが、私たちが健全に生きていくうえで必要とすることは、必ずしも私たちの願望と一致するわけではありません。良薬口に苦しと言ったように、私たちには耳の痛いことでもそれが私自身の健全な成長に欠かせないこともまた真実なのだと私は思うのです。
 
しかし、私たちはその苦さを嫌います。進んでそれを聞こうとなどという奇特さが私たちにはなかなか芽生えて来ないのです。だから、耳障りの良いことを聞き続けようとする私たちの態度があります。なかなかそのことを謙虚な心をもって受け入れられない私自身の姿というものを発見してしまうのです。
 
しかし、その発見、つまり気づきこそ大切なのだということも思わされるのです。この気づきは、私たち人間に対して、神がどのように扱われてきたかということと連動するのだと私は今日の聖句を通して、あらためて気づかされました。神が私たちに救い主イエスを与えてまでその御声が届くように私たちに語りかけてくださったそのことを、私はどのように聴くことができるのだろうか。今日の聖句はそんなことを私自身に問い、促しているのだと受け止めたいのです。
 
今日の神とともに歩むことのできる一日が、そのような神の発せられる御声に耳と心を傾けて聴くことができますようにと祈ります。そして、皆さんとともに、神の善いものを受け入れることができますように。お祈りします。