27/11/2025

2025.11.27(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編81編8節
あなたが苦難の中で呼ぶと
私はあなたを助け出した。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書14章30~31節
ペトロは風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も皆さんの一日を神である主が守ってくださいますように。心からお祈りします。私は火曜から台湾基督長老教会と日本基督教団の教会協議会という会議に出席しています。台湾の教会の姿勢や働きから多くを学ぶ機会を頂いています。学ぶだけではなく、それをどのように日々の宣教の働きに生かすことができるだろうか。そんなことを考えながら過ごしています。あらためて学ぶこと、交流することの大切さを噛みしめています。感謝です。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは、「必ず助けてくださる神」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
本当に助けてくださるのだろうか。すぐに助けてくださるのだろうか。望むように助けてくださるのだろうか。そんなことが頭や心をよぎることがあります。神が助けてくださるということに確信を抱いているからこそ、私たちは神を信じることができるのだということは間違いないと思うのです。しかし、「自分自身の思うように」神が助けてくださるのだろうかと言えば、そのようにはなかなかならないと思うのが、私たちの現実であるかもしれません。だからこそ、苦難というものを私たちは味わうのだとあらためて思わされます。
 
そんなときに、今日の聖句のような「神は私たちの苦しみに手を差し伸べ、必ず助けてくださる」ということを彷彿とさせる言葉に出会うと、自分自身の現実と照らし合わせては、多少のズレというものを痛感させられるのです。ただ、そういうことがあるからこそ、私たちはなおのこと、神の御心というものを真剣に尋ね求めるきっかけとなることもまた事実なのです。ズレがあることを神の責任に押し付けるのではなく、まず自分自身に対して認知・認識のズレというものがあるのだろうかと、丁寧に分析することができるのだと。そのために私自身の心や思いを整える大切な機会となるのだと私は信じたいのです。
 
私たちの苦しみを理解してくださる神は、私たちの苦しみの根源が、神とともに生きるがゆえの痛みや苦しみであるならば、神がそんな私たちをそのままにされておくはずがないというのが、今日の聖句が語るメッセージの中核にあるものです。たとえ認識のズレがあって、自業自得的な苦しみを味わったとしても、神は私たちを見捨てるのではなく、私たちが神の思いを理解することができるように、あらゆる出来事を通して気づかせてくださるということを、私は大切にしたいとあらためて思わされたのです。
 
神は私たちの目から涙をぬぐい去ってくださる。神の御国が完成したときに、私たちに対してなしてくださる約束です。その約束を心から待ち望みつつ、日曜日から始まるアドヴェント(待降節)の日々を過ごすための備えの時としたいと思います。皆さんの一日が神の守りのもとに豊かにありますように!

26/11/2025

2025.11.26(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書25章1節
主よ、
あなたははるか昔の驚くべき計画を
忠実に、誠実に成し遂げられた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙10章23節
約束してくださったのは真実な方なのですから、告白した希望を揺るぎなくしっかり保ちましょう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日、おとといと黙想をお届けすることができず、申し訳ありませんでした。おととい(月曜)は、私の属する東北教区の集会準備のため、昨日は会議出席の移動のため、なかなか時間を取ることができませんでした。今朝はゆっくりと時間を取ることができるので、本当に感謝です。今日のローズンゲンから与えられた御言葉を通して、一日を生きる糧としたいと思います。
 
今日の聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは、「神は人間に対してされた約束を、必ず果たされる方である」というものでした。そのことについて黙想したいと思います。
 
神はご自分の心に思い、そのことを自らの行いを通してこの世界に示してくださるというのは、聖書全体で語られていることに他なりません。それは天地創造のときから決して変わることのないものであるというのが、聖書が語るメッセージです。
 
ただ、その歴史によれば、その本質は決して変わることはないのですが、その方法論については「変更」があったことが記されています。それは常に、私たち人間との関わりにおいて、私たちが神が提示された約束をしばしば疑い、逆らい、反故にしようとした人間の歴史というものがあることに対して、神がくだされた変更の他なりません。
 
神が譲歩され続けたその極みが、愛する御子であるイエスをキリスト(救い主)として私たちにお与えになられたことでした。神は微細な部分に対する実にフレキシブル(融通の利いた)態度と、決して変わることのない本質の両方を大切にされる方です。この神の姿勢によって、私たちは生かされていることを、私たちはどれだけ自分自身の土台として据え、大黒柱として建てているだろうかということが問われているのだと思います。
 
今日のふたつの聖句で語られたこと、それは「私たちの希望」です。つまり、神がしっかりと据えてくださった土台、そして大黒柱こそ、私たちが日々を生きるためになくてはならない「希望」であるというのです。この希望に心を寄せて生きる。そのことによって、神の約束は必ず果たされるという、神の忠実さと誠実さが豊かに私たちの目に見えてくるのだと。このことを私たちの胸に刻みつつ、今日の一日を生きていきたいと受け止めました。
 
どうぞ、皆さんの一日に神が親しく臨んでくださいますように。お祈りします。

23/11/2025

2025.11.23(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書49章6節
私はあなたを諸国民の光とし
地の果てにまで、私の救いをもたらす者とする。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録16章9~10節
その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください」とパウロに懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはすぐにマケドニアに向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神が私たちを招いておられるのだと確信したからである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやって来ました。多くの教会では、今週が教会の暦で最終週と位置付けているところが多くあることでしょう。来週から、私たちは救い主イエス・キリストの御降誕を待ち望むアドヴェントを迎えます。その前に、神の国が完成することを望みつつ、この最終週を過ごしていきたい。そんな思いを胸にしつつ、今日のローズンゲンに示された御言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の全世界に対する切なる願い」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書は、イザヤ書の一節でした。すべてが荒廃し、夢も希望を無くなったかのように見えた世界のなかで、しかし、神はこの世界を決して見捨てることはない。ご自分が慈愛を込めて私たち一人ひとりに接しておられるそのまなざしが、今日の聖句にあふれています。
 
私たちにご自分の光を余すところなく照り輝かせてくださり、私たちは神の光によって地の果てまで神の救いを知らされることになる。決して夢や希望が失われたわけではないのです!神は、私たちの現実の世界で、見える世界のなかで荒廃したように見え、そのことを感じたとしても、なおも神はご自分のご計画を着実に進めてくださるというのです。
 
ここに、私たちの視線と神のまなざしとのあいだにズレがあるのだということを、私は受け止めたいのです。私自身があきらめたくなったとしても、神はそんなことをつゆにも思っておられない。あくまで御自身の「御国の平和」という目的の実現に向かって、そのことを私たちに光を通して見せてくださるのです。
 
大切なのは、私たちがこの神の言葉を自分自身の希望として抱くことができるだろうかということです。単なる絵空事ではなくて、希望に満ちあふれたものとして神の言葉が私たちの心に映るかどうかということなのです。私たちの考えや計画をはるかに超越した神のなさることに私たちは心から信頼と希望を寄せることが大いに許されているのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、使徒パウロがキリストを伝える旅行計画を立てていたのにもかかわらず、その計画はさまざまな理由で中止せざるを得なかったときに、幻のなかで神によって示された「新しい計画」について記されたものです。マケドニアという、考えもしなかった土地へキリストの救いを伝えることは、結果として大きな祝福を得ることとなったのです。
 
これはパウロの実力によるものではありませんでした。神がその計画を推進してくださったのです。神のお考えとパウロの計画にはズレがありました。しかし、パウロはそのズレというものを是正するだけの素直さと信頼、そして未来への希望をしっかりと抱いていたからこそ、マケドニアに赴くことができたのです。
 
私たちは一見すると、自分の思いもよらないことが進み行くことが往々にしてあることに気付かされます。しかし、そのような動きのなかで神が私たちの心を動かし、その道を指し示し、神とともに歩む幸いというものを明らかにしてくださる。そんなことを今日の聖書の言葉から聴くことができました。今週一週間、私はそのことを胸にあゆんでいきたいと願います。
 
どうぞ、皆さんの歩む一週間の日々にも、神の素晴らしいご計画が指し示されることにより、私たちの心にある希望の思いがますます豊かにされますように。心からお祈りします。

22/11/2025

2025.11.22(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書3章12~13節
私は怒りの顔をあなたがたに向けない。
私は慈しみ深いからだ。
いつまでも憤ってはいない。
ただ、あなたの過ちを認めよ。
あなたの神である主に背き
私の声には耳も傾けなかったことを――主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書6章12節
私たちの負い目をお赦しください
私たちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
火曜から金曜までの4日間、皆さんに黙想をお届けすることができませんでした。行わなければならないことが山積してしまい、黙想をつづる時間を取ることができませんでした。毎日楽しみにしてくださっている方々には、申し訳ないことをしました。引き続きよろしくお願いします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して受け止めたいと思ったのは、「誰が人の負い目を赦すのか」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、主の祈りの一節です。「私たちに罪を犯したものをゆるしましたから、私たちの犯した罪をおゆるしください」というものです。私は、このワンフレーズに触れるたびに、いつも思わされることがあります。
 
私にはどうしてもゆるすことのできない人がいました。私が当時通っていた教会で経験したことが、あまりにもショッキングだったのと、その出来事によって私自身が大変傷つけられたということがあり、それを傷つけたと私が思っていた相手を、どうしてもゆるすことができなかったのです。かなり長い間、このことに苦しみ、憎しみを抱いていました。
 
そんな思いを抱いていましたから、礼拝のときに祈られる主の祈りになると、どうしてもこのワンフレーズを祈ることができなかったのです。人の過ち(と私が思っていた)などゆるすことができないのに、どうして自分をゆるしてくださいなどと祈ることができるのだろうか。だからといって、この人をゆるすことができない。そんなことで葛藤していたのです。
 
ある日のことです。その思いを教会の役員さんにお話ししたことがありました。その時です。その方はずばりひと言、まさに突き刺さる言葉を私に返されました。「なに言ってるの!だから祈るんじゃない」。このひと言でした。
 
そもそも人は人のことを、そう簡単にゆるすことなどできないのだと。人をゆるすことのできない自分自身を神の前にさらけ出したときに、誰が人の罪や過ちというものをゆるされるのかということが問われていきます。その問われた末に、それを行われる神がおられるではないかと、私たちは気付くことができるのです。
 
怒りや憎しみの感情が私の心を支配しているときに、その感情を無理やり切り離したり、投げ捨てたりすることなどできないのです。うわべだけでゆるしたようなポーズを人前に見せたとしても、そんなことは薄っぺらい演出などということを、神はすべてご存知なのです。
 
だからこそ、私たちは自らの正直さというものを、神の前にさらけ出す。いや、さらけ出さずとも、神はそんな私たちの素のすがたというものをすでにご存知なのです。神の前に丸裸にされたときに、神は私たちのそんなあられもない姿を受け入れてくださるのでしょう。まさに、天地創造の際、人間が神によって造られたように。その時の人間は、まさに丸裸だったのです。
 
このもともとある姿が神によって受け入れられる時に、神に対する深い信頼が生まれ、ゆるすということの深い意味をも知ることができるのだろう。そのことを希望の糧として、今日の一日を歩みたいと願わされたのです。
 
一週間も最終日を迎えました。明日の主の日の備えが、祝されたものとなりますように。そして、自らの姿をかえりみつつ、新しい一週間を神である主とともに歩むことができますように。お祈りします。

17/11/2025

2025.11.17(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編25編10節
主の契約と定めを守る者にとって
主の道はすべて慈しみとまこと。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章11~12節
私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は、それぞれの場で主の日を祝い、また安息の一日を過ごされたことかと思います。今日から週日が始まりました。それぞれのお働きのなかで、神あである主がともにおられることを実感できるような日々でありますように!
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「主の御心に生きるならば」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
主の御心、つまり神である主が抱いておられる価値観、それは主の御心を完全に生きたイエス・キリストの価値観でもありますが、この御心(価値観)に生きるということは、私たちの生き方にもどのような影響を及ぼすのでしょうか。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスによって諭された「山上の説教」にある一節ですが、「私のために」人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、、、とあります。私のため、すなわち主の価値観に生きようとするならば、という意味に他なりません。
 
主の価値観に生きることは、私たちが明らかに手に取ってわかるような喜びを味わうできる一方で、今日の聖句は決して嬉しいことばかりでもないのだよと、イエスは人々に語られています。罵倒・迫害・濡れ衣・悪口など、できるならば私たちが避けて通りたいこともあるのだとイエスは「私のために」という言葉を用いて、私たちに知らせようとしているのです。
 
主の道はいばらの道なのだろうか。そのように思えてもおかしくない場面というものは、実際にあるのだと私も思います。主の価値観に生きるというのは、つねに自分自身のうちにある価値観というものを考えざるを得ない場合も数多くありますし、ふたつの価値観のあいだで葛藤し、小競り合いを起こし、衝突することも、私たちの生活のなかでは間々あるのだ思います。
 
そして、主の価値観に生きようと判断し、決断したときに、私たちはこの世界でつらい目に遭う時だってあるのです。しかし、イエスはなおも、そのような人々は「幸いである」と語られました。単なる希望的観測としての幸いではありません。確かにあなたがたは幸せなのだという確証を人々に向けて語られました。
 
そこには、必ず神による慈しみと真実が明らかにされるのだと歌ったのは、イスラエルの王ダビデでした。ダビデも、主の御心に生きようと歩んだ時に。サウル王をはじめとした多くの人たちの憎悪というものを受けながら生きなければなりませんでした。四面楚歌の時もありました。しかし、ダビデはただ神の与えてくださるであろう慈しみと真実に生きました。結果、神は明らかにダビデを祝福し、イスラエル王としての歩みを祝福されました。その祝福によって、イスラエルの民たちもまた神とともに歩む幸いへと導かれたのでした。
 
見た目の良し悪しは私たちの感情にも大きく影響します。しかし、その向こうに神の慈愛が私たちに向かって来るのです。それをしっかりと受け止めて生きるか、過ぎ去ってしまうのを気づかずに、またそれよりもしがみつこうとする何かに生きるか。それは、私たちの「判断と決断」によるものであることをしっかりと胸に抱いて、今日という一日を生きていきたいと願い、受けとめたいと思いました。
 
皆さんの一日にも、神である主の御心が明らかにされますように。心からお祈りします。

16/11/2025

2025.11.16(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編106編44~45節
それでも、叫びを聞かれたとき 主は彼らの苦しみを顧み 彼らのために契約を思い起こされた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録7章59節
ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、私の霊をお受けください」と言った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。この一週間も、神が私たちとともにいてくださることを、日々の歩みのなかで感じ取り、それゆえに喜ぶことができますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「神は私たちの叫びに必ず耳を傾けてくださる」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちの苦しみとは何でしょうか。私たちの人生において、苦しみのないことなどありえません。どんなに苦しみから逃れようとも、大なり小なり苦痛が容赦なく私たちを襲います。その苦しみに寄り添い、励ましてくれる人が近くにいたら、私たちはそれだけで心が慰められて、何とか頑張っていける。そのように思うのではないでしょうか。
 
しかし、自分自身の苦しみが周囲になかなか理解してもらえない時、それゆえに孤独を感じることも、私たちの生活にはしばしば起きることもあるのだと、私は自分自身の経験からも実感させられます。だから叫びたいのです。しかし、どんなに叫ぼうとも騒音にしか受け取ってもらえない環境ならば、叫ぶことすら馬鹿馬鹿しくなってしまうことも間々あるのです。だから、叫ぶことすらやめてしまうのです。
 
叫べば相手に迷惑がかかるということもあるでしょう。だから、叫ぶことをぐっとこらえて前に進もうとすることもあるでしょう。しかし、今日の聖句が言わんとしていることは「叫んでもいいのだよ」というメッセージに他なりません。誰にでしょうか。私たちの叫びを知っていてくださる神に他なりません。
 
今日の旧約聖書の言葉に「彼らのための契約」という言葉が登場します。彼らとは神の民のことを指すわけですが、はるか昔、神とイスラエルの民とのあいだに交わされた契約は、神が私たち民を守られるという神側の提示と、それに応答し、神とともに歩む決意をする民たちとの関係性について物語るものです。
 
神に叫ぶという行為は、私たちは決して孤独ではない。誰も理解してもらえない状況のなかにあっても、神は私たちの苦しみをすべてご存知なうえで、神が思うがままに私たちを守られるということを信頼する表れとして、叫ぶということが大いに許されているのだと私は受け止めました。
 
私たちの苦しみに応えられる神が、私たちにとって最もベストとされる道を備え、その道を歩む力をもお与えくださるというのです。それは、もしかすると私たちが望むような解放の道ではないかもしれません。見た目にはいばらの道のように思えるかもしれません。しかし、神は最終的に叫びに応えてくださるのです。
 
今日の新約聖書は、イエスこそ救い主であることを告白したがために、石打ちの刑に遭い命を落としたステファノの叫びでした。ステファノは命乞いをしたわけではありませんでした。死を目前とするなかにあって、その命をすべて神に委ねたのでした。神はどんなことがあっても、この私に祝福の道を与えてくださるのだと。だから、死を目の前にしても、そのことを叫びました。命は落としましたが、神とともに御国で歩むことのできる幸いというものを噛みしめながら、多くの信仰者たちの励みになったに違いないのです。
 
いたずらに殉教することを賞賛するわけでもありませんが、ステファノの死が決して無駄にならない。そのことを信じて今日も歩みたいと思いました。どうか今日一日の歩みを支えられる神が、皆さんとともに豊かにありますように。心から祈ります。

15/11/2025

2025.11.15(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編90編14節
朝には、あなたの慈しみに満たされ
すべての日々を楽しみ、喜ぶことができますように。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一1章5節
私のこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を目標としています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。日々寒さの募るなかにあって、今日も神によって健康が支えられますように。たとえ肉体が、心が弱っていたとしても、神がともにいてくださることを希望とすることができますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「未来を指し示される神の幸い」というものでした。そのことについてつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、使徒パウロが愛する若い同労者であるテモテに宛てて書いた手紙の一節です。そのなかで「私のこの命令は」と記されています。この命令とは何でしょうか。
 
今日の聖句の前、3~4節にはこのように記されています。
私がマケドニアに行くときに頼んでおいたとおり、あなたはエフェソにとどまって、ある人々に、異なる教えを説いたり、 作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないように命じなさい。そのようなことは、無意味な詮索を引き起こすだけで、信仰による神の計画を実現させるものではありません。
 
エフェソというのは、今でいう「スピリチュアルな街」であったと言っても良いかもしれません。この町を守る女神アルテミス信仰をはじめとして、魔術、占星術といった、何か強力なものに心惹かれ、そこに自分たちの思いを託そうとする動きというものが街中に広がっていたと言われています。
 
そのようななかで、パウロはテモテに対して、そのような一見魅力的と呼べるような「未来を指し示すための何か」に引き寄せられるよりも、はるかに力強い御手で私たちを導いてくださる神がともにいてくださる。救い主であるイエスこそ、私たちの心の支えなのだということを知らせたほうが、その人にとっての幸いとなるのだよということを伝えたのでした。
 
私たちの未来をすべてご存知である神は、私たちがどのように歩むべきかを、それが私たちの意思とはことなるものであったとしても、神が私にとってベストな道というものを準備してくださっているということを、さまざまな形を通して教え諭してくださるのだ。そのことを今日も聖書の言葉と聖霊の助けを通して、私たちに与えられていることを、私たちは喜びつつ受け取りたいと私は思ったのです。
 
その思いは、今日の旧約聖書に示された詩編の一節に相通じるものです。今日も神の慈しみを心から感じる朝がやってまいりました。私たちの心には悲しさも寂しさもあることでしょう。しかし、神の慈愛は決して変わることなく私たちの心を守り、今日歩む一日へと導いてくださることを信じて、神が与えてくださる喜びを胸にして歩むことができるようにと祈りつつ過ごしてまいりたいと願います。
 
皆さんの一日に、そのような神である主がともにいてくださることを感じ取る者となることができますように。お祈りします。