14/11/2025

2025.11.14(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記32章11節
鷲がその巣を揺り動かし
雛の上を舞うように
主は民を
翼に乗せて運ばれた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書10章29節
イエスは言われた。私に彼らを与えてくださった父は、すべてのものより偉大であり、誰も彼らを父の手から奪うことはできない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。私たちに命と生活を与えてくださった神が、今日も私たちひとりひとりとともにいてくださいますように。神の守りと平安をお祈りします!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「神は私たちを守ってくださる」というものでした。そのことについてつづりたいと思います。
 
そのことを想像させる聖句は、今日の旧約聖書の言葉である申命記32章の一節です。親鳥がひな鳥をその翼でしっかりと守るというイメージです。人間の世界もそうなのですが、動物の世界も過酷です。命を奪うか取られるかの状況のなかで、いかに命を守るかというのは、まさに存続がかかっている問題です。
 
このシビアでシリアスな状況のなかで、命を守られる神が私たちとともにおられるというのです。決しておおげさな話ではないと私は受け止めたいのです。それがたとえ文字通りの救急救命のようなものでなかったとしても、私たちの心をも神は親鳥のように守ってくださる。これが申命記で語られているメッセージです。
 
また、命を守るというのは、現実に私たちに訪れる物理的な死から免れるという意味でもありません。私たちが神に守られているということは、地上の生にあっても、その生を終えたとしても、神がその命を永遠なるものへと導いてくださるということに他なりません。
 
そのことを信じて、今日も命の尊さと、その尊さを保証してくださる神の守りに感謝して、一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日も神が力ある御手をもって守ってくださいますように。心よりお祈りします。

13/11/2025

2025.11.13(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
サムエル記上2章1節
主よ、私はあなたの救いを喜びます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一15章57節
私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を与えてくださる神に、感謝しましょう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。どんな状況にあっても、今日生きるその時を与えてくださった神が、私たちの命を祝福してくださいますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「好調だから喜ぶのではない」ということです。そのことについて黙想したいと思います。
 
今日の聖句は、イスラエルの指導者となったサムエルの母ハンナの祈り、そしてキリストの宣教者パウロによるメッセージの言葉です。そして、これらの言葉が祈られ、また書かれた前提にあったものが共通しています。それは「苦悩」でした。
 
ハンナはなかなか子どもが授かりませんでした。子どもが授かるというのは、当時の世界では祝福と大いに関係のある者とみなされていました。ですから、ハンナになかなか子が与えられないのは、自分自身が祝福から遠くある者と彼女は考えていました。だからこそ、彼女は悩み苦しみました。
 
しかし、彼女に男の子が与えられます。この男の子こそサムエルだったのです。神は私の苦しみを決して捨て置くことなく、神の御心によって確かな答えを与えてくださった。だからこそハンナは神に自分をささげました。大切な子を自分の所有物とすることは決してなく、神のものとしてささげたのです。苦しみの末にハンナが神によって与えられた喜びは、そのまま喜びとして神にお返しすることができたのです。
 
同じことが、使徒パウロにも言えました。パウロはイエスをキリスト(救世主)であることをひとりでも多くの人たちに伝えようと努めました。しかし、彼のそのような働きが万人の喜びとなったわけではありませんでした。時に怒りや憎しみを買い、命が危ぶまれることだってあったのです。
 
しかし、パウロが経験したこれらの苦労は「決して無駄にならない」ということを、パウロは手紙においてその読み手に書きつづりました。第一コリント書15章は、まさに「復活に向かう希望は、決して私たちにとって無駄なものではないのだ」ということをつづり、その結論として、その喜びを与えてくださる神に感謝しましょうという、今日の新約聖書の言葉へとつながっていったのです。
 
喜びというのは、から騒ぎ的な、もしくはどんちゃん騒ぎするようなものでは決してなく、私たちは決して喜べるような状況でなかったとしても、それを惜しみなく与えてくださる神が私たちとともにおられるという実感が、私たちひとりひとりを本当の意味での喜びへと導いてくださるのだということを、私は今日の聖句を通して受け止めたいと思ったのです。
 
悲しみが、寂しさが、たとえ私たちに容赦なく襲ったとしても、神はご自分の喜びというものを、その場にもっともふさわしい形で与えてくださるということを信じることができますように。そして、そのことが私たちにとっての希望のいしずえとなることができますように。お祈りします。

12/11/2025

2025.11.12(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記1章17節
裁判において偏りがあってはならない。小さな者にも大きな者にも等しく耳を傾けなさい。裁きが神のものである以上、誰をも恐れてはならない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙2章9節
しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者と定められます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。今日も皆さんの一切が、神の守りによって平安を味わう一日でありますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「神の裁き」というものです。そのことについて黙想したいと思います。
 
私たちが裁きという言葉を耳にしたときに、どのようなイメージが沸き起こるでしょうか。私ならば「断罪」という意味が容易に浮かび上がりますし、裁くという言葉の意味であることは間違いないわけです。
 
しかし、裁き=断罪というのは、裁きという言葉の一部分しか表していないのだとあらためて思わされます。私はどちらかと言えば、裁き=審査という言葉のほうが近いのではないかと思っています。審査の結果、断罪することもあれば、そうでない場合もあるということです。実際に「審」という言葉を用いて「審き(さばき)」という語があるくらいですから。
 
つまり、裁きの意味するところとは、公平・公正に審査するということなのです。それが法治国家であるならば法に基づいてそのことをなされるわけです。そして、今日の聖句が指し示す裁きの基準とは「神の公正さ」であることが記されています。裁きの根本にあるのは、神が私たちに対してどのような思いをもって命を与え、尊厳を与え、生きる幸いを与えているかということに他なりません。そもそも「法」というのも、歴史的に良心に基づいた倫理的な視点があって発展したことも、私たちは決して見逃すことができないのです。
 
昨今、インターネットやSNSの普及によって、情報というものが多岐にわたって、広く私たちのもとに届けられるようになっています。誰もが簡単に情報を発信することができるのです。しかし、それら情報のなかには、極めて公平性・公正に欠けるもの、倫理観の欠如をもよおしながら広く発信されるものがなんと多いことかと思わされることがあります。実に嘆かわしいことです。
 
裁きというものは、裁かれるその結果が出されるまでは何も分からないのです。にもかかわらず、その結果が出される前から断罪という一面ばかり強調されるがゆえに、その情報が流布されて、今日の聖句にもあるように偏りのある見方、考え方が人々のもとに届くということがあります。冤罪というものはそのような一面的な断罪から起きるものであって、私たちの世界における偏りや分け隔てというものの産物なのだと思わされるのです。
 
しかし、私が思うに、これは人間の「限界」なのだと思います。見える部分だけで判断をし、断片的な情報だけで意思を決定するような世の中は、何を隠そう私たち人間がつくりあげているということを、私たちは決して忘れてはならないのだと思います。
 
だからこそ、私たちは公平に、公正にこの世界を調べ、審査され、その結果をご自分の言葉をもって示される神の裁きというものに、是非心を寄せていきたいと思わされます。隠れたところをすべて見ておられ、ご存知である神ですから、その神の信頼に心からアーメンに答え応じる者でありたい。これが、今日私が受け止めたいと思ったことでした。
 
ゆがまない、偏らない、分け隔てしない神の思いが私たちの心に届き、染み込み、そのことが私たちの神によって作り上げられる私たちの生きる基盤となることができますように。一日の平安を心よりお祈りします。

11/11/2025

2025.11.11(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨシュア記8章1節
恐れてはならない。おののいてはならない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書9章29~30節
イエスが二人の目に触れ、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われると、二人は目が見えるようになった。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。

今日のローズンゲンに示された御言葉によって、神が語り掛けてくださるメッセージに耳と心を傾けてまいりたいと思います。これらふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神のなさることに望みを託す」というものでした。そのことについて黙想したいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は「二人の盲人を癒やす」という小見出しが、私の使用している聖書協会共同訳に記されています。実際にイエスによって盲人の目が癒やされ、彼らの目は見えるようになりました。しかし、これは単に目の見えなかった人たちの視力が回復したという出来事だけを述べている物語なのでしょうか。
 
私はその前提にあるイエスと盲人たちとのやり取りに注目したいと思いました。盲人たちは、イエスに「私たちを憐れんでください」(27節)と叫びながら、イエスの後を付いて行きました。この「憐れんでください」という言葉に隠された、これまで盲人たちが背負ってきたさまざまなヒストリーというものを考えてみたのです。
 
確かに目が見えないことで、さまざまな生活の支障があったことでしょう。いわゆる健常者と同じことができないがために、多くの苦痛を得てきたことでしょう。身体的なものにとどまらず、精神的にも社会的にも、彼らは苦しかったのです。この状況のすべてをひっくるめて、彼らは「私たちを憐れんでください」と訴えたのだと私は思うのです。
 
彼らの主訴は、その目が癒やされることにあるのではなく、苦しんでいる自分自身を憐れんでくださいというものだったのです。この苦しみを、イエスならば取り除いてくださるに違いないという確信が彼らにはありました。それがどのような方法によって解放されるかということも含めて、イエスに自分たちの望みを託したのでした。イエスによって見えない目が癒やされたのは、イエスによって与えられた答えであり、その結果だったのだと。
 
イエスは盲人たちに尋ねました。「私にできると信じるのか」(28節)。この「できる」というのが、目を癒やすことそのものだったのか。結果から見れば確かにその通りだったでしょう。しかし、盲人たちがイエスこそ自分たちに憐れみをかけてくださるということが「できる」というイエスの言葉に集約されていると読むことだってできるのだと私は思うのです。
 
私たちの望みというのを神はどのように聴き入れ、そして望みを具体的にかたちにしてくださるのか。私たちにはそのすべてを予測することはできません。神が主体にあるからです。しかし、決して悪いようにはなさらない。恐れず、臆することなくイエスに一縷の望みを託して叫び続けたというところに、彼らの「信仰」があったということだと私は受け止めたいのです。イエスは「あなたがたの信仰の通りになれ」と答えられました。イエスの憐れみは、結果的に彼らの目が見えるようになるという出来事へと、盲人たちの希望を現実へと揺り動かしていかれたのでした。
 
私たちはあらゆることに恐れ、おののきます。不安に駆られて、先行きの見えない自らの進路をためらいながら、おっかなびっくり歩むこともあるでしょう。しかし、それらを乗り越えて歩むことができるのは、神に希望を託すこと。私たちの思いをはるかに超越した神の御業が、私たちの今日の一日をも守り、平安を与え、祝福してくださる。このことに、私たちひとりひとりが希望にして歩んでまいりたいのです。
 
皆さんにとっての今日の歩みが、そのようなものとなりますように。私もそうしたいと思います。お祈りします。

10/11/2025

2025.11.10(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨブ記33章13~14節
なぜ、あなたは神と争うのか
自分の言葉に神が一つも答えないからといって。
神は一度語り、また再び語るが
人はそれに気付かない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録2章7節
耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。

昨日はそれぞれの持ち場で主の日を過ごされたことと思います。そして、今日から週日が始まりました。訪れる日々が、神である主とともに歩む幸いを味わえるものとなりますように!
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは、「神の御心は神によって必ず示される」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、ヨブ記の一節でした。悪魔のいたずらによって、命以外のものはすべて奪われ、取り去られてしまったヨブは、苦悩のなかにありました。ヨブは神のなさることを心から信じていました。これまで多くの祝福をいただいていました。しかし、ヨブは何もかも失ってしまったときに、「神は本当に私の思いを分かっていてくださっているのだろうか」と、神に問いかけます。そして、神に対してそのことを訴えました。
 
これはヨブに限ったことではありません。自分は神を信じているのに、どうして私が願う通りにならないのだ。そんなことで私たちは往々にして思い悩むのです。まさに、今日の聖句にある通りです。しかし、本当に神は私たちの訴えを知らないのでしょうか。それに答えてくださっていないのでしょうか。 
 
今日の聖句は、そんな私たちの思いを打ち砕きます。神はすべてをご存知なのだ。そして、ことあるごとにあなたに語りかけている。しかし、その意味を探ろうとせず、受けとめも受け入れもしないのは、何を隠そう私たち人間の側にあるのだと。
 
私たちはどうしても「自我」を「神の御心」にすり替えて、さも自分の願望が果たせないときに、神の御心はどこにあるのかと疑いの思いを抱いてしまうのです。これはアダムとエバ以来、人間が抱き続けてきた「認識のゆがみ」に他なりません。自分を神としてしまうのです。そして、自分の意に沿わない出来事を、いとも簡単に神に責を押し付けてしまうのです。自分自身が神によって「変えられていく」ことを知らずにです。
 
私たちはそのことに気付けないのです。ヨブに語りかけられた今日の聖句は、まさに私たちひとりひとりにも問われていることなのだと、私は真摯に、そして謙虚に受け止めていきたいと思わされました。聖書の言葉に触れるとき、神に祈りの言葉をつむぎ、神に自分自身の眼を注ぐときに、たとえ自分の願望が果たせなくても、だからこそ、神の言葉には自分自身の思いや心を変革する何かがあることを信じ、そこに希望を寄せたいのです。
 
私たちの聴く心が問われています。今日の新約聖書の言葉は「耳のある者は聞きなさい」と語りかけます。物理的な耳ではなく、心を傾ける。自我を超越する、はるかに私自身を豊かにさせる神の言葉が、聖霊の導きを通して今日も迫って来ることを想います。そんなことを、今日の一日、そして今日から始まる週日の日々のなかで、じっくりと黙想し、その通りに生きることができたら、どんなに幸せだろうかと希望を抱きつつです。
 
神の御声を通してその御心を知る幸いを味わうことができますように。お祈りします。

09/11/2025

2025.11.9(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記4章23節
あなたがたは気をつけて、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れず、あなたの神、主が禁じられたいかなる形の彫像も、自分のために造らないようにしなさい。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙1章20節
神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物を通してはっきりと認められるからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。

新しい一週間が訪れました。今日、世界中で行われる主の日の祝祭を通して、礼拝や集会、神を想うすべての人が、神の御姿というものを感じ取ることのできる素敵な時となりますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が今日受け止めたいと思ったメッセージは「つくられたものを通して神を見る」というものでした。そのことについて書きつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、自らつくりあげた「偶像」を神とすることへの警告の言葉でした。偶像とは英語で「アイドル」と言います。日本でアイドルという言葉を今でも使っているかどうかは私もよくわからないのですが、いわゆる「推し」という言葉で今は表現されているのかもしれません。いずれにしても偶像という言葉には「自分好みの」という意味が込められていると私は受け止めています。
 
つまり、あらゆる物事に対して、私たちはもちろん「好き嫌い」というものがあるわけですが、そんな時に「神はこの物事に対してどのように思われているか」という視点を、私たちは知らず知らずの間に自分の思いのなかから排除してしまうことがあるのではないか、私はそんなことを感じました。神の思いを問い尋ねることよりも、自分自身の欲求を優先して物事をとらえてしまうのです。
 
こうして自分好みのものだけを優先してしまうと、もう他のものがどうなってしまおうと、私には知ったことではないという態度を明らかにしてしまうのです。そうなってしまうと、そこにはもはや平和などは存在しなくなってしまいます。どちらか一方が自分だけの好みを追求すればそのことによって犠牲が生じますし、互いの自己利益が募れば衝突して争いになってしまう。良いことなど何ひとつないのです。
 
だからこそ、物事を通して神を見つめるということの大切さというものを、今日の聖句は教えているような気がしてなりません。私が見ているこの出来事を、神はどのようにご覧になられているのかという視点は、自分自身を客観化するうえでとても大切な作業であると私は思います。自分自身を客観化したときに、神が私たちの主体に立っていくのです。神の思い(神の御心とか神の価値観と言い換えることもできるでしょう)が私たちの真ん中に立った時に、そこには必ず平和が生み出されていくのだと、私は強く信じたいし、そのことを胸に、神にある平和的な営みというものをもって、今日も歩んでいきたい。そう願わされました。
 
神がもたらしてくださる永遠の祝福に向かう私たちが、神を見つめつつ、今日も与えられた命を喜ぶことができますように。お祈りします。

08/11/2025

2025.11.8(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書42章16節
私は目の見えない人に知らない道を行かせ
知らない道を歩かせる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書8章12節
イエスは言われた。「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。

今週も最終日となりました。一週間に遭った数々の出来事を振り返りつつ、新しい一週間への備えの時として、今日の一日も神が皆さんを祝福してくださいますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「新たな道」というものでした。そのことについてつづりたいと思います。
 
私にとって、今日の聖句もそうですが、眼に関係した聖句に触れると、自分自身の状況と重ね合わせることが多くなりました。この1~2年間、眼病のために見ることに不自由を覚えていましたから、「見えること・見ること・見つめること」の意味と、その大切さというものをより実感できていると自分自身思うからです。
 
昨日も右眼の再手術の術後1週間検査と診察を受けました。右眼は順調に回復しているのですが、ちょうどひと月前に手術をした左眼に濁りが出ているとのことでした。水晶体レンズを入れると必ずと言ってよいほど起きる現状(後発白内障と言うのだそうです)で、やはり左眼の症状が重かったからということもあるのだそうですが、その濁りの速度が速いのだそうです。レーザーを当てることで簡単に改善されるとのことで、さっそくその処置を受けました。昨日は散瞳していたので、その効果がよくわからなかったのですが、今朝起きたらいささか感じていた見えにくさが改善されていました。見えることへの感動を再び味わうことができました。
 
その時の状況によって、見えたり見えなくなったり、見えやすくなったり見えづらくなることもある。これは、私たちの「神を見る眼」に相通じるものがあるのだと私は受け止めました。私たちは常に心が安定しているわけではありません。外的・内的な要因にかかわらず、神がともにおられるということに素直に喜んだり、それが実感できないときに喜べないといった、まさに一喜一憂しながら生きているのだと思うのです。
 
しかし、そんな私たちを神は決して見捨てられることはありません。見えないならば見えるように導き、見えるならばそのことの深い意味を与えて、私たちの心に喜びというものを深く刻み込ませてくださったり、見え続けないことに辛さを感じるときには、かつて得た喜びを思い起こさせることによって、神を再び認識できるように、私たちを整えてくださるのです。
 
そのことを神が、そして神が私たちに「見えるようなかたち」で理解できるために、人のかたちをとって私たちと同じ人間でともに生きてくださったイエスの生涯、その言動を通して、私たちは神とともに歩むことへの実感を積み重ねていくことができるのでしょう。イエスの言葉に耳と心を傾けていくことへの幸いというものを、今日もじっくりと味わいたいと思わされました。そのことが、明日への良き土台となることができますように。神である主の平安を心よりお祈りします。