14/06/2024

2024.6.14(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エズラ記3章11節
主の神殿の基礎が据えられたことで、すべての民は主を賛美して大きな喜びの叫びを上げた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一3章11節
イエス・キリストというすでに据えられている土台のほかに、誰も他の土台を据えることはできません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が思ったテーマは「私たちの土台」です。私たちは何を土台として生きていくことができるのか。これがいわゆるキリスト教に属するものならば「神を土台として生きる」と答えることができますし、そのことに同意される方も多くおられることと思います。
 
では、神を土台として生きるというのは、具体的に何を表しているのでしょうか。私たちは礼拝で神の言葉の取り次ぎに触れることもあるでしょうし、このような聖書黙想を通して、神の言葉に向き合う機会が与えられることもあるでしょう。私たちはそれぞれが自由に神をイメージすることが出来るかと思いますが、そのイメージというものが、神が本当に私たちに現わしているイメージかどうかということを、常に自問することは必要な営みであると私は思います。
 
これは教会で働く者として常に感じ続け、また感じ続けたいと思っていることですが、私たちが神の持つ価値観であると思いながら、それが本当に神が思っていることかどうか、場合によってはその根拠すら乏しいと思えるようなことが、実はたくさんあるのではないかと思えてなりません。実は神を土台にしていると言いつつも、その実は私の生い立ちや慣習、私の感情や好き好みを根拠にして、そのうえで自分自身の信仰生活というものを営んでいるということが往々にしてあると思うのです。
 
だから、私たちには明確な土台を自分の心の中に据えることの大切さを想わされます。私たちの土台にあるもの、それは神御自身に他ならないですし、神御自身が語られる言葉に込められた神御自身の価値観を私たちは土台として生きることこそ、今日の旧約聖書の言葉にもある「人々の大きな喜び」へと導かれることを心の底から希望して、神の言葉に聴くということを大切にしたいと願うのです。
 
それは、教会の時代になって使徒パウロによって語られた言葉へ継承していきます。パウロは「すでに据えられたイエス・キリストという土台」を、手紙に書きしたためました。手紙の宛先であるコリント教会では、さまざまな価値観の衝突ゆえに人の憎しみというものが教会を支配していました。だから、コリント教会にはしっかりとした土台のうえに立つ必要があったのです。
 
コリント教会の人たちがイエス・キリストを意識していなかったわけでは決してありませんでした。みんなキリストを心に置いて生きていたことに間違いありませんでした。しかし、それは彼らにとって「土台」とはなり得なかった。それを邪魔したのは「自分自身の価値観」だったのです。徹底的に神の価値観、キリストが与える価値観というものを聖書の言葉に丹念に聴くことによって、言葉尻に縛られることなく、自分自身の価値観に支配されることなく、神の思いを尋ねて生きることにこそいただける幸いというものを胸に生きて欲しい。そんな使徒パウロの思いが手紙に込められたのでした。
 
この思いは、今日神とともに生きることのできる私たちにも継承されている。だからこそ、今日も神の言葉に聴き続け、自らの土台とされていることの自覚というものを確認していきたい。そのように願わされました。皆さんひとりひとりの土台にも、キリストの価値観がしっかりと据えてくださいますように。今日の主にある守りと幸いを心からお祈りします。

13/06/2024

2024.6.13(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記13章1節
私があなたがたに命じる言葉を、すべて守り行いなさい。それに付け加えたり減らしたりしてはならない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書7章16~17節
私の教えは、私のものではなく、私をお遣わしになった方のものであるこの方の御心を行おうとする者は、私の教えが神から出たものか、私が勝手に話しているのか、分かるはずである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
私たちが聖書を読むときに、これらの言葉をどのように私たちは受け止めることが大切なのか。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、そのことを私たちに物語っていることを感じました。そのことを黙想してみたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、神がモーセを通してイスラエルの民たちに告げられた言葉であり、私の告げる言葉をすべて守り行いなさいという神のご命令です。神の言葉に従うということは、いつの時代にも神の民が大切にし続けてきたことです。完璧に守り従うことが出来るか否かではなく、守り従おうとする気持ちがあるかということが前提にあってこそ神の命令が生きてくるのだと私は思います。神は私たちの心を問われる方であるからです。
 
その際に、神は「付け加えたり減らしたりしてはならない」ということをモーセに告げられました。このひと言に、私は大変興味深いものを思いました。これをどのように解することができるか。文字通り、聖書の言葉に余計な解釈を加えず、そのまま受け入れればよいという考えもあるでしょう。しかし、神は目に見える行いよりもその動機や心をご覧になられる方であるということを考えれば、私たちは、その言葉に込められた神の思いや願いという本質を見据えたうえで、その本質に自分なりの欲求や願望、独り善がりな考えやえり好みというものを付け加えたり減らしたりすることがあってはならないということなのではないかと受け止めたいと思いました。
 
私たちが神の言葉に聴き従えないと思う時に、なぜそうなのかという「なぜ」を自分自身に問い続ける姿勢というものを大切にしたいのです。それが単なるわがままから来るものなのか、神の助けを得ようとせずままに自分自身の殻に閉じこもるがゆえに聴き従えない、いや聴き従おうという気持ちすら放棄してしまうようなことがあれば、私たちは神の助けというものに出会えないまま、ただ無為に時が過ぎてしまうかもしれません。それは大変もったいないことだと私は思ったりもしています。
 
神の御心に込められた本質にただ忠実だったイエスが、自分の言動が神からくるものなのか、それとも自分のオリジナルによるものなのか、神の御心を問い続けるならば分かることであると人々に伝えられました。それが今日の新約聖書に指し示された意味なのですが、イエスも神の言葉を機械的に文字面だけで読むのではなく、自分自身の願望で加除するわけでもなく、神の御心の本質に基づけば、それがどのような評価を受けようとも、それが神由来であることが分かるということを説かれました。
 
当時のイエスの言動は、神の名を冒涜した極めて身勝手なものであるという評価がありましたから、イエス自身の言動がいかに本質に基づいたものであり、神の言葉に聴従した究極のかたちであるかということが、分かる人には分かり、それが世界中に広がり、今日に私たちにも継承されているということなのだと私は受け止めたいと思ったのです。
 
神の本質に生きることの幸いというものをかみしめながら、今日の一日もまた歩むことができますように。皆さんの一日に、神様からの守りと祝福をお祈りします。

12/06/2024

2024.6.12(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編8編7節
(すよ、あなたは)御手の業を治めさせ
あらゆるものをその足元に置かれた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一6章12節
私には、すべてのことが許されています。しかし、すべてのことが益になるわけではありません。私には、すべてのことが許されています。しかし、私は何事にも支配されはしません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されているふたつの聖句に共通するテーマ、それは「支配されるということ」であると私は受け止めました。そのことを黙想したいと思います。
 
支配という言葉を、この一年たびたび用いてまいりました。私がカルトに関する書籍を出版してちょうど一年になろうとしていますが、カルトの定義を「ゆがんだ支配構造」であるということを提唱して以来、では支配とはいったいなんだろうかということを、日々考えて今日に至っています。支配という言葉にゆがみのない意味というものをとらえるためにです。
 
今日の旧約聖書の言葉である詩編の一片は、ダビデ王によって歌われた賛美ですが、森羅万象を創造された神の支配について言及しているものです。御手の業を「治めさせ」とありますが、これこそ「支配させ」と置き換えることのできる言葉です。神は私たちを含むご自分の創造物が、楽園という環境のなかで神との深いつながりによって幸福に生きるということが、神のたっての願いであるということです。
 
ゆえに、神が私たちに及ぼうとしている支配というものが、私たちを束縛し、有無を言わせないほどに自由を奪い取るような支配ではないということは一目瞭然です。この神の姿勢に基づいて、私たちは神の御手によってなされるすべての御業のもとに私たちが命与えられ、生かされているというのだというダビデは歌いました。
 
このダビデの思いを踏まえて今日の新約聖書の言葉を読みますと、とても理解できます。すべてのことが許されているけれど、すべてが許されているわけではない。このパウロが手紙にしたためたことと、支配という言葉が抜き差しならぬ関係にあります。これを支配という言葉に置き換えて考えてみるならば、「私たちにはすべての支配が許されている。しかし、すべての支配が許されているわけではない」とも言えるのではないかと思います。
 
私たちは自分の意思によって、自分自身に与えられた自由を行使することが許されていますが、それがゆがんだ支配を生み出し、結果として自分の向こう側にある人々を苦しめる結果になってしまうとすれば、それはパウロが意図して書いたこととはずれてしまうのだと私は思います。パウロは知っていました。私は誰からも支配を受けない。受ける必要はない。なぜならば、神によるゆがみのない支配を受けているのだから、ということをです。
 
人を幸福へと導く神の支配を私たちが受けていることの幸いというものを柱にして、それに対する人間によるゆがんだ支配というものを考えつつ、今日の一日を歩んでまいりたいと願わされました。皆さんの一日にも、神様の平和に満ちあふれた支配がともに、豊かにありますように。お祈りします。

11/06/2024

2024.6.11(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言12章20節
平和のための助言には喜びがある。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙12章18節
できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、どちらも「平和」をテーマとして語られた言葉です。平和という言葉に生きる者の幸いについての格言が語られ、手紙を通して人々に勧められています。
 
私は昨晩、そのことについてずっと思いを巡らせていました。平和であることの幸いは誰もが知っていることです。しかし、平和をつくることの何と難しいことよ。そう思ったのです。そもそも平和というものは「関係性」のなかでこそ成り立つものなのですが、人間と人間とのあいだに、そして神と人間とのあいだに、私たちは平和をつくりあげることの難しさというものを痛感しているのではないだろうか。少なくとも私はそのような困難を覚えています。
 
平和をつくり出すのには、ものすごいエネルギーを要します。どちらか一方が平和を心から望んだとしても、相手側が必ずしも私の望むような平和を望んでくれるわけではない。お互いに平和を望んでいるのに、その平和が一致しないとき、また相手の平和観というものを尊重することができないときに、底に衝突の種を産み、その種を用いて優劣を競ったり、相手を刺激することで、その刺激に耐えられないままにいさかいに発展する。使わなくても良いエネルギーを徒労するために費やすなんていうことは、日常茶飯事の出来事です。
 
無駄骨を感じるようなエネルギーを垂れ流してしまうくらいならば、互いの平和のために労力を惜しみなく用いる者でありたい。そう思えてなりません。では、そのエネルギーとはいったい何かという話なのです。私は自分自身のエネルギーとされる体力や気力、知力や性引力というものの源というものに、是非目を注ぎたいと思うのです。その源とは、神の注がれるエネルギーであり、そのエネルギーこそ私たちを平和へ導く聖霊の助けに他ならないと私はとらえたいのです。
 
平和を造る者はすでに祝福されている。なぜなら、あなたがたは神の子と呼ばれているからである」(マタイによる福音書5章8節。私訳)
 
イエスによって語られた「8つの祝福」のなかで、平和を造る者と、神の子とされているというふたつの事実が抜き差しならぬ関係にあることを知らされます。つまり、神の子とされていることの深い認識が、私たちをピースメイカーとして整え、互いに神からの祝福をもって生きることが出来る喜びに包まれる。そのためには、聖霊が私たちの思考感情を豊かに包み込むことで、私たちの平和をつくりあげる原動力であることを、私たちが平和のうちに感じ取るところにこそ、真の幸いというものがあるのだと受け止めたいのです。どんなに歯を食いしばって己のエネルギーを使っても、それだけでは平和を造ることはできないということを、私は心から思いたいのです。
 
平和に逆行する力に触れることは疲れますし、もしかしたら人を疲れさせようとしている力を振りまいているかもしれない。そんな自己省察を今日の聖書の言葉を通してしてみたいと思わされました。すべての人と平和に過ごしなさいという聖書の言葉が、今の私に何を意味するのだろうか。好戦的にならず、しかし物事をうやむやにするのでもなく、神が望んでおられる平和を希求する一日でありますように。皆さんの一日にも、神の与えてくださる平和がともに、豊かにありますように。お祈りします。

10/06/2024

2024.6.10(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記10章3節
モーセとアロンはファラオのもとを訪れ、彼に言った。「主はこう言われる。『私の民を去らせ、私に仕えさせよ』。」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙5章1節
この自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました。ですから、しっかりと立って、二度と奴隷の軛につながれてはなりません
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今週も新しい週日の日々が始まりました。皆さんのウィークデイの日々に、神である主の守りと祝福がともにありますように。心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマ、それは「神による解放」であると私は受け止めました。そのことを黙想を通して深めてみたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、エジプトでの奴隷状態に苦痛を感じていたヘブライ人に、神はモーセを通して人々を束縛から解放されることを宣言します。エジプト王に通じることのできるモーセ(彼は王族として育てられたヘブライ人)でしたから、兄であるアロンをともなって、王に神の思いを伝えます。自分の民をエジプトから去らせると。
 
ただ、この時エジプト王は、モーセとアロンを通して語られた主の言葉を聞くのは、これが初めてではありませんでした。聞けば聞くほど、王は心をかたくなにしてヘブライ人を解放することを拒みました。それに対して、神はご自分の力をもってエジプトに災いを降りかからせます。しかし、災いが起きれば起きるほど、エジプト王は心をかたくなにしたのでした。
 
私たち人間の悲しい性がここにあると思いました。自分にとって不利益なことがあれば、私たちは心を素直にして向き合うことができない。心が意固地になってさらに人を困らせようとする。それを行使している当人は正義のためにそれを成そうとしているのかもしれないが、それは傷つきそうな己のプライドを誇示しているしか過ぎない。実にファラオの行っていることは、私たち人間のしばしばみられる行動に共通するのではないか。自戒を込めつつ、そのように思えてならないのです。
 
しかし、そのような人間のプライドなど、神の御前には何の効力も発さない。神はただただご自分の民を守るために、ご自分の御心というものを明らかにされました。エジプトから去らせ、神が約束された土地にご自分の民を導こうとされる。それが自由と解放への道であるということなのだと。人々にとっての自由と解放とは、神の言葉によって神とともに歩むことで実現可能とする自由と解放なのです。
 
今日の新約聖書の言葉で告げられている「奴隷の軛」とは何なのだろうか。自由と解放をキリストを通して与えられた神が、その対極にあるものとして「奴隷の軛」という表現を私たちにパウロを通して与えられました。軛(くびき)とは、本来家畜を縛り付けるための農具です。自分の思い通りにならないひとつの象徴とも言えるでしょう。
 
この「自分の思い通りにならないこと」と「私たちのプライド」というもののあいだにこそ、それに束縛されてしまう私があるのだと思うのです。ファラオしかり、そして私たちしかりなのです。私たちに神からの自由と解放を妨げるものがあるならば、その最大たるものこそ、自分自身を縛り付ける私自身のプライドなのだと。そこから解放されるために、神のなされたことに想いを寄せる一日でありたいと心から願わされました。
 
自分自身を守ることは大切です。しかし、本当に守られなければならないことは、神との関係性によってこそ浮き彫りにされてくるのだと。だからこそ、神の思いに込められた自由と解放というものを、誠実に受け取る者でありたいと思います。決してつまらないプライドの誇示につながらないような誠実さを。今日も主にあって素敵ないちにちでありますように。お祈りします。

09/06/2024

2024.6.9(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨブ記31章4節
神は私の道を見つめ
私の歩みのすべてを数えていないのだろうか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書12章6節
五羽の雀は二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神の前で忘れられてはいない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間の朝を迎えました。今日の主の日、世界中で行われる集会や礼拝の一切に、神からの豊かな祝福がともにありますように。心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して感じたこと。それは「神は私たちの細部までご存知であり見守っておられる」と私は受け止めました。
 
私たちは、神から見捨てられたと思えたような経験をしたことはないでしょうか。ここぞの時に神からの助けをいただきたいと思っても、なかなか自分の思うように神が助けの手を差し伸べてくれないのです。本当に神がおられるならば、その神を心から信じているのに、どうして神様、あなたは振り向いてくれないのですか。そんな感じで愚痴りたくなるのです。少なくとも私はこのような経験を何度もしているように思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、まさに苦難の渦中にあった義人ヨブの訴えです。義人というのは、神がおられるということを人生の土台にして、神とともに歩んできた人生の持ち主という意味での義人です。神がともにおられることなど、彼にとっては当たり前のことだったのです。しかし、そんなヨブでさえ、神が本当におられるのだろうかと疑いたくなるような出来事が確かにあったのです。ヨブとて市井のひとりに過ぎませんでした。ここに、私たち人間の真実というものがあるのだと私は思います。
 
しかし、ここにこそ神の真実というものもあるのであって、神が本当に人に対して助けの手を差し伸べられるのは、神がベストと思えたときなのだということを、私は心から信じたいのです。神がベストと思われる時と、私たちがベストと思える時のあいだには、時にいささかのズレというものがあるのだと、私はそう受け止めたいのです。そのギャップが私たちを苦しませ、痛みを生じさせるのだと。そんな風に考えたいのです。
 
イエスは言われました。どんなに小さい小鳥でも、神はその一羽すら忘れることはないのだと。小鳥を取るに足らないものととらえるのは、私たちの固定観念かもしれません。しかし、神の世界は違う。神にとって必要でない存在など無いのであって、どんなに小さくとも忘れることなく、その小さな存在が生きることができるために、ベストタイミングをもって見なしてくださる。ここに神の魅力というものがあるのだと、私は今日の旧約聖書の言葉にあわせながら、メッセージとして聴き取り、受け取りたいと思いました。
 
一羽の雀こそこの私なのだ。この雀を養ってくださる神に感謝しつつ、今日の一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの一日に、神からの守りと祝福が豊かにありますように。お祈りします。

08/06/2024

2024.6.8(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編27章10節
父と母が私を見捨てようとも
主は私を迎え入れてくださいます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙4章14節
そして、私の肉体にはあなたがたのつまずきとなるものがあったのに、あなたがたは蔑んだり、忌み嫌ったりせず、かえって、私を神の天使のように、そればかりか、キリスト・イエスのように受け入れてくれました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマ、それは「受け入れ、迎え入れる」であると私は受け止めました。具体的には、究極的に両手を広げて私たちを迎え入れてくださる神がおられるということ、私たちを迎え入れてくださる神によって受け入れられる私たちもまた、神の思いを胸にして人を迎え入れることができるのだということを、今日のふたつの聖句は私たちに伝えているような気がしてなりません。
 
今日の旧約聖書の言葉である詩編の一片は「父と母が私を見捨てようとも」とあります。私たちにとって親の存在というものがいかに大切なものであるかということは、私たちの誰もが知っていることです。しかし、そうは思っても実際に「親に見捨てられる経験」ということが世の中には実際にあるわけであって、理想と現実のあいだに大きな隔たりが存在することも、私たちは自他の経験のなかで知らされているのだと思います。
 
私は「親に捨てられた」経験があります。幼い頃父親から捨てられて、最近母親から縁を切られました。その詳しい事情はここでは割愛しますが、最終的に神の御心に立つということは、さまざまな人間の感情に波風を立たせ、時には嵐と暴風雨を巻き起こすような負の力というものを生み出すことを実感させられています。
 
しかし、そのような感情の先には、やはり両手を広げて向か入れてくださる神がおられる。本日の詩編の言葉は、そのことを心から感じさせてくれる大きな慰めと励ましというものがあることをつくづく思わされるのです。父と母が私を捨てようとも、主は私を迎え入れてくださる。神の御心というものに立って誠実に生きようとするならば、神は必ず平安と祝福を私に、そして私のみならず私の向こうにあるすべての人たちにも及ばせてくださることを信じたいのです。
 
人は誰でも、つまづきとなる何かを持っています。差し障りという言葉でも言い換えることのできるものかもしれません。その差し障りというものが、人間にさまざまな負の感情を生み出す元になるのかもしれません。しかし、人間を簡単につまづかせるかもしれないそのような差し障りですら、私たちの神ははねのけて私たちを迎え入れてくださる。ここにこそ、私たちの生き方のモデルというものが込められているような気がしてならないのです。
 
私たちは簡単につまづくし、そのつまづきというものが、なかなか簡単に自分自身のうちから取り除けないことをよく知っています。しかし、そんな私たちを大切に思ってくださっている神の親心というものに励まされながら、少しでも神が与える平安の道を歩むことができたら、どんなに幸せだろうと思うのです。この幸いのために、今日という一日が用いられることに感謝したい。そんなことを思わされました。
 
今週も最終日を迎えました。この一日が神の与えてくださる祝福によって平安のうちに過ごすことができますように。心からお祈りします。