08/05/2024

2024.5.8(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編40編4節
(主は)私の口に新しい歌を
我らの神への賛美を授けてくださった。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙4章23節
あなたがたは、心の霊において新たにされなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された新約聖書・エフェソの信徒への手紙4章の言葉に注目してみたいと思います。
 
この手紙を書いた使徒パウロは「心の霊において」あなたがたはあらたにされなさいとしたためています。この「心の霊」とは聞き慣れない表現だと思ったのです。従来の聖書ですと「心の底」とか「心の深み」と訳されていました。こちらのほうが分かりやすい印象を与えます。しかし、新しい聖書であえて「心の霊」としたのは、原語にプネウマという言葉が使われているからです。まさに「」と一般的に訳されている言葉です。
 
私たちの感情はどこから来るのか。そんなことを思います。もちろん心から来るのですが、そもそも心とは何なのだろうか。さらにそんなこと思わされます。聖書において、人間が神によって創造された記録に触れるときに、神は「命の息」を土でかたちづくった人形に吹き入れられたことが分かります。霊という言葉は、息という言葉としても表現できるものです。私たちにとって息、つまり呼吸することが生きるために絶対不可欠な営みであるように、私たちの心もまた呼吸し、常に新しい空気を体内に取り込むことが大切なのだと。そういう意味で「心の霊」という表現は、とても適切な言葉なのだと考えさせられました。
 
そのような呼吸する営みのなかで、私たちは心のうちにあるさまざまな感情や認識というものをも吸ったり吐いたりする。だからこそ、新鮮な空気を吸うことによって、体内の凝り固まっているものを吐き出すことができるという呼吸の原理に従いつつ、私たちは心の奥深くにある霊を、フレッシュな状態に保つことが神の助けによって可能とさせられるのだと思わされたのでした。それは、心の霊に神が与えてくださった聖霊が注ぎ込まれることで、私たちの心の霊が神と結び合わされて、どんな時にあっても神の霊によって私の心も新たにされて、新しい歌を、神を賛美する営みへと、私たちを神が促し、導いてくださるのだと受け止めたいと思いました。
 
呼吸するように聖霊の助けをいただくことで生まれる新しい一日が、大いに祝福されますように。お祈りします。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     

07/05/2024

2024.5.7(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編50編2~3節
この上なく麗しいシオンから
神は光を放たれる。
我らの神は来られ
黙ってはおられない。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書12章32節
律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』と言われたのは、本当です。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された聖書の言葉のなかで、新約聖書・マルコによる福音書12章に描かれているエピソードは、イエスと律法学者とのあいだで交わされた会話の一節です。
 
聖書に親しんでおられる方ならば「律法学者」と聞けば、何となく良いイメージは起きてこないのではないでしょうか。常にイエスをやり込めようと思い巡らして挑戦的にイエスへ迫るものの、イエスの言葉や態度によって逆にやり込められてしまう。そしてイエスにうらみを募らせ続ける。そんな印象です。私も律法学者と聞くと、そんなイメージを抱いてしまいます。
 
しかし、ここで登場する律法学者はそのような固定観念を覆させるものがあります。イエスに対して律法学者は尋ねます。あらゆる戒め(律法)のなかでどれが一番重要であるかと。イエスは答えます。ただおひと方である神を徹底的に愛すること、そして自分自身を大切にするように隣人を愛することと。このイエスの応答に対して、律法学者が答えたのが今日のローズンゲンに示された新約聖書の言葉です。
 
この律法学者が私たちのイメージにあるような律法学者と違うところは、神が何者であるかということを中心として物事をとらえ、そして考えているというところにあると私は思います。そこにはイエス対して己の正義を振りかざすべく願望を果たし、自己主張だけに終始する姿はありません。真摯な律法の学者らしく、イエスの言葉にフラットな視点で同意し、神を神としてあがめている思いを、私たちは律法学者の言葉からうかがい知ることができます。
 
だからこそ、律法学者の言葉に対して、イエスはこの律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは神の国から遠くない」と言われた。(34節)と言われました。神の国、つまり神が天地にもたらすご自身の価値観がこの場にあふれました。神御自身がイエスと律法学者、そしてその会話を聞いていたすべての人たちのあいだで、神を神とする。神の価値観が第一に立ったからです。
 
そのことを踏まえて、もっとも大切な戒めとしての「神を愛し、隣人を愛する」ということを考える際に、私たちにとって愛するという行為は、神を中心としたところにあって初めて成り立つものであることが分かります。私たちは神を除外して愛を育むことも可能でしょう。しかし、それは聖書で言うところの愛ではありません。一時的な、簡単に壊れやすくもろい愛に過ぎません。私たち人間は、この「愛らしきもの」を真実の愛ととらえてしまうがゆえに、その愛が壊れゆく姿に接しては苦痛を感じるのかもしれません。
 
だからこそ、神が私たちに与えてくださる愛とは何かについて、聖書の言葉から丹念に耳と心を傾けつつ、自分自身が望む愛のかたちと比較しながら点検する必要があるのだと私は思いました。その時に大切なのは、私は神の思いを第一にしているだろうかという問いの一点に尽きるのだと思います。
 
神が私たちの心に光を放たれるときに、私たちの姿を明らかにしてくだいます。その姿に逃げることなく、己と向き合い、神を見つめることができますように。皆さんの一日に、神の守りと平安をお祈りします。

06/05/2024

2024.5.6(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編27編5節
災いの日に、主は私を仮庵に隠し
幕屋の隠れ場にかくまってくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙二3章3節
主は真実な方です。あなたがたを強め、悪しき者から守ってくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日はそれぞれの持ち場で、主の日をお過ごしになられたかと思います。外は夏を思わせる暑さと快晴の一日。教会のなかにいるのがもったいないと思えるような清々しい陽気で、ゴールデンウィーク終盤のひと時だったのではないかと思います。私の持ち場である仙台宮城野教会でも朝夕の礼拝を、来会者の皆さんといただくことができ、本当に感謝な一日でした。どうぞ、今日の一日もまた、神様の祝福がともに、豊かにありますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示された旧約聖書・詩編27編の一節ですが、この詩を歌ったダビデ王は、どのような思いをもって「災いの日」という言葉をもって、自分の思いを表現したのだろうか。そんなことを黙想してみたいと思いました。
 
私たちにとって災いとは何か。禍(わざわい)という言葉でも表現できるわけですが、国語辞典を見ますと『〔鬼神のなす業(わざ)、「はい(わい)」とはそのさまを表す〕傷害・疾病・天変地異・難儀などをこうむること。悪いできごと。不幸なできごと』(広辞苑第七版)とあります。おそらく私たちが想像する災いのイメージそのものなのではないかと思います。
 
そのなかでもとても興味深いのは、わざわいが「鬼神の業」に由来する言葉であるということです。そこに宗教的な意味合いをもった人々が、わざわいという言葉をつくり出したということなんだと、あらためて気づかされました。神に反抗し、神がもたらす良いものを阻害し、人々に神の放つ光をさえぎろうとする悪魔の働きこそ、災いの根源なのだとも思わされるのです。
 
ただ、聖書を読みますと、神御自身も災いを引き起こされる方であることが各所に記されています。私たちは、神が引き起こす災いと、悪魔が引き起こす災いを混同してはいないだろうか。そんなことをあらためて思わされました。どういうことでしょうか。
 
神の人間に対する第一の目的は、災いを人間に降りかからせることではなく、あくまで人間に幸福を与えることです。旧約聖書の時代に数々の災いを与えた神の怒りは、イエス・キリストひとりの命の犠牲もって相殺されました。まさに「災い転じて福となす」ということを、私たちの神は私たちのためになしてくださったのでした。
 
だから、私たちは神を信じるにあって、神の怒りや災いというものに過剰な恐怖心を抱いてそうする必要は全くありません。恐怖ではなく、かしこまりうやまうという畏敬の気持ちをもって、神をおそれることができるのです。それを、神の怒りや呪いというものを強調して人々にアプローチをしようとする動きがあるならば、それは神の与える良いものを阻害しようとする悪魔の働きであり、本当の災いなのかもしれません。悪魔はこうして、絶妙に論点をすり替えながら、人間を神から引き離そうとしているのだと思うのです。
 
だからこそ、今日のダビデの祈りしかり、今日の新約聖書の言葉にもあるように、私たちを悪しき者から守ってくださる主なる神に、自分自身を託したい。そのように願わされました。私たちの生活をご自分の言葉と助けによって導かれる主が、今日も私たちの生活を良いものをもって導いてくださいますように。

05/05/2024

2024.5.5(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編42編2節
鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように
神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書17章5節
私どもの信仰を増してください。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやって来ました。この最初の日である今日が、皆さんにとって素敵なスタートとなりますように。そして、世界中で行わわれる主の日の祝祭、その礼拝や集まりの一切に、神様の豊かな祝福がともにありますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、私たちにとって「信仰」とは何だろうかということを考えるうえで、とても大切なことを私たちに伝えている。私はそのように感じ、また受け止めたいと思いました。
 
信仰というと、私たちから神に向かう行為「のみ」に集中されてしまう。私はそのような傾向に危惧というものを抱いています。そのような信仰のとらえ方になりますと、どうしても私たちの鍛錬であるとか功徳の結果が信仰である言ったように、人間の行動が信仰のすべてという風に、この言葉を理解しようとしてしまうのです。
 
しかし、そうではありません。信仰とは神がなしてくださったすべてのこと、ことに救い主イエス・キリストが私たちのために存在し、実証してくださったすべてが信仰の根源なのであって、その信仰を私たちがいただいて、初めて私たちが信仰というものをとらえることができるのだと。だからこそ、イエスの弟子たちはイエスに対して、今日の聖句にもあるように「私どもの信仰を増してください」と願うことができたです。信仰とは何もない所から自力で獲得するものではなく、主の御業というものをいただくことによって、はじめて成り立つのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は詩編42編の言葉でした。私たちは「あえぎ求める」のです。あえぐ(喘ぐ)という言葉を国語辞典で調べますと「せわしく呼吸する、荒い息づかいをする、転じて困難な状況で苦しむ」とあります。あえぎながら、私たちは神を求めることが大いに許されています。それは究極の弱音ですが、この弱音こそ神と向き合うときにさらけ出されるものなのだと私は受け止めたいのです。
 
弱音を吐いたっていいじゃないか。吐けば吐くほど、神を求めることができるのだから。そして、神は私たちに、イエスの実像というものを感じさせてくださるよう全身全霊をもって働いてくださるのだと。私たちがこうしてイエスの実体と実証をもって信仰をいただくことができたときに、私たちは弱音を吐いた分の祝福があることを、希望として今日という一日を生きていくことが、大いに許されているのです。

04/05/2024

2024.5.4(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨエル書2章26節
あなたがたは豊かに食べて満ち足り
あなたがたの神、主の名をほめたたえる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書6章41~42節
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆にお分けになった。人々は皆、食べて満腹した。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「食べて満ち足り/食べて満腹した」という言葉です。ある意味、聖書全体を通して語られる中心的なメッセージのひとつに「食べる」というキーワードがあるように私は思います。
 
私たち人間が神によって造られたとき、神が与えた命令のひとつに、食べることに関するタブーがあったことは、皆さんもご存知の通りかと思います。「あの実だけは食べてはならない」というものでした。してはならない行動が、あるものを食べるというものだったのです。いかに、私たちが持つあらゆる行動のなかでも、食べるということが中心的なものであるかと言うことが分かります。
 
出エジプトにおけるイスラエルの民が発した嘆きも、飲食に関することでした。水が飲みたい、あの食べ物を腹いっぱいに食べたい。マナでは物足りないと言った具合にです。飲食というものが、私たちの生活をいかに中心的に支えているかということが分かります。食べることひとつで、神に従えるか否かというところにまでかかってくる。本当にそう思わされます。
 
そのなかで、イエスは食べることはすなわち命に通じることを人々に知らせました。今日の聖句に示されているような食事の奇跡を起こされたり、今度はイエスご自身をパンになぞらえて、弟子たちとともに晩餐の食卓を囲んだ最後の夜。常に食事をともに囲んで、弟子たちとの交わりを楽しまれたことを考えれば、イエスという方が、食べるということを通して人々との交流というものを大切にされたかということがよく分かります。
 
私は、飲食ということを語る際に、食べること・飲むことというのが、以上に述べたように、人を喜ばせもすればその逆もある出来事であるということに、もっと敏感でありたいといつも思わされています。食べるという極めて生理的欲求に基づいた行為によって、それは腹を満たすだけの「えさ」になりもすれば、神からの恵みに満ちた「食べ物」」にもなる。ということです。
 
つまり、私が思うに食べるということが、今日の聖句にあるような満ち足りる喜びへと導かれるとするならば、神が今日も私を生かしてくださるために、食べるという出来事を与えてくださるのだという思いを、心のどこかにしっかりと抱いていたい。そう思わされたのです。
 
私事、ここ2週間あまり風邪をひいてしまったなかで、その半分は嗅覚がいつものように無く、食べるということが本当につまらなく感じてしまっていました。しかし、だからと言って食べないわけにもいかず、つまらないと思いながらも、栄養をしっかり摂ることで、回復につながっていくのを日々感じることができました。今朝は9割9分嗅覚が戻った感じがして、あらためて感謝の気持ちにあふれました。
 
皆さんの命を支えてくださる神が、今日も食べるということを通して、私たちに満ち足りる経験を与えてくださいますように。お祈りします。

03/05/2024

2024.5.3(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
レビ記19章14節
耳の聞こえない人を呪ってはならない。目の見えない人の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書6章36節
あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されている旧約聖書・レビ記19章14節の言葉に、今日は黙想を深めてみたいと思いました。
 
この聖句には「耳の聞こえない者、目の見えない者」とあります。何らかの障がいを抱えている方々に対して、どのように私たちは接することが大切なのだろうかということについて述べられています。
 
私たちは耳が聞こえないからと言って、その人の前で暴言を吐いたり、目が見えないからと言って、あえて歩きにくくさせるような行動を起こすことはしないでしょう。しかし、いわゆる「障がい」と言うことを考えた時に、実は私たちはいろいろな差しさわりを抱えながら生きているひとりなのだという認識を、自分自身のこととして真剣に考える必要があるのではないかと、私は思ったりしています。
 
耳が聞こえない、目が見えないというのは、私たちにとってはとても分かりやすいのです。だから、そのような差しさわりを抱えた方々が、より困らない生活を営むことができるように、手を差し伸べたり親切を示したりするでしょう。
 
しかし、私たちが認識しづらい障がいというものもあるのだと私は思います。かねてから、私たちは自分自身の生活を難しくさせている障がいに「トラウマ」というものがあると感じ続けています。心的外傷という日本語があてられていますが、まさにその通りで、心に大きな傷を得られた場合、それが適切に治療されることがなければ、傷を抱えたまま生きなければならない。聴覚・視覚的障害と同じく、トラウマはれっきとした障がいなのだと私は思います。
 
ただ、あらゆるトラウマから来るそのような外傷、障がいというものは、なかなか周囲から理解されにくいものです。わがまま、自分勝手、常識をわきまえていない、社会や集団を乱す。そんな言葉で片づけられてしまう向きがあります。そしてトラウマを負った当人は、ますます生きにくさを感じて、社会からどんどん乖離してしまう。そんなことを思わされます。
 
もちろん、トラウマは適切に治療される必要があると思います。完全に治癒することが無かったとしても、トラウマをトラウマとして向き合うことのできる自分自身が発見できるだけでも、とても良いことなのだと思います。そして、こうも思うのです。私たちは目に見えにくく、そして分かりにくいトラウマという障がいに対して、自分なりの基準で評定して、結果としてレビ記にあるような呪いの言葉を吐いたり、つまづくものをあえて置いて、つまづかせたりはしてはいないだろうかと。。。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスによる私たちへの勧めの言葉です。父なる神が慈しみを示したように、慈しみ深い者でありなさいというイエスの言葉です。慈しみとは親切のともなった愛であると言うことを先日も申し上げました。その親切は甘やかしのようなものとは一線を画すものであると私は思います。だからと言って甘やかしてはいけないと張り切った結果、障害物をあえて置くようなことも違うのではないだろうかと思うのです。
 
私は今日あ、トラウマということを踏まえて聖句から考えてみたのですが、神がイエスを通して言われた慈しみという言葉に、心を寄せて黙想し、実践する者でありたいと願わされました。トラウマから解放されるものこそ、神が私たちに示され、私たちもそうでありなさいと示された慈しみそのものなのだと。
 
今日も神様が皆さんの一日を豊かに祝福してくださいますように。お祈りします。

02/05/2024

2024.5.2(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編81編14節
もし、わが民が私に聞き従うならば

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙1章23節
あなたがたは揺るぐことなく、しっかりと信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句。特に旧約聖書の言葉である詩編81編の言葉は、なにやら尻切れトンボのような印象を私なんかもってしまいました。これは81編14節の前半部分に記されている言葉なのですが、その後にはこのような言葉が続いています。
 
わが民はわが声に聞き従わず
           イスラエルは私を求めなかった。
           私は彼らをそのかたくなな心に任せ
           彼らは思いのままに歩んだ。
           もし、わが民が私に聞き従い
           わが道をイスラエルが歩むならば
           たちまちその敵を屈服させ
           彼らを苦しめる者に向かって手を上げよう。(81編12~15節)
 
この詩編は、神が「私」として、ご自分の民に語りかけておられるようなかたちで歌われています。神の民が自分の思うままに振舞うことにって、神に背を向けて神から離れていく姿が描かれています。
 
しかし、神はここで「私は彼らをそのかたくなな心に任せ」たとあります。私はこのひと言に深い黙想を得ることが出来たのですが、私たちの神は、私に聴き従いなさいと言われつつも、私たちに対して首根っこをつかまえて、操縦するようなことはなさらない御方であることが分かります。あくまで、私たちの心に判断と決断を任せられたと、私は受け止めました。
 
結局のところ、神の言葉に聴き従うか否かは、私自身の問題なのです。私が本当にそのようにしたいのか、したくないのか。神がともにおられることを受け入れ、そのために救い主イエスが与えらえれたことを信じ、受け入れ、洗礼を受けた。そのような誰の目からも見えるかたちで起きた「信仰の出来事」が崩され、取り消されることは決してないのですが、それでも、私たちは「神に聴き従うこと」の本質を、神の助けと力をいただきながら、真摯に求めていく営みというものがいかに大切であるか。私たちひとりひとりに求められている課題なのだと、あらためて思わされました。
 
神はそのことを強制されない。しかし、神は私たちに願っておられる。私たちが自分自身の判断と決断でそうなるように、じっと待っていてくださっている。私たちがたとえ、何度もくじいたとしても、神は私たちが神を心から求め、その言葉に聴き従ったときは、全身全霊をもって私たちの命を支えてくださる。ここにこそ、神が私たちの神となってくだったゆえんというものがあるのだと。
 
今日の新約聖書の言葉は、コロサイの教会に集められた信徒たちに語られた勧めと励ましのメッセージです。信仰に踏みとどまってくださいという勧めですが、いくら勧めたとて、最終的にそのことを受け止められるかどうかは、私たちの各人にかかっていることを思わされます。だからと言って勧めなければ良いというわけにもいかない。だからこそ、自分自身の頭で考え、心でとらえ、自分自身で決断をすることができるように、神が見守り続けてくださったように、私も今日のことはをとらえていきたいと願わされました。
 
今日の一日に、神様の守りと平安が豊かにありますように。お祈りします。