31/07/2022

2022.7.31 仙台宮城野教会 主日礼拝説教

2022年7月31日 仙台宮城野教会主日礼拝

聖 書 ヘブライ人への手紙9章11~22節
説 教 契約更新
説教者 牧師 齋藤 篤

成績いかんで契約内容が良くなったり悪くなったりするようなことは、神と私たちのあいだには存在しません。永遠にわたって私たちの命を守ってくださる新しい契約について、聖書から聴くことができました。
 
↓よりご視聴ください

2022.7.31 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編22編12節
私から遠く離れないでください。
苦難が近づき、助けてくれる人はいません。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一10章13節より
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさりません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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神様は乗り越えられない試練は与えない。
 
競泳の池江璃花子選手が、2019年に急性リンパ性白血病と診断された際に出したコメントに、この言葉が含まれていたことをご記憶のかたが多くいらっしゃるかと思います。池江さんは、それが聖書の言葉であることを知っておられたかどうかは別としても、聖書の言葉がクリスチャンのみならず、池江さんをはじめとする多くの方々にとっての慰め、励ましの言葉となったのは、率直に嬉しい気持ちにさせられるのは言うまでもありません。結果、池江さんは白血病が完解し、2021年の東京オリンピックへ日本代表選手として出場することができました。
 
私は、教会で聖書の言葉が語られる以上に、世の中で聖書の言葉が多くの方が抱えるさまざまな恐れや不安を乗り越えることができるための、支えとなってくれることを心から望んでいます。だからこそ、教会に求められていることはとても大きなことなのだと思わされています。ただ本家本元のプライドを誇示するのではなく、聖書の言葉が自分自身の生き方とされているその現場というか現実の姿というものを見ることができる場としての教会。ここに希望があるとつねながら思わされ、そうでありたいと心から願わされます。
 
そして、それは教会に来たからすべての禍(わざわい)を避けることができるということではありません。禍のなかで痛みや苦しみを抱えている者同士がそのことを共有し合い、祈り合い、励まし合う場なのだと。ひとりで悩むより、同じ課題をもっている仲間がいるところには、大きな慰めがあるのは言うまでもありません。そして何よりも、そのことをすべてご存知である救い主イエスが、聖書にしたためられたご自分の言葉と、聖霊なる神の助けをともなって私たちに近づき、寄り添ってくださる。
 
教会が単に宗教であるがゆえに怪しまれ、忌避されるのではなく、ここにこそ生きる現実の場があることを、今日世界中で祝われる礼拝や集会のすべてを通して、ひとりでも多くのかたがたと分かち合われる場でありますように。心からお祈りいたします。

30/07/2022

2022.7.30 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨシュア記24章24節より
私たちは私たちの神、主に仕え、その声に聞き従います。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書18章37節
イエスはピラトにお答えになった:
私は、真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約聖書と新約聖書を結ぶテーマは「聴従」であると受け止めました。そのことを黙想したいと思います。
 
聴従。それは神の声に聴き従うことです。聖書には幾度となくこの言葉が告げられ、語られ、私たちに期待されていることとして描かれていることを、私たちはよく知っています。
 
聖書の言葉に聴き従うこと=神に聴き従うことであると私たちは受け入れて、聖書の言葉に耳と心を傾けるよう促されることと思います。しかし、ここでもう一度考えたいのは、聖書の言葉に聴き従うとは「どのような聴き従いかたをすることなのだろうか」ということです。
 
聖書の言葉をその文字通りに受け入れるという言葉をよく耳にします。神の言葉をその言葉のままに受け取るというのです。そして、それに人間の解釈を加えることによって、神の言葉を曲げたり変容したりすることがあってはならないということも耳にすることがあります。それが神の言葉に聴き従うことなのだと。
 
しかし、私はこの言葉がもしそのまま運用されるとするならば、それはとても危険なことであると感じています。聖書の言葉を受け入れ、その言葉に従う際に、私たちは誰でも、多少なりとも、その言葉を「解釈している」ことを、決して忘れてはなりません。解釈のない聖書の読みなど、絶対に存在しないのです。
 
聖書の言葉をいただく際に必要なのは、神の側に立った「黙想」であると私は受け止めています。神の側に立った黙想とは、与えられた言葉を通して、神は、イエスはどのようなことを意図され、私たちに告げられたのだろうかということを、じっくりと考えることです。
 
私たち人間だって、交わされる言葉をそのまま受け取るわけではありません。そのまま受け取ることによって、それが相互理解を阻み、トラブルの原因になることはいくらでもあります。言葉に示された意味を問うことで、相互理解への道が開けてくるのではないでしょうか。
 
ましてや、語られた言葉の意味というものを問うことなく、私たちの限界ある知力や感情で、神の語られることを100%理解できるなど、到底無理なことなのだと思うのです。その限界のなかで、言葉の意味を自分の願望に引き寄せるのではなく、神に聴き続けていく営みこそ、神の言葉を神の言葉として受け入れるために、無くてはならないものなのだと。
 
神の言葉を我田引水のように利用する生き方ではなく、神が私たちをどのように取り扱われ、真理を人生のすべてとされた救い主イエスを遣わすほどに私たちを愛された神が、私たちにその愛をもって何を期待され、どのように生きることを望まれておられるか。そんなことを深く黙想する御言葉の受け入れ方を、今日も生活の柱に据えさせてもらいたい。そんなことを思わされました。
 
一週間も今日で最終日。明日の主の日に向かう私たち一人ひとりが、神の言葉によって整えられ、新しい一日を踏み出すことができますように。お祈りいたします。

29/07/2022

2022.7.29 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言4章18節
正しき者の行く末は輝き出る光のようだ。
進むほどに光を増し、真昼の輝きとなる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一3章2節
愛する人たち、私たちは今すでに神の子どもですが、私たちがどのようになるかは、まだ現されていません。しかし、そのことが現されるとき、私たちが神に似たものとなることは知っています。神をありのままに見るからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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神をありのままに見る。
 
今日の新約聖書の言葉は、私たちの見る「目」がどのようなものかについて、深い洞察と黙想を与えるものだと私は受け止めました。私は何を見、見つめているのだろうか。その見つめる先にあるものとは、私が自分の生活において、本当に見るべきものなのだろうか。そんなことを思わされました。
 
今日の聖書の言葉は、旧約も新約も、その見る先が「神」であることを示しています。私たちは祈りや賛美、聖書の言葉を通して、神を見るという営みを行っていることと思います。ただ、その神とはどのような神なのか。聖書に記された神と言えど、その神は本当に私たちを「神に似たもの」として創造された神なのだろうか。そんなことを思わされるのです。
 
今日の旧約聖書の言葉には「正しい者の行く末は・・・」と書かれています。私たちは聖書という本を、道徳の教科書のように読むこともできるかもしれません。正しい者になるために聖書を読む。それも間違いではないかもしれません。しかし、その正しさは私たち自身に帰属するものなのでしょうか。決してそうではないと私は考えています。
 
私たちは、ただ神が正しい御方であるというその一点において、その正しさゆえに私たち一人ひとりが生きていくことができるのだという深い認識こそ、この箴言の言葉に記されたような「正しい者」の姿なのではないだろうか。常に神との深い関わりの中で、自分自身の「ありのままの姿」を正当化し、自分に引き寄せて都合よく解釈する生き方ではなく、私たちのありのままの姿を愛し、大切にしてくださる御方が、私たちの心と思い、日々の営みに光と投じてくださるから、私たちは試行錯誤しながら神とともに歩む幸いに導かれている。そんな風に思うのです。
 
誤解を恐れず申し上げれば、神は失敗することにおいても、大胆かつ完璧にそれをこなす御方であると私は思います。神は後悔します。二度とそのようなことはするまいと私たち人間に語りかけ、誓いを立ててくださる方です。私たちは神の似姿としてつくられた存在であるならば、ありのままに自分自身を問うこともできれば、方向転換をして歩むこともできる存在なのだと感じます。もちろん、そのモデルは神であることを忘れずにいれば。。
 
神をありのままに見るとはそういうことなのかなと、そのような黙想に至りました。私たちの生きざまをただただ見守り、しかし、行くべき道に光を投じられる。その光によって今日の一日を歩みたいと願わされます。今日も一日がそのような光によって平和が訪れますように。お祈りいたします。

28/07/2022

2022.7.28 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨナ書2章9節
空しい偶像に頼る者たちは
慈しみの心を捨てている。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一2章17節
世も、世の欲も、過ぎ去ります。しかし、神の御心を行う者は、永遠にとどまります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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空しい偶像。今日はこの言葉に注目しながら黙想したいと思います。
 
私たちは「偶像」に対してどのようなイメージを抱いているでしょうか。偶像と聞くと、仏像であるとかそのような目に見える神仏をかたちにしたものを想像するかもしれません。しかし、偶像とは、単なる有形のものに限定しない、私たちの心のなかにしっかりと根付いているもの。そういうものを含めて偶像という言葉で表現できるものなのではないかと思わされるのです。
 
ですから「偶像を避けなさい」という、しばしば聖書に記されている文言に出会うとき、他宗教の何かを避けていればそれで良いということでは、この聖書の言葉の意味するところを形式的にでしか理解していない。私はそのように考えています。私たちの心のなかにこそ、実にあらゆるものを偶像化して生きている。これが私たちの偽らざる現実なのだと。
 
今日の旧約聖書の言葉では「空しい偶像」と表現されていますが、そもそも「偶像」と日本語に訳されている言葉そのものに「空しさ・空虚」という意味が含まれているのは、とても興味深いことと言えます。そのようなときに、こんなことを考えます。私が大切にしているものとは一体何か。その大切にしているものは、本当に大切にするだけの価値のあるものなのだろうか。大切にしているものを握りしめていることで、空しさというものが自分自身を襲っていることはないだろうか、と。
 
旧約聖書の言葉に連動する今日の新約聖書の言葉では「世の欲」という言葉で、そのことを表現しています。偶像とはすなわち、私たちの誰もが持っているさまざまな欲求であると。欲求を追い求めることで、慈しみの心を忘れてしまうとはどういうことだろうか。そんなことを思うときに、愛情に飢え、常に自分が愛情で満たされるために承認されることを欲求し続け、いろいろ手を尽くしても愛情が満たされることなく、空しい思いにさせられる。私も幾たびも経験したことでした。
 
そのようなときに「慈しみの心」が捨てられていると聖書には記されているのですが、では、慈しみの心とは何か。それは神の愛そのものであると、私は受け止めたいと思います。神が私たちを大切に守り続けてくださる慈しみは、ときに私たちには理解しがたい、受け入れたくても実感がわかないことがあったりします。そんなときに、より見えるかたちで、わかる形で、人にその愛情を求める、そのために自分自身がとことん尽くす。しかし、求めたり尽くしたりしたとて、経験するのはただ空しさのみ。神を信じる環境のなかでも、こういうことは往々にして起こることなのではないかと感じさせられるのです。
 
今日の新約聖書の言葉で、神の御心を行う者は永遠にとどまるとあります。神の慈しみを知るための、その御心を聖書の言葉と聖霊の助けによって慰められ、励まされながら、その空しさから解放されることを願いつつ、今日も聖書の言葉に聴き続けたい。それが、私の黙想です。なにやらまとまりのつかない文章になってしまいましたが、聖書の言葉に示された神の慈しみというものを大切にして、今日の一日を歩みたいと願わされました。そのような連鎖が、空しさの渦からすこしでも解放されますように。お祈りいたします。

27/07/2022

2022.7.27 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編136編3~4節より
主の中の主に感謝せよ。
ただひとり大いなる奇しき業を行う方に。慈しみはとこしえに。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書17章15~16節
その中の一人は、自分が癒やされたのを知って、大声で神を崇めながら戻って来た。
そして、イエスの足元にひれ伏して感謝した。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約・新約聖書の言葉を貫くテーマは「感謝」です。あらためて自分自身のうちにある感謝の思いについて、黙想を深めてみたいと思いました。
 
今日の新約聖書で日本語に訳されている「感謝」は、原語であるギリシア語では「エウカリステオー(εὐχαριστέω)」という言葉が用いられています。そして、この言葉が聖書にあるとき、それは神に向けられる感謝を示しています。今日の新約聖書の言葉では「既定の病(それはしばしば皮膚の疾患として取り上げられています)」がイエスによって癒された一人の人物が、自分の病が癒されたことを知って、喜んでイエスのもとへ帰り、感謝の言葉をイエスに向けました。結果として、イエスへの感謝は神への感謝であったと言って間違いないでしょう。
 
この聖書箇所では、本来イエスによって病が癒されたのは10人であったことが知られています。しかし、イエスに感謝の言葉を告げたのは、このひとり以外誰もいなかったようです。そして、イエスの言葉によると、このひとりの人物は「サマリア人」であったことが分かります。イエスはこのサマリア人を「外国人」と呼んでいます。当時、サマリア人は救いの外にあると、神の民を自認するユダヤ人によって見なされていました。
 
つまり、神による救いというものを「当たり前」のように受け止めていたユダヤ人から、救いの外にあるとみなされていたサマリア人が、実際にイエスによって病が癒されたという出来事は、その当人にとっては「当たり前ではないことが自分に及んだ」ことで、大きな喜びがあって、その喜びが感謝となり、イエスのもとに戻ってその思いを告白した、ということです。
 
2年前、新型コロナウイルスの影響によって、教会活動の制限が余儀なくされたとき、当たり前と思っていたことが、実は当たり前ではなかったのだ。そのひとつひとつが感謝して受け入れるべきものであったことに、私たちは気づかされたのではないかと思います。神を礼拝する一回の出来事が、神に向けられる感謝の思いで満たされたあの記憶は、私自身決して消え去ることなく、私の心にしっかりと刻み込まれているのを感じます。
 
しかし、私はこうも思うのです。人間、感謝や感動の思いは徐々に薄れてしまう存在だということをです。誤解を恐れず申し上げれば、私もいつかまた「あのときの感動・感謝」を忘れてしまうような時がやってくるのだろうと。
 
イエスによって癒された10人のうちひとりだけがイエスに感謝の思いを表したという出来事は、まるで私たちのそのような有様であるような気がしてならないのです。10回感謝できることを、9回忘れてしまう、当たり前のように思ってしまうのが私たちの現実なのではないかと。しかし、1回くらいは何かを取り戻すように、感動し神に感謝する自分自身を取り戻すことができるのではないかと。私は10人のうちの9人であり、また神によって残りのひとりとさせてもらっているのだと。だとしたら、それは本当に感謝なことなのだと思うのです。
 
本当はいつも感謝を忘れない者でありたい。しかし、私自身のうちにある気まぐれな思いやムラというものがそうさせない。そんな私にでも、神は感謝の思いを思い起こさせてくださることを、私は今日の聖書の言葉からそれこそ感謝をもって受け入れたいと願わされます。それは、決して当たり前のことではないのだということをです。
 
私たちにとってはささいないことかもしれない。しかし、神はそのたった一回の出来事にも、全身全霊をもって働きかけてくださる。それが今日の旧約聖書でいわれる「大いなる奇しき業」なのだと。この業が、私たち一人ひとりに与えられるとき、感謝の思いがこの世界を満たし、その満たされた環境のなかで味わえる幸いが、今日の一日にありますように。お祈りいたします。

26/07/2022

2022.7.26 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書12章4節より
もろもろの民に主の業を知らせ
その名が崇められていることを告げよ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録14章6~7節より
私は、もう一人の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、部族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携え、大声で言った。「神を畏れ、神に栄光を帰しなさい」。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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あらゆる国、その地に住む民たちに、神のお名前があがめられて、神がなされた人間に対する救いの働きが、永遠にわたる良いたよりとして知られますように。
 
聖書には、このような記述を実に多くの箇所で見つけることができます。これらの言葉を受け止めた信仰者たちが、世界のいたるところへ神の救いの良いたよりを伝えたわけです。いわゆる「世界宣教」という働きです。
 
私は、世界宣教について考えるときに、いつも思わされることがあります。それは、神が伝えられるときに、それは「異教に対するタブー」というものがセットとなって、それが伝えられるということです。聖書にある「他の神々を拝んではならない」という言葉や、神の民が異教徒との戦いを繰り広げた記録を引用しては、他宗教の存在を批判、否定することによって、神の救いを強調するというものです。
 
そんななかで思わされること。私たちが本当に伝えるべき神の救いとは何なのだろうか。いわゆるキリスト教以外の宗教を拒否し、廃絶に向かわせることなのだろうか。誤解を恐れず申し上げるならば、決してそうではないと私は思わずにはいられないのです。
 
他を批判することによって、自分の存在を際立たせるやり方というものによっては、真実というものをいつまでも理解することはできない。大切なのは、自分自身に与えられているものをもって、ただただ誠実に日々のつとめと営みに、自分自身を向かわせることなのだと、私はそんな風に思いたいのです。
 
先日、ある方から尋ねられました。「クリスチャンとして墓参はすべきでしょうか?」と。このような質問はたびたび受けることがあります。異教のものはことごとく避けなさいと、かつて教えられたことに基づいて、そのように思われるというのが質問の根拠であったりします。
 
私は神を信じていますから、先祖を崇拝の対象にはしません。それが禁忌事項であるというよりも、その行為に意味を感じないからです。しかし、そのように思っている方々の行為をあえて批判し、否定するつもりもまったくありません。そんなことをしても、有益な意味を感じないからです。だから、墓参の際はお墓の前で神に祈るようにしています。神のお名前が、ここにいるすべての方々、私の先祖とともにありますようにと。
 
神の名を知らせ、福音を告げ知らせるというのは、そのようなフレキシブルな状況のうえにあるものなのではないか。そのように感じつつ、私自身の黙想が続いてるような気がしています。心から批判すべきなのは、異教というそれそのものではなく、いわゆる異教だろうが、内輪の宗教であろうが、それらの行為がカルト宗教のように、人々を苦しめ支配してはいないだろうか、ということだと私は考えています。
 
まとまりのない黙想ですが、今日も神が私たちとともにおられることの意味をかみしめながら、与えられたときを歩んでまいりたいと思います。主なる神の栄光が、この世に生きるすべての方々とともに、豊かにありますように。お祈りいたします。