25/05/2025

2025.5.25(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記15章7節
あなたは、貧しい兄弟に対して心を閉ざし、手をこまぬいていてはならない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙2章14節
私のきょうだいたち、「私には信仰がある」と言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて36日目を迎えました。そして、イースターから数えて6回目の日曜日を迎えました。今週は復活後のイエスがその40日後に天に昇られたことを記念する「昇天祭」を木曜日に迎えます。イエスの復活がもたらす意味というものを私たちは十分に噛みしめながら、今週の日々も歩んでまいりたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の価値観を自分の生き方とする」というものでした。そして、今日のふたつの聖句に共通するのは、神の価値観が何であるかを知りながら、それを自分自身の生き方としないことへの忠告の言葉であると私は思わされたのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、エジプトから神が示された約束の地への流浪を続けていたイスラエルの民たちに対して語られた「生き方」について示された「律法」のひとつです。何らかの事情で足りなくさせられている同胞があるならば、その人に対して心を開くことなく、腕組みをして傍観することがあっては決してならないという戒めです。同胞とはイスラエルの民たちのことを指すのですが、この人たちはまさに神の御心(価値観)によって命与えられ、養われ、生きるべき道を今示されて、約束の地へと歩んでいたということに注目したいのです。
 
つまり、神の価値観を自分自身の生き方というのは、その価値観が自分だけでなく、神が愛されるすべての者に対して行われることが、神の私たちに対する願いであるということです。それが神によって私たちが共に生きる者とされたことへの、私たち自身の生き方へとつながっていくということに、私たちは自分自身の思いを整え、神とともに歩む幸いというものを味わっていきたいのです。
 
やがて、神が私たちのために送ってくださったイエス・キリストによる十字架と復活の出来事は、イスラエルという限定的な救いの範囲を全世界に広げました。それによって、私たちもまた神の救いの恩恵を受けるにいたったわけですが、それは同時に、神がすべての人々を愛し、大切にされているということへの紛れもない根拠であって、私たちもまた、神の価値観を自分自身の生き方としてどのようになされるのが大切なのかということに、自分自身の思いを寄せることができるのだと、改めて思わされるのです。
 
信仰がありながら、、、と今日の新約聖書の言葉は語ります。信仰とは救い主イエスが救いの実体となられたその言動を自分自身の心身をもって受け入れることを意味します。受け入れたわけですから、受け入れた方とともに生きるその生き方が問われているということなのでしょう。もちろん数々の失敗はありますし、私たちは神の愛の誤用というものもしばしばすることでしょう。しかし、そのたびに私たちは自分自身を神の御心を尋ね求めながら問い直すことができるのです。そして自分自身を整えつつ、神の価値観を自分の生き方とすることが少しでもできるように、ただ神の助けをいただきながら、今日という一日を歩むことができるのだと。
 
そんな思いをもって、週のはじめのこの一日を楽しんでいくことができますように。皆さんの歩みのために、私自身の歩みのためにも心からお祈りします。

24/05/2025

2025.5.24(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
列王記上8章39節
ああなただけが、すべての人の心をご存じです。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章47~48節
イエスは、ナタナエルがご自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうして私を知っておられるのですか」と言った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて35日目を迎えました。そして、今週も最終日を迎えました。この1週間にあった様々な出来事を想い起こしながら、明日への備えとなるひと日を過ごすことができますようにと願いつつ、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日の聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「私たちが神のことを知らなくても、神は私たちのことをすべてご存知である」ということです。私たちのことを知っていてくださる神の存在を、私たちは「恐怖」をもって受け入れるでしょうか。それとも「安心」をもって受けいれることができるのでしょうか。そんなことを考えました。
 
自分のうちに何かやましいものを抱えたときに、もしそれが知られてしまうことの恐れというものが私たちのうちにはあるかもしれません。幼い頃、何か悪いことをしたときに親からそのことがばれてしまったときに、親に叱られるかもしれないとビクビクしたことを思い出しました。そうして必死に隠し通すのですが、結局のところ親にそのことが知られてしまい、叱られてしまうのです。
 
こういうことを通して、隠し事をするのはやめようと思うことがあれば、もしくは隠し通せるようにしっかりと守りを固めようと思うこともあるかもしれません。こうして自分自身を守るという「大人の知恵」というものが、自分自身のうちに身についているかもしれない。そのように私自身のことを振り返りながら思わされたのです。
 
もちろん、何か隠し事をすることのなかには、相手を傷つけ舞という優しさから来ることもありますので、その出来事そのもの自体がすべて悪ということもないのかもしれませんが、自分自身にとって不利になるような出来事に対して、それを隠蔽するようなことがあっても、結局のところ神はそんな自分をすべてご存知であるというのです。良いことにしても悪いことにしてもです。
 
私は神にすべてを知られているということを恐怖ではなく、安心をもって受け入れたいと改めて思わされたのです。神は私たちのすべてをご存知なうえで、ではそんな私たちに対してご自分の良いものをもって、何を教え、導き、平安と喜びというものを与えてくださるのかというところに、心からの期待を寄せることができるからです。少しは痛みを経験することもあるかもしれません。それは自業自得とも言えるでしょう。しかし、そのような痛みや失敗というものを通して、なおも私たちに大切なことをご自分の慈愛で教え諭してくださる神がともにいてくださるのであれば、それは結果的に自分自身の安心に導かれるのだと私は信じたいのです。
 
これが誠実に私たちを取り扱ってくださる神に対する、私たちの真摯な応答なのだと。そんなことを胸にして、今日の一日を歩んで行きたいと願わされました。皆さんにとってもこの一日が、神の守りと平安に満たされた経験となることができますように。心からお祈りします。

23/05/2025

2025.5.23(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書31章8節
私は地の果てから呼び集める。
その中には目の見えない人も、足の不自由な人も
身ごもった女も、臨月の女も共にいる。
大いなる集団がここへ帰って来る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書14章21節
すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで、町の大通りや路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて34日目を迎えました。今日は午前は近隣大学での礼拝メッセージが、そしてお昼からは教会メンバーの葬儀が執り行われます。一切にご自分の言葉を通して私たちを守り、祝福を与えてくださる神がともにおられることを信じつつ、ひとつひとつのことに誠実でありたいと心から願わされます。今日のローズンゲンに示された御言葉に、耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神は招こうを思われた者を誰でも呼び集めてくださる」ということです。特にこれらの聖句に共通するのは「目の見えない者、足の不自由な者」という言葉ですが、それらの表現に象徴される、いわゆる差しさわりを抱えた方々をも、いや、だからこそ神はご自分の民として大切にされるのだということを、私は受け止めたいと思ったのです。
 
今でこそ、さまざまな差しさわりを抱えられた方に対する社会的な理解が浸透されているなかですが、それでも社会からつまはじかれている現実があることも事実であると私は考えています。私自身も何らかの差しさわりを抱えて生きていると自認しますし、自分には当てはまらないと思う人に対して不寛容な態度を知らぬ間に示しているのだとも痛感しています。そういう意味で言えば、どんな者でもその御手で招かれ、私たちを抱えてくださる神がおられるということだけで、どれだけ安心できるかということを想わされるのです。
 
そのような神がおられるということを通して、自分自身のあり様というものをも見つめる機会をいただいたと、今日の聖句を通して想わされたのも事実です。神の招きを人間が阻止したりするようなことがもしあるならば、私たちの側に猛省し、神とともに歩む幸いが他者にどのように向けられることが、神の御心に沿った生き方なのかということをつくづく考えさせられたのです。
 
私たちを招かれる神がどのような御方なのかということを、神の言葉を通して知る幸いというものを噛みしめつつ、今日の一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの主にある幸いを心から願いつつ、そのことをお祈りしたいと思います。どうぞ素敵な一日をお過ごしください。

22/05/2025

2025.5.22(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編74編21節
主よ、虐げられた人が再び辱められることのないようにしてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書15章25~28節
カナン人の女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、私をお助けください」と言った。イエスが、「子どもたちのパンを取って、小犬たちに投げてやるのはよくない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」そこで、イエスはお答えになった。「女よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」その時、娘の病気は癒やされた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて33日目を迎えました。ここのところ、コンスタントに御言葉の黙想をお届けすることができず申し訳ありません。昨日は脚を怪我した妻を病院へ連れて行き、妻に休んでもらう分家事をしておりました。今朝は教会のメンバーがお亡くなりになり、これから葬儀の準備に入ります。どんな時にも私たちを守ってくださる神がともにおられることに安心しつつ、今日も過ごしてまいりたいと思い、今朝のローズンゲンに示された聖句に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは「神は誰でもご自分とともに生きたいと願う方々を見捨てられることは決してないのだ」ということでした。そして、今日の新約聖書の言葉として選ばれたのは、悪霊にひどく苦しめられてた娘を抱える母親とイエスとの出会いについて書かれた箇所でした。この母親は「カナン人の女」と記されています。いわゆる外国人のことであり、一般的に「救いの外」にある人々とみなされていました。
 
母親はこの娘さんのことで、多くの苦しみを味わったに違いありません。周囲から心無い言葉や態度を示され続けていたかもしれません。だからこそ、何とかしてこの苦しみから解放されたいと心から願ったことでしょう。一縷の望みを込めて、イエスに近づいたに違いありません。必死にイエスに懇願する母親の姿というものを、今日の聖句からも読み取ることができるのです。
 
一見すると、この母親の懇願に対するイエスの反応は「冷たく」感じるかもしれません。それはイエスに与えられた使命について述べるものでした。あくまで救いの対象であるイスラエルの人々だけに遣わされているのだと。そして、カナンの女に対して「小犬」という表現を用います。犬とは当時侮蔑の象徴として用いられていたものですから、ずいぶんな言いようだなと感じることもできるわけです。
 
しかし、それはイエスの「本心」ではないことは明らかでした。母親も決してあきらめませんでした。イエスこそこの苦しみを分かってくださるに違いない。だからこそ、小犬ですら食卓から落ちたパンくずをいただくことができることをイエスに告白しました。主とともにいれば、誰でもその恩恵にあずかることができるのだという心からの願いを、母親である女性は告白するに至ったのです。
 
その母親の「主とともに生きたい」という心を、すぐにイエスは受け取られました。イエスは形式ばかりで動かれるのではなく、本当に大切に思われること、必要とされることのために力を尽くされる方ですから、母親の懇願を叶えられました。かくして娘さんの病は癒されました。癒されたのは娘さんだけではありませんでした。これまで母親が味わってきたさまざまな苦しみすら、イエスは癒してくださったのだと私は思います。
 
虐げられた人々を辱められるようなことはなさらない。それが神の人に対する思いです。この神とともに生きる幸いというものを、今日のふたつの聖句は私に知らせてくれたのだと受け止めることができました。この思いを胸にして今日も歩んでまいりたいと思います。皆さんの新しい一日に、そのような主の守りが豊かにありますように。お祈りします。

20/05/2025

2025.5.20(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
列王記下20章5節
私はあなたの祈りを聞き、あなたの涙を見た。それゆえ、私はあなたを癒やす。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書4章49~51節
王の役人は、「主よ、子どもが死なないうちに、お出でください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きている。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて31日目を迎えました。今朝もローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、神の御声に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日の聖句を通して受け止めたいと思ったのは「神は私たちとつながっておられることを明らかにしてくださる」というものです。特に、私たちが苦しいと思った時にこそ、私たちがそのような神が一緒におられることを自分自身の望みとすれば、神は決して私たちを孤独にはなされないということです。
 
ユダの王ヒゼキヤがそうでした。ヒゼキヤ王は南北イスラエル王国の歴代の王のなかで、誠実に神とともに歩んだ人物として聖書に収められています。そのような神とともにあったヒゼキヤ王でしたが、彼にも苦しみが襲いました。腫物による病によって命の終わりを宣告されたのでした。どんなに誠実にその日々を歩んだとしても、予期しない苦境というものが私たち人間を襲うということは、往々にしてあることなのです。
 
そのような苦しみの淵に立たされた時、私たちはどうすれば良いのでしょうか。ヒゼキヤ王は神に向かうことを何よりも大切にしました。祈りを通して神に自分の思いを打ち明けました。そして、神につながれているゆえの信頼をもって、神に自らの正直な思いを伝え、そして悲しみ、涙を流して泣き叫びました。そのようなヒゼキヤ王の心からの告白を、神が見捨てるはずがありませんでした。ヒゼキヤに神の慈しみが十分に及んだ時、ヒゼキヤは再び神とともに生きる者として導かれたのでした。
 
私たちは先行き見えない不安、夢も希望も見い出させない状態のなかで、何かに幻滅し苦しむことが往々にしてあるでしょう。神がおられるのに、その神のまなざしが向けられていないと感じることもあるでしょう。何か明確な保証がなければ信じることができないといったこともあるでしょう。今日の新約聖書の言葉に登場する、王の役人がまさにそうでした。自分の息子が死の淵にあったときに、父親はイエスにその場に来て癒して欲しいと必死にイエスに懇願したのでした。
 
しかし、イエスはその場にいようがいまいが、ご自身の誠実さがその子を病から解放させたのです。そこにこそ、私たちを見守り続けてくださる神の信実なのです。その信実をいただいた私たちだからこそ、心からの誠実と信頼をもって、神にいただいた信実を向けることができるのだと。この信実を抱いて生きることゆえの幸いというものを、今日も味わいつつ過ごしたいと願わされました。
 
苦しいからこそ神がすぐ近くにいてくださることに、私たちひとりひとりの心が癒され、神に向かう思いが豊かに与えられますように。今日一日の主にある幸いを心からお祈りします。

19/05/2025

2025.5.19(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
歴代誌下20章12節
私たちには何を行うべきか分からず、ただあなたに目を向けるのみです。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書10章2,5節
イエスは十二人の弟子に言われた。「どんな家に入っても、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて30日目を迎えました。そして、ローズンゲン黙想も6日ぶりの再開です。先週は黙想をお届けする時間を取ることがなかなかできませんでした。韓国での研修は私にとってとても実りのあるものでしたが、その分通常のルーティーンをこなすことができず、黙想を楽しみにしてくださっている皆さんへは、大変申し訳ありませんでした。心新たにして、また御言葉の恵みを味わってまいりたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「周りの雑音に囚われ過ぎることのないように」という励ましのメッセージでした。そのことについて綴ってみたいと思います。
 
皆さんのなかにご存知の方もおられるかと思いますが、SNS界隈では私を揶揄する言動が展開されているのを、私も知るに至っています。私は現在、ある民事訴訟の被告となっています。今裁判が行われている最中ですので、流言飛語にならないように私の方から発言することを極力控えています。しかし、私を非難したいと思っている方々は、SNSでそのことを持ち出しては、揶揄が展開されていると言った具合です。
 
正直申し上げて、揶揄の内容を見聞きすると決して気分の良いものではありません。心中穏やかではありませんし、心がざわめくこともあります。本当に心配してくださっている方々は個人的に声をかけてくださり、その方々には私の思いを直接伝えることができていますが、SNSの情報を通してそのことを知った方々のなかには、私に対する非難の声を直接間接的に聞くことがこれまで多くありました。
 
そのような非難や揶揄といったものに囚われてしまうと、自分自身のなかの判断というものがそういったものに引きずられていくような怖さというものを感じることがあります。自分自身のなかで今大切にしなければならないことはいったい何なのかということを自問する時に、今日の旧約聖書の言葉にもあるように、もう「何をしてよいのかわからなく」なることだってあるわけです。しかし、そういう時こそ危険なのだとつくづく思わされるのです。
 
だからこそ、私はどこに自分自身の視線を向けるべきなのか。揶揄する相手か、人の批判に反論することか、もちろん時にはそういうことも大切でしょう。しかし、私のことをすべてご存知である神がともにおられるということに、私は視線を向けることを周りに振り回されるがゆえに忘れてしまうことがあれば、それこそ、一番大切なものを見失ってしまうのだと思うのです。「ただあなたに目を向けるのみです」という告白の言葉通りに、私に健全な判断を与えてくださる神とともに歩むことにただ誠実でありたい。そのようにあらためて思わされたのでした。
 
そして、神とともに歩む誠実さは、常に「主の平安(シャローム)」を胸当てとして生きることに相通じるのだということです。挑発に対して好戦的に向かうくらいならば、その場を離れて今必要とされている場においてシャロームを示す者として生きていきたい。そんなことを今日のふたつの聖句を通してそのことをしっかりと握りしめて歩みたいと思ったのです。
 
神との関係において誠実であるならば、神は必ず私に大切なことを指し示してくださる。そんなことを希望に、今日も一日を歩んで行きたいと思います。皆さんとともに歩んでくださる神が、今日も皆さんにシャロームを与えてくださいますように。心からお祈りします。

13/05/2025

2025.5.13(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編119編162節
私はあなたの仰せを喜びます
多くの戦利品を見つけた者のように。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書13章44節
天の国は、畑に隠された宝に似ている。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をすっかり売り払い、その畑を買う。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて24日目を迎えました。昨日から私は、カルト宗教対策の学びのために、同じく対策をおこなっておられる方々とともに研修に入りました。初日からとても刺激的なことが多く、これからの4日間とても実り多い日々となるだろうと思い、とても楽しみです。ただ、朝から夜までなかなかハードなスケジュールですので、黙想をお届けできない日もあるかもしれません。その時はどうぞお許しください。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「戦利品/宝」という言葉でした。神が私たちに与えるご自分の価値観は、隠された宝であり、私たちにとって戦利品をゲットしたような大きな喜びを得ることができるのだと、今日の聖句は私たちに知らせているのです。つまり「主の価値観に生きる者の喜び」であると私は受け止めました。
 
昨日、私はかつてカルト宗教に属しておられた方々の経験というものを数名から伺うことができました。ゆがんだ聖書解釈によって人生をもゆがめられた方々が、あらためて教会で福音に触れることによって新しい人生を見い出すことができたとの喜びを伺いました。私はそれらの方々の証しを聞いて、私もかつてはそうだったと大変共感できたのです。「恐れの神から恵みの神へと、神のシルエットが変わった」と、あるカルト経験者はおっしゃっておられたのです。私が今から四半世紀前、そんなことをよく言っていたのを思い出しました。
 
それは、人生にとってまさに「隠された宝」なのだと。神が与えてくださった新しい人生とは、まさに戦利品を得たような喜びがあるのだと。それを神の価値観が示すご自分の言葉が明らかにしていることをあらためて思わされます。それをゆがんだ解釈で人が持たされている大切な宝まで奪い取ってしまうようなことがあるならば、それをなそうとする人間は神にどんな顔を向けたらよいだろうかと、自分自身を顧みながら思わされました。
 
私自身、今日も神の御言葉が与えてくださった宝の喜びを携えつつ、カルト宗教対策の研修の時を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日にも、宝のような喜びを携えてくださる神がともにいてくださいますようにお祈りします。

12/05/2025

2025.5.12(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書29章13~14節
心を尽くして私を尋ね求めるならば、私は見いだされる――主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書9章20~22節
すると、十二年間も出血が止まらない女が近寄って来て、後ろからイエスの衣の裾に触れた。「この方の衣に触れさえすれば治していただける」と思ったからである。イエスは振り向いて、この女を見て言われた。「娘よ、元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを治した。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて23日目を迎えました。そして、今日から新しいウィークデイの日々が始まりました。私は今日から木曜日の日程である研修に参加するため旅先でローズンゲン黙想をつづりたいと思います。移動時間の関係で、昨日現地に到着しました。私にとってよき研修の時となりますようにと祈りつつ、今日も御言葉に聴いてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「尋ね求めることの幸い」であると私は受け止めました。神に対して尋ね求め続けることが私たちにとっていかに大切な営みなのかということについて、これらの聖書の言葉は深い黙想を与えるものだということに私はあらためて気づかされた次第です。そのことを黙想したいと思います。
 
何かを尋ね求めるという作業は、決して楽なものでないということを私たちはよく知っています。いくら尋ね求めてもなかなか答えが返ってこないということが、私たちの生活のなかでは往々にしてあるからです。どんなに待てど暮らせど、状況が良くならない。やがて途方に暮れ、待ちくたびれてしまうあまり、あきらめてしまうのです。
 
もちろん、私たちが尋ね求めていることが本当に神の御心に沿った、ふさわしいものなのかどうかということを考え続けることは必要であるかもしれません。その探求が極めて独り善がりなものであったり、他者の尊厳を損なってまでなされようとするものであるならば、どんなに尋ね求めても神は自分の思い通りに叶えてはくださらないでしょう。そういう尋ね求め方は自分自身が「神」となるために、神を利用しているに過ぎないわけですから。
 
そうではなく、本当に神が与えてくださった命の尊さを喜べるような結論に達するために、私たちが神に尋ね求めるならば、神は必ずご自分のベストとされるときにお答えになられるとおいうことを、私たちは自分たちの生きる希望とすることができるのだと。そういう意味では、今日の新約聖書の言葉にもあるように、12年間という待ちくたびれても全然おかしくないその時の流れのなかで、出血の病に苦しんでいた女性の命をイエスが憐れみ、慈しんでくださったのです。まさに女性にとって神が与えられたベストタイミングの時でした。
 
私たちはなかなか待てません。苦しいことを味わい続けるのは本当に辛いのです。そのことを独善的な人間が自分の私利私欲を充足させるために苦しみを与え続けるということもあれば、どうしようもない不可抗力によって苦しみ続けなければならないこともあるでしょう。しかし、神はそんな私たちをすべてご存知なうえで、ご自分の言葉と霊の導きによってご自分の民である私たち人間と関わり続けることを望んでおられる。それを私たちの希望としたいと、今日の聖句を通して私は受け止めたいと思ったのです。
 
現実離れした甘い考えであると言われたとしても、希望を捨てないところにこそ必ず神が応えてくださる。そんな思いをもってこの新しい平日の日々を過ごすことができますようにと祈ります。皆さんの新しい日々のために、そして私自身の日々のために。

11/05/2025

2025.5.11(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記20章15節
盗んではならない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙4章28節
盗みを働く者は、もう盗んではいけません。むしろ、労苦して自らの手で真面目に働き、必要としている人に分け与えることができるようになりなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて22日目を迎えました。イースターから始まって4回目の日曜日を迎えました。今日も世界中の教会や集会で行われる礼拝を通して、神の喜びと祝福が皆さんとともにありますようにと祈りつつ、今日のローズンゲンに示された聖句に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「盗み」です。そして、いずれの聖句にも「盗んではならない」という掟であり勧めが私たちに与えられています。私は、神がモーセを通してイスラエルの民たちに与えた十戒の言葉のなかで、この「盗んではならない」という言葉をどのように受け止めることができるのだろうかということについて、その時々において思わされます。
 
盗むという行為は、一般的に言われているような人の物品を相手の承諾なく自分のものにしてしまうことを指すわけですが、盗むという行為がなにも物品だけのことを言っているわけではないということに私たちは注目し、関心を高めてまいりたいのです。つまり、神が私たち一人ひとりに与えられたいのち、尊厳、神にある人権をはじめとするさまざまな権利、関係性、経済、健康、精神衛生、学歴や職歴、社会的地位など、数え上げればきりがないことを思わされるのです。
 
私たちはいかなる理由であれ、そのような人が大切にしているもの、大切にするように与えられているものを奪い取ってはならないのだということに、いつも敏感であるべきなのです。それは単なる人間の倫理的な理由を超越したところに、その根拠を見い出すことが必要なのです。つまり、神が私たちを活かすために必要なことをすべて備えてくださっているという根拠です。それをさも自分自身の努力の結果勝ち取っていると勘違いするからこそ、盗みという結果を生み出すのだと。
 
今日から新しいいのちの一週間が始まります。私たちに神が授けてくださった尊厳を、互いに大切にすることによって、神の栄光のために生きることができますように。

10/05/2025

2025.5.10(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書23章23節
私は近くにいる神なのか――主の仰せ。
遠くにいる神ではないのか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書15章34節
三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて21日目を迎えました。そして、ゴールデンウィークの最中から始まった一週間も、今日で最終日を迎えました。この一週間にあったことを思い巡らせながら、明日への備えをしつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に思いを寄せたいと思います。
 
今日の聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは、「私たちが神から見捨てられたような感覚に陥る時にこそ、実は神はすぐそばにおられる」というものでした。私たちは誰でも、神の存在、そしてなさることを信じ、受け止めていたとしても、ちょっとしたことで神から見捨てられたような経験をしたことがあるかもしれません。
 
私はここ数日考えていたことがあります。ある人がついた「嘘」を信じてしまったがために、大きな代償を払わなければならなくなってしまったということについでです。詳しいことを書くのは控えますが、これは実際に私の身に起きたことであって、そのことに真摯に向き合おうと思いながらも、時々そのことで思い苦しむ自分自身があったりするのです。どこに怒りのやり場を向けて良いのか、とてもやるせない気持ちにさせられるのです。
 
お前のついた嘘のせいでこんな目に遭ったんだ。そう思う一方で、だまされた自分が馬鹿だったとも思うわけです。自分のことでこういう言い方をするのはおこがましくはあるのですが「正直者は馬鹿を見る」とはよく言ったものだと思うのです。そういう時に、私はいつも思うのです。神はこの状況をどのようにご覧になられているのだろうかと。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスが十字架上で叫ばれた「私の神よ、私の神よ、どうして私をお見捨てになられたのですか」という、大変有名な聖書の箇所が選ばれています。十字架のうえでただ孤独のなかで神に向けられたこの言葉を聞く時に、イエスは本当に神に対して見捨てられたような感覚を抱いてこのようなことを言われたのだろうかと。
 
私はそうではないと思っています。孤独という現実が実際に人を襲うなかにあって、誰からも見捨てられたような感覚に陥る人間の正直な気持ちというものを、イエスは全人間を代表するかのように叫ばれたのだと私は受け止めたいのです。しかし、神がそう簡単に人間のことを於お見捨てになるはずがありません。どの時代にも、神は人間のことを決して見捨てられるようなことをなさいませんでした。だからこそ、救い主を与えられたのではなかったのか。その救い主を復活を通して、本当に命の救い主にしてくださったのではないか!と。
 
だから、私自身の話に戻れば、こういうつらい時にこそ、神はすぐそばにいてくださって必ず神にとってベストな道というものをもって、私にそのことを示してくださるのだと信じたいのです。その過程で、もちろん自分自身が神に向き合えなかったことを悔やむ思いも与えられるでしょうし、誰も理解してくれないようなことでも、神は理解してくださったのだということに大きな喜びを見い出せるに違いない。とにかく神は決して遠く離されたところにおられる方ではなく、すぐ近くにおられるのだと。
 
だからこそ、自分自身にある状況というものを認めながらも、それよりも大切にしたいのはすぐそばにおられる神と歩むことに誠実でありたいと、今日の聖句を通してあらためて思わされたのでした。今私を悩ませている出来事も、すぐ近くにおられる神がご自分の正しさをもって私に何をすべきかを教えてくださるのだと、希望をもって歩みたいと思いました。
 
明日から新しい一週間が始まります。その日々が神によって祝されることを心から願いつつ、今日の残りの時間を過ごすことが出来ますように。心からお祈りします。

09/05/2025

2025.5.9(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エゼキエル書33章17節
あなたの同胞は、『主の道は公正ではない』と言っている。しかし、彼らの道こそ公正ではない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙9章14節
神に不正があるのか。決してそうではない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて20日目を迎えました。昨日、おとといと黙想を皆さんにお届けすることができませんでした。楽しみにしてくださった皆さまには申し訳ありませんでした。3日ぶりのローズンゲン黙想となりますが、聖書の言葉から、生きる励みを今日も得てまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「正しさ」という言葉です。しかし、その正しさとはいったい何か。そのあたりを黙想してみたいと思いました。
 
今日の旧約聖書の言葉であるエゼキエル書33章の一節は、イスラエルの民の主張が描かれています。その主張とは「神である主ヤハウェの歩まれる道は『公正』ではない」というものです。旧約聖書では「公正」と日本語に訳されている言葉の多くは「ミシュパート」というヘブライ語が用いられています。これは神の正義(ヘブライ語でツェダカー)に基づいた「正しい判断」のことを指している言葉であると言えます。
 
しかし、今日の聖句で「公正」と訳されている元の言葉は「ターカン」というヘブライ語が用いられています。このターカンという言葉は「正確に測られた・バランスの取れた」というもともとの意味がありますので、公正でないというイスラエルの民の主張には、神の正義に基づいた判断は不正確であり、バランスが取れておらず、どこかズレているという不平の意味が込められていることが分かります。
 
しかし、エゼキエルは言います。神の思いを正確に受け取ることができない、バランスに欠け神の御心からズレてているのは同胞であるイスラエルの民のほうなのだと。それは神と人間との関係性にゆがみがあり、ひずみがあり、破れがあることを示していると言えるでしょう。そのような関係性の壊れを、聖書では大本の「罪」(いわゆる罪の原理:原罪)という言葉で表現しています。
 
つまり、私たち人間はこの世界にあるあらゆるゆがみや壊れというものを考えるときに「神がおられるのにどうしてこの世界はこんなに悪いのだ」ということを口にしては、その責任を神に押し付けてはいないだろうか、そんなことを考えさせられるのです。こんなに悪い状況を頬っておられる神は無責任だと。では、果たして本当にそうなのでしょうか。
 
私たちは自分のことを棚に上げて、誰かのせいにすることほど楽なことはありません。そうやって私たち人間は大なり小なりバランスを保ちながら生活をしているのです。しかし、自らのあり方というものに目を向けることなく、つねに他者にその責任を着せようとする態度は、それこそバランスに欠けた姿勢なのではないだろうか。私は自戒を込めつつそのように思わされたのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、後にイスラエル民族の祖となったヤコブとその双子の兄エサウを引き合いに出して、長子であるエサウが家督を継げなかったことは神の不正なのかという問題提起に、ローマの信徒への手紙の筆者であるパウロが答えている箇所です。パウロは他の事例を提示しながら、神の正しさはその「憐れみ」にあるのだということを書きつづっています。それは私たち人間の確固な意志や努力によって、神の正しさを勝ち取るようなものではないのだと。
 
むしろ逆なのです。神の思いをストレートに受け取ることのできない私たちに、神の正しさが憐れみをもって臨むときに、私たちは神の正しさによってその関係性を確固なものにさせてもらえるのだということを、今日のふたつの聖句は伝えているのだと私は受け止めました。自分自身に与えられた責務とは、そのような神の正しさによって誠実に歩むことなのだと。
 
今日の一日が、そのような公正によって祝されたときでありますように。お祈りします。

06/05/2025

2025.5.6(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書33章13節
遠くにいる者よ、私のなしたことを聞け。
近くにいる者よ、私の力を知れ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書11章40節
イエスは、「もし信じるなら、神の栄光を見ると言ったではないか」と言われた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて17日目を迎えました。昨日の晴天とは打って変わって曇天の仙台です。今日は午後から本格的な雨も降るとのこと。静かに一日を過ごしたいと思います。ゴールデンウィークの最終日を過ごされる皆さんに、すべての安全がありますようにとお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私は「聞くこと・知ること・見ることの幸い」というものを受け止めたいと思いました。今日は特に、新約聖書・ヨハネによる福音書11章の一節からそのことを黙想したいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスが彼の友人であり支援者であったマルタに対して語られたものです。そして、その背景にはマルタの兄弟であるラザロが数日前に亡くなったという出来事がありました。すでにその日から4日が経過していました。
 
ラザロの死をイエスが聞いた時に語られた言葉に注目したいと思います。
「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(4節)
「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(25~26節)
 
つまり、今日のローズンゲンに示された40節の御言葉は、このイエスの言葉の前提があったからこそ語られたものであることがわかります。つまり、復活という出来事を通して神のみわざというものを聞き、知り、そして見ることができるのだということを、イエスは兄弟の死で嘆き悲しむマルタに向かって一貫して語られたのでした。
 
しかし、マルタは現実的な事実にとらわれてしまうばかり、イエスの言葉が心に入って来なかったのかもしれません。死から4日も経ってしまった墓のなかは異臭で満ちあふれていたことが十分に想定されました。だからこそ、復活という出来事を信じつつも、しかし現実の場に引き戻されると、そのことがどこかに忘れ去られてしまったかのような感覚になってしまったのかもしれません。
 
私たちも往々にしてそういうことがあるのかもしれません。調子のよい時には大いに神を賛美し、神のなさることに心からの同意をもってそこに向かうことができるのです。しかし、自分自身に不幸が訪れたり、災いというものが降りかかってきた途端に、急に現実的なことに引き戻されてしまい、神のみわざなどに望みが持てなくなってしまうのです。
 
しかし、イエスはそのような現実があるにもかかわらず、ただご自分が神から委ねられた務めというものを果たしました。ラザロが墓の中から復活することによって、喜びや神の栄光をたたえる思いもまたよみがえさせられる経験を味わうことができたのでした。私たちはその出来事を、聖書を通して聞き、知り、そして日々の生活のなかでそれを見ることができるのです。復活とは何も死者の復活のことだけを言っているのではありません。生活のあらゆる場面で私たちは再生の喜びというものを味わうことができるならば、それはすべて復活の体験なのです。
 
主のご復活をお祝いするイースターから2週間あまりが過ぎました。復活はイースターの時だけに祝うものではなく、復活の喜びを想い起こすきっかけとしてイースターが与えられているのであって、私たちのすべてが神から与えられた復活体験の日々がここから始まった。今日もその日を迎えることができたのだと私は受け止めて、新しい命の一日を歩みたいと願いたいのです。
 
今日の一日がまた、私たちの復活を聞き、知り、見ることのできる時となりますように。お祈りします。

05/05/2025

2025.5.5(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
哀歌3章31~32節
主はとこしえに拒まれることはない。
たとえ苦しみを与えても
豊かな慈しみによって憐れんでくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章63~64節
父親は書き板を持って来させて、「その名はヨハネ」と書いたので、人々は皆不思議に思った。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて16日目を迎えました。今日も朝から青空のひろがる仙台です。今日は駐車場と会堂を貸し出して、この地域の若い人たちに向けたバーベキューイベントが行われます。この催しに参加する人たちが、とても楽しいひと時を過ごすことができますようにと祈りたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「懲らしめの背後にある慈しみ」であると私は受け止めました。私は個人的にとても難しいテーマのように感じましたが、そこにも大きな意味があると思いました。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
懲らしめは何のためにあるのでしょうか。まず言えることは、懲らしめはいたずらに行われるべきではない類の出来事であるということです。そして、人間の怒りのはけ口や権力誇示のために用いてもいけないということです。あまりにもそのような仕方で懲らしめというものが濫用されていますから、私たちはあらためて懲らしめの意味というものを考えなければならないと私は考えています。
 
懲らしめは私たちを憐れみ、慈しむためである。少なくとも聖書で語られている神による懲らしめとは、そのような意味をともなっていることが分かります。母親が子宮のなかで胎盤に支えられながら胎児を守るといったイメージで、旧約聖書の世界に生きる人たちは「憐れみ」という言葉をとらえていたのだそうです。命を守るため、その命を十分な保護のもとに育むために、時には懲らしめというものが神によって人間に向けてなされるのだと言うのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は「哀歌」の一節です。絶対に滅びることがないと信じてやまなかった都エルサレムがいともやすくバビロニア帝国に滅ぼされてしまったときに、はじめて神の民は気付かされました。自分たちは神とともにあると言いながらも、神に背を向けて神とともに歩もうとしなかったということをです。人は痛い目に遭わなければ本当に大切なことになかなか気づけないということは、まさにその通りであると私も自分自身の歩みを振り返っては実感させられるのです。
 
しかし、痛みが痛みのままで終わることは決してないのです。失敗がいつまでも責められ続けることもありません。本当に人は懲らしめの意味と真実を実感したところにこそ、神は必ず憐れみを示してくださるというのです。私たちを慈しんでくださる神が、懲らしめを通して本当に大切なことを私たちに気付かせてくださるのだと。この神のまなざしを、私たちはどのように受け入れることができるのでしょうかということを、ただ考えさせられるのです。
 
洗礼者ヨハネの父親となった祭司ザカリアも、神のなさることを自分自身の限界ゆえに受け入れることができませんでした。神はしばらくの間ザカリアを黙らせました。そうすることによって、ザカリアは沈黙し、神の恵みについて黙考、黙想する時が与えられたのでした。その結果、ザカリアが得た結論は「神がこのような老人にも憐れみと慈しみを示され、子を持つ喜びを与えてくださった」というものでした。懲らしめは人を真実へと導き、ザカリアがそうであったように神を賛美する思いへと促すのだと。
 
世のなかにある懲らしめのすべてが良いものではありません。むしろ悪い懲らしめばかりかもしれません。だからこそ、懲らしめの意味というものをじっくり考えつつ、懲らしめの背後にある憐れみと慈しみを与えられる神とともに生きる幸いを味わうことができますようにと受け止め、今日の一日をも祈りつつ過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一切にも、神である主の守りと祝福が、ともに豊かにありますように。

04/05/2025

2025.5.4(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記15章2節
主は私の力、私の盾、私の救いとなられた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章51節
主は御腕をもって力を振るい
思い上がる者を追い散らされました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて15日目を迎えました。そしてイースターから数えて3回目の日曜日を迎えました。今日は全国的に天気があまり良くないとのことですが、ゴールデンウィークでお出かけの皆さんの安全を神が守ってくださいますようにと祈ります。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「神である主の力」であると私は受け止めました。神の力がどのように私たちのいのちに及ぶのだろうか。そんなことを想わされます。
 
今日の旧約聖書・出エジプト15章の冒頭にあるこの賛歌は、エジプト軍の追っ手からイスラエルの民が守られたことを喜ぶものです。「紅海の歌」という通称で愛されている賛歌ですが、自分たちの危機というものを全力で守り抜いてくださった神である主が、私たちとともにおられるということを実感した民たちの、心からあふれる感謝と神をほめたたえる歌がこの場をこだましたことでしょう。
 
同様に、今日の新約聖書であるルカによる福音書1章のこの言葉は、受胎告知を受けた少女マリアが、これから訪れようとしている多くの恐れや困難のなかにあっても、彼女を守り抜いてくださる神がともにおられることを受け入れたゆえに、あふれ出た賛美の言葉であると言えるでしょう。いずれにしても、危機からご自分の愛する者を守り抜く神の力が、豊かに私たちの心に響かせているのです。
 
愛する者を守る力。私たちは力という言葉を聞く時に、力の用い方によってはそれが「諸刃の剣」となることをよく知っています。人を殺すのも力であれば、人の命を生かすのもまた力ゆえのことなのです。それで、今日の聖句で言われている力とは、断然後者のほうであると言えるでしょう。ご自分が愛される者を全力で守り抜く方が、今日も私たちとともにいてくださるのです。神は基本的にこの地に住むすべての人を愛しておられると私は信じたいのです。しかし「愛されている感覚」というものをなかなか得ることのできない人たちというのも、実は結構多いことに気付かされます。
 
ある一本の電話がかかってきました。自分は今までいかに愛されてこなかったかということを滔々(とうとう)とその人は語られました。そして人を信じることができず、ついつい疑ってしまう自分があるのだと、その方は自分自身の姿というものを正直に語っておられました。私はそういう人にこそ、神が全力であなたを愛してくださっているのだということに気付いてほしいということを心から願いました。何かのきっかけでそのような神の愛に込められた力というものを体験してくださることを心から願いつつ。
 
今日から始まる一週間、すべての人に神の善き力が豊かに及びますように。心からお祈りします。

03/05/2025

2025.5.3(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編119編36節
不当な利益にではなく
あなたの定めに私の心を傾けさせてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テトスへの手紙2章7~8節
あなた自身、良い行いの模範となりなさい。教える際には、高潔で品位を保ち、非難の余地のない健全な言葉を語りなさい。そうすれば、敵対者は、私たちについて何の悪口も言うことができず、恥じ入るでしょう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて14日目を迎えました。そして、今週も最終日を迎えました。世の中はゴールデンウィークの後半期に入り、今日からお休みをされる方々も多いかと思います。どうぞ今日の一日が皆さんにとって素敵な時となりますようにお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して想わされたことですが、私は「神の品格によって私たちの人格が磨き上げられることへの幸い」と受け止めました。そのことについて黙想したいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、「テトスへの手紙」の一節です。テトス書はその前に収められている「テモテへの手紙」と並んで、キリストの弟子たちとされ教会へ集められた人々に対して、それらの人々をキリストから預かった者としての務めについて記された勧めの手紙です。伝道者パウロによる勧めの言葉として、これらの手紙が書き記されています。
 
私はそれらの勧めが語られているなかで、「健全な言葉を語りなさい」というところに注目しました。そして、健全な言葉を裏打ちするものとして「高潔で品位を保った」態度であることが記されています。では、高潔さは何か、品位とはどのような品位のことを指すのでしょうか。私はキリストの高潔さであり、キリストの品位であると受け止めました。
 
私たちは道徳的に高潔であることとか、上品に振舞うということが宗教的な努力目標として考えることできるかもしれませんが、それが「何に基づいているのか」というところを明確にしておかなければならないと私は思うのです。それが私たちにとってはキリストに他ならないということなのです。キリストが私たちのために何を思い、どのように感じられてご自分の言葉を私たちに与えられたのかということが私たちの言動の基本となるのだと。そのために、キリストは私たちの基盤・土台となってくださいました。
 
私たちがキリストを土台とした言葉を、キリストの高潔さ、キリストの品格によって健全に語るところに誠実であるならば、敵対者すら太刀打ちできないのだということが語られています。それは語る者の強さではありません。語る者のオリジナルな高潔さや品位でもありません。キリストの誠実さを前にしては、誰もその前に黙らざるを得ないということなのです。ですから、私たちは誰かに好戦的かつ挑戦的に何かをひけらかすのではなく、ただキリストが示された高潔さと品位によって生きることができるならば、そこには幸いがおのずとあふれてくるのだろうということを受け止めたいと思ったのです。
 
そのことをもってこの一週間を振り返りつつ、明日への備えをしてまいりたいと思います。皆さんにとってのこの一日も、主にあって健やかでありますように。重ねてお祈りします。

02/05/2025

2025.5.2(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨシュア記1章5節
私はあなたを見放すことはなく、あなたを見捨てることもない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書3章16節
すると、天が開け、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのを御覧になった。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて13日目を迎えました。今日もローズンゲンに示されたふたつの聖句から、黙想をつづりたいと思います。
 
今日選ばれた旧約聖書の言葉は、モーセに代わってエジプト脱出から神が示された約束の地へとイスラエルの人々を導くリーダーとなったヨシュアに対して、神が語られた言葉です。神は先の指導者であったモーセを見放すことも見捨てることもなさいませんでした。神がその心に決められたことは必ず果たされるという姿勢を、ヨシュアに対して示された。今日の言葉はそのことの確認とも言えるでしょう。
 
ヨシュアはこの言葉を胸に、ヨルダン川を渡り向こう岸であるカナン地方にたどり着いた後も、幾多の困難が彼とイスラエルの民を襲おうとも、神の言葉を根拠として約束の土地を一歩、また一歩踏みしめて神の約束というものを実感したのでした。神がかつて、のちにイスラエルと改名したヤコブに対して、私はあなたを決して見捨てないと約束されたように(創世記28章15節)、その約束はあらゆる神の民を継承し続けて今日に至っていることを考えれば、それは本当に感謝にあふれる出来事なのだと思えてならないのです。
 
イスラエルはその後何度も、神に背を向けて歩もうとします。神とともに歩んでいると豪語しながらも、神の御心に沿わないことを繰り返し続けてきた歴史がありました。それは現在にいたるまで、神と私たちとの関係史を物語ることなのだと私は思っています。私たちはしばしば思い違いをする存在だからです。にもかかわらず、神は私たちを見放さない、見捨てないという思いを、あらゆる仕方で私たちに示されることによって、私たちに「気づき」というものを与えて来られたのだと思うからこそ、それは感謝に満ちあふれる出来事なのだと言えると私は思っています。
 
神が私たち人間に対してそのような姿勢を保持しておられることが、私たちの目に見えるかたちでなされたひとつとして、救い主イエスの洗礼がありました。本来、神に背を向けてきたイスラエルの民が再び神とともに歩むためのしるしとして、洗礼者ヨハネによる洗礼がおこなわれてきました。そのなかで、あえて洗礼を受ける必要がないイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けるということには、大きな意味があったのです。洗礼者ヨハネは自分から洗礼をイエスが受けることについて、それは恐れ多いことだと固辞しようとしましたが、イエスは洗礼を受けられることをまったくいとわなかったのです。
 
イエスはご自分の洗礼を通して、神につながれて再び生きることができるのだということを人々に示されるために、自ら洗礼を受けるという行為をされたのだと私は考えます。洗礼を通して、再生の道を神は与えてくださる。まさにここにこそ、その後のイエスの御復活が示す「再生」に相通じるのだと私は思いました。洗礼の出来事というのは復活の先取りを意味しているのだと。そして、イエスが洗礼を受けられた時に天が開き、聖霊がイエスのもとに降られることによって、神がイエスを見放さない、見捨てないことを明らかに私たちに対して示してくださったのだと受け止めたいのです。
 
繰り返しになりますが、神が私たち人間を見放さない、見捨てないということをあきらめず、私たちに再生の道を与えてくださったことを思いに留めつつ、今日の一日を生きることができますように。皆さんのことを神である主が守り、祝してくださいますように。お祈りします。

01/05/2025

2025.5.1(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ダニエル書4章34節(口語訳聖書・新改訳聖書は4章37節)
その御業はすべて真実であり、その道は正しく、高ぶって歩む者は低くされる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書15章39節
イエスに向かって立っていた百人隊長は、このように息を引き取られたのを見て、「まことに、この人は神の子だった」と言った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活から数えて12日目を迎えました。今日もイエスが死者のなかからご復活されたことの意味を問いながら、ローズンゲンに示された御言葉を前に黙想をつづってみたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉はダニエル書4章の最終節でした。この章のあらすじを簡単に説明しますと、バビロニアの王であったネブカドネツァルがある時に観た夢がとても恐ろしいものであったことからこの話は始まります。あまりの夢見の悪さを経験した王は、その解き明かしをあらゆる人物に頼みますが、誰も解き明かしてくれません。そこで登場するのがダニエルでした。
 
ネブカドネツァルにとっては、ダニエルが偉大な神によって守られていることに一目置いていました。偶像崇拝に満ちあふれていたバビロニア帝国でしたが、ダニエルの誠実さは神の正しさから由来していることを認めていたのです。だからこそ、ダニエルの神がダニエルを通して自分自身に語ったことを最終的には受け入れ、彼の治世はますます豊かになったという話が収められています。
 
王は自分自身を振り返り、神の御業に込められた正しさによって歩むならば「高ぶって歩む者は低くされる」と告白しました。ここで「高ぶる」と訳されている言葉はヘブライ語の「ゲワー」という言葉が用いられています。自己の思考や能力に陶酔するあまり、他者や神までも見下す態度のことを指しています。「傲慢」という言葉でも表現できるものです。また「低くされる」と訳されている言葉はヘブライ語の「シェフェル」という言葉が用いられており、文字通り低くされる・卑しめられるという言葉もありますが、傲慢の対義語としての「謙遜」という言葉を指す意味の言葉としても用いられています。
 
ですから、この言葉は「傲慢な者は自分自身が卑しめられることで謙遜にさせられる」と解することのできると私は思ったのです。前述の通り、ネブカドネツァルは神がダニエルを通して語られた言葉を、彼自身が卑しめられる経験を通して、自らを低めて受け入れました。自分自身の驕り高ぶりを自覚することで自分自身が謙遜に生きることの大切さを学んだと言えるでしょう。
 
私はこのように受け止めたいと思いました。人間は自分自身の驕り高ぶりというものを何かの機会で気付かされることで、はじめてそこからいろいろなことを学び取ることができるのだと。その学んだことを通して今後の幸いにつなぐことができるのだと。これこそ、復活が指し示す喜びのメッセージそのものなのだと思うのです。失敗は決して無駄なものではないのだということです。失敗を失敗として片づけてしまうのであれば、そこにすべてを再生へと向かわせてくださった神の恵みを感じ取ることはできないでしょう。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスが十字架にかかって息を引き取ったときのことです。イエスが十字架に架けられて殺されたという出来事は、多くの人たちのつまづきとなりました。誰の目から見ても、失敗の出来事であったからです。徹底的に低められ、卑しめられたイエスの姿など、誰も見たくなかったことでしょう。
 
しかし、それを間近で見ていたローマ兵は違いました。神の御業がこの人のすべてに表れていたことを認め、そして告白しました。そして、イエスの死という失敗が死のまま終わることはありませんでした。三日の後に復活のいのちをもって私たちの前に現れてくださったのです。失敗は再生へと向かわせる一里塚なのだということを示されたのでした。
 
今日一日の歩みが、自らを振り返りつつ神のなさることに心から感謝できるような経験となることができますように。お祈りします。