くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記15章7節
あなたは、貧しい兄弟に対して心を閉ざし、手をこまぬいていてはならない。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙2章14節
私のきょうだいたち、「私には信仰がある」と言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて36日目を迎えました。そして、イースターから数えて6回目の日曜日を迎えました。今週は復活後のイエスがその40日後に天に昇られたことを記念する「昇天祭」を木曜日に迎えます。イエスの復活がもたらす意味というものを私たちは十分に噛みしめながら、今週の日々も歩んでまいりたいと思います。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の価値観を自分の生き方とする」というものでした。そして、今日のふたつの聖句に共通するのは、神の価値観が何であるかを知りながら、それを自分自身の生き方としないことへの忠告の言葉であると私は思わされたのです。
今日の旧約聖書の言葉は、エジプトから神が示された約束の地への流浪を続けていたイスラエルの民たちに対して語られた「生き方」について示された「律法」のひとつです。何らかの事情で足りなくさせられている同胞があるならば、その人に対して心を開くことなく、腕組みをして傍観することがあっては決してならないという戒めです。同胞とはイスラエルの民たちのことを指すのですが、この人たちはまさに神の御心(価値観)によって命与えられ、養われ、生きるべき道を今示されて、約束の地へと歩んでいたということに注目したいのです。
つまり、神の価値観を自分自身の生き方というのは、その価値観が自分だけでなく、神が愛されるすべての者に対して行われることが、神の私たちに対する願いであるということです。それが神によって私たちが共に生きる者とされたことへの、私たち自身の生き方へとつながっていくということに、私たちは自分自身の思いを整え、神とともに歩む幸いというものを味わっていきたいのです。
やがて、神が私たちのために送ってくださったイエス・キリストによる十字架と復活の出来事は、イスラエルという限定的な救いの範囲を全世界に広げました。それによって、私たちもまた神の救いの恩恵を受けるにいたったわけですが、それは同時に、神がすべての人々を愛し、大切にされているということへの紛れもない根拠であって、私たちもまた、神の価値観を自分自身の生き方としてどのようになされるのが大切なのかということに、自分自身の思いを寄せることができるのだと、改めて思わされるのです。
信仰がありながら、、、と今日の新約聖書の言葉は語ります。信仰とは救い主イエスが救いの実体となられたその言動を自分自身の心身をもって受け入れることを意味します。受け入れたわけですから、受け入れた方とともに生きるその生き方が問われているということなのでしょう。もちろん数々の失敗はありますし、私たちは神の愛の誤用というものもしばしばすることでしょう。しかし、そのたびに私たちは自分自身を神の御心を尋ね求めながら問い直すことができるのです。そして自分自身を整えつつ、神の価値観を自分の生き方とすることが少しでもできるように、ただ神の助けをいただきながら、今日という一日を歩むことができるのだと。
そんな思いをもって、週のはじめのこの一日を楽しんでいくことができますように。皆さんの歩みのために、私自身の歩みのためにも心からお祈りします。