19/05/2025

2025.5.19(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
歴代誌下20章12節
私たちには何を行うべきか分からず、ただあなたに目を向けるのみです。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書10章2,5節
イエスは十二人の弟子に言われた。「どんな家に入っても、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて30日目を迎えました。そして、ローズンゲン黙想も6日ぶりの再開です。先週は黙想をお届けする時間を取ることがなかなかできませんでした。韓国での研修は私にとってとても実りのあるものでしたが、その分通常のルーティーンをこなすことができず、黙想を楽しみにしてくださっている皆さんへは、大変申し訳ありませんでした。心新たにして、また御言葉の恵みを味わってまいりたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「周りの雑音に囚われ過ぎることのないように」という励ましのメッセージでした。そのことについて綴ってみたいと思います。
 
皆さんのなかにご存知の方もおられるかと思いますが、SNS界隈では私を揶揄する言動が展開されているのを、私も知るに至っています。私は現在、ある民事訴訟の被告となっています。今裁判が行われている最中ですので、流言飛語にならないように私の方から発言することを極力控えています。しかし、私を非難したいと思っている方々は、SNSでそのことを持ち出しては、揶揄が展開されていると言った具合です。
 
正直申し上げて、揶揄の内容を見聞きすると決して気分の良いものではありません。心中穏やかではありませんし、心がざわめくこともあります。本当に心配してくださっている方々は個人的に声をかけてくださり、その方々には私の思いを直接伝えることができていますが、SNSの情報を通してそのことを知った方々のなかには、私に対する非難の声を直接間接的に聞くことがこれまで多くありました。
 
そのような非難や揶揄といったものに囚われてしまうと、自分自身のなかの判断というものがそういったものに引きずられていくような怖さというものを感じることがあります。自分自身のなかで今大切にしなければならないことはいったい何なのかということを自問する時に、今日の旧約聖書の言葉にもあるように、もう「何をしてよいのかわからなく」なることだってあるわけです。しかし、そういう時こそ危険なのだとつくづく思わされるのです。
 
だからこそ、私はどこに自分自身の視線を向けるべきなのか。揶揄する相手か、人の批判に反論することか、もちろん時にはそういうことも大切でしょう。しかし、私のことをすべてご存知である神がともにおられるということに、私は視線を向けることを周りに振り回されるがゆえに忘れてしまうことがあれば、それこそ、一番大切なものを見失ってしまうのだと思うのです。「ただあなたに目を向けるのみです」という告白の言葉通りに、私に健全な判断を与えてくださる神とともに歩むことにただ誠実でありたい。そのようにあらためて思わされたのでした。
 
そして、神とともに歩む誠実さは、常に「主の平安(シャローム)」を胸当てとして生きることに相通じるのだということです。挑発に対して好戦的に向かうくらいならば、その場を離れて今必要とされている場においてシャロームを示す者として生きていきたい。そんなことを今日のふたつの聖句を通してそのことをしっかりと握りしめて歩みたいと思ったのです。
 
神との関係において誠実であるならば、神は必ず私に大切なことを指し示してくださる。そんなことを希望に、今日も一日を歩んで行きたいと思います。皆さんとともに歩んでくださる神が、今日も皆さんにシャロームを与えてくださいますように。心からお祈りします。

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