12/05/2025

2025.5.12(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書29章13~14節
心を尽くして私を尋ね求めるならば、私は見いだされる――主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書9章20~22節
すると、十二年間も出血が止まらない女が近寄って来て、後ろからイエスの衣の裾に触れた。「この方の衣に触れさえすれば治していただける」と思ったからである。イエスは振り向いて、この女を見て言われた。「娘よ、元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを治した。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて23日目を迎えました。そして、今日から新しいウィークデイの日々が始まりました。私は今日から木曜日の日程である研修に参加するため旅先でローズンゲン黙想をつづりたいと思います。移動時間の関係で、昨日現地に到着しました。私にとってよき研修の時となりますようにと祈りつつ、今日も御言葉に聴いてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「尋ね求めることの幸い」であると私は受け止めました。神に対して尋ね求め続けることが私たちにとっていかに大切な営みなのかということについて、これらの聖書の言葉は深い黙想を与えるものだということに私はあらためて気づかされた次第です。そのことを黙想したいと思います。
 
何かを尋ね求めるという作業は、決して楽なものでないということを私たちはよく知っています。いくら尋ね求めてもなかなか答えが返ってこないということが、私たちの生活のなかでは往々にしてあるからです。どんなに待てど暮らせど、状況が良くならない。やがて途方に暮れ、待ちくたびれてしまうあまり、あきらめてしまうのです。
 
もちろん、私たちが尋ね求めていることが本当に神の御心に沿った、ふさわしいものなのかどうかということを考え続けることは必要であるかもしれません。その探求が極めて独り善がりなものであったり、他者の尊厳を損なってまでなされようとするものであるならば、どんなに尋ね求めても神は自分の思い通りに叶えてはくださらないでしょう。そういう尋ね求め方は自分自身が「神」となるために、神を利用しているに過ぎないわけですから。
 
そうではなく、本当に神が与えてくださった命の尊さを喜べるような結論に達するために、私たちが神に尋ね求めるならば、神は必ずご自分のベストとされるときにお答えになられるとおいうことを、私たちは自分たちの生きる希望とすることができるのだと。そういう意味では、今日の新約聖書の言葉にもあるように、12年間という待ちくたびれても全然おかしくないその時の流れのなかで、出血の病に苦しんでいた女性の命をイエスが憐れみ、慈しんでくださったのです。まさに女性にとって神が与えられたベストタイミングの時でした。
 
私たちはなかなか待てません。苦しいことを味わい続けるのは本当に辛いのです。そのことを独善的な人間が自分の私利私欲を充足させるために苦しみを与え続けるということもあれば、どうしようもない不可抗力によって苦しみ続けなければならないこともあるでしょう。しかし、神はそんな私たちをすべてご存知なうえで、ご自分の言葉と霊の導きによってご自分の民である私たち人間と関わり続けることを望んでおられる。それを私たちの希望としたいと、今日の聖句を通して私は受け止めたいと思ったのです。
 
現実離れした甘い考えであると言われたとしても、希望を捨てないところにこそ必ず神が応えてくださる。そんな思いをもってこの新しい平日の日々を過ごすことができますようにと祈ります。皆さんの新しい日々のために、そして私自身の日々のために。

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