くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
列王記下20章5節
私はあなたの祈りを聞き、あなたの涙を見た。それゆえ、私はあなたを癒やす。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書4章49~51節
王の役人は、「主よ、子どもが死なないうちに、お出でください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きている。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
******
皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて31日目を迎えました。今朝もローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、神の御声に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
今日の聖句を通して受け止めたいと思ったのは「神は私たちとつながっておられることを明らかにしてくださる」というものです。特に、私たちが苦しいと思った時にこそ、私たちがそのような神が一緒におられることを自分自身の望みとすれば、神は決して私たちを孤独にはなされないということです。
ユダの王ヒゼキヤがそうでした。ヒゼキヤ王は南北イスラエル王国の歴代の王のなかで、誠実に神とともに歩んだ人物として聖書に収められています。そのような神とともにあったヒゼキヤ王でしたが、彼にも苦しみが襲いました。腫物による病によって命の終わりを宣告されたのでした。どんなに誠実にその日々を歩んだとしても、予期しない苦境というものが私たち人間を襲うということは、往々にしてあることなのです。
そのような苦しみの淵に立たされた時、私たちはどうすれば良いのでしょうか。ヒゼキヤ王は神に向かうことを何よりも大切にしました。祈りを通して神に自分の思いを打ち明けました。そして、神につながれているゆえの信頼をもって、神に自らの正直な思いを伝え、そして悲しみ、涙を流して泣き叫びました。そのようなヒゼキヤ王の心からの告白を、神が見捨てるはずがありませんでした。ヒゼキヤに神の慈しみが十分に及んだ時、ヒゼキヤは再び神とともに生きる者として導かれたのでした。
私たちは先行き見えない不安、夢も希望も見い出させない状態のなかで、何かに幻滅し苦しむことが往々にしてあるでしょう。神がおられるのに、その神のまなざしが向けられていないと感じることもあるでしょう。何か明確な保証がなければ信じることができないといったこともあるでしょう。今日の新約聖書の言葉に登場する、王の役人がまさにそうでした。自分の息子が死の淵にあったときに、父親はイエスにその場に来て癒して欲しいと必死にイエスに懇願したのでした。
しかし、イエスはその場にいようがいまいが、ご自身の誠実さがその子を病から解放させたのです。そこにこそ、私たちを見守り続けてくださる神の信実なのです。その信実をいただいた私たちだからこそ、心からの誠実と信頼をもって、神にいただいた信実を向けることができるのだと。この信実を抱いて生きることゆえの幸いというものを、今日も味わいつつ過ごしたいと願わされました。
苦しいからこそ神がすぐ近くにいてくださることに、私たちひとりひとりの心が癒され、神に向かう思いが豊かに与えられますように。今日一日の主にある幸いを心からお祈りします。
0 件のコメント:
コメントを投稿