くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書33章13節
遠くにいる者よ、私のなしたことを聞け。
近くにいる者よ、私の力を知れ。。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書11章40節
イエスは、「もし信じるなら、神の栄光を見ると言ったではないか」と言われた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて17日目を迎えました。昨日の晴天とは打って変わって曇天の仙台です。今日は午後から本格的な雨も降るとのこと。静かに一日を過ごしたいと思います。ゴールデンウィークの最終日を過ごされる皆さんに、すべての安全がありますようにとお祈りします。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私は「聞くこと・知ること・見ることの幸い」というものを受け止めたいと思いました。今日は特に、新約聖書・ヨハネによる福音書11章の一節からそのことを黙想したいと思います。
今日の新約聖書の言葉は、イエスが彼の友人であり支援者であったマルタに対して語られたものです。そして、その背景にはマルタの兄弟であるラザロが数日前に亡くなったという出来事がありました。すでにその日から4日が経過していました。
ラザロの死をイエスが聞いた時に語られた言葉に注目したいと思います。
「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(4節)
「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(25~26節)
つまり、今日のローズンゲンに示された40節の御言葉は、このイエスの言葉の前提があったからこそ語られたものであることがわかります。つまり、復活という出来事を通して神のみわざというものを聞き、知り、そして見ることができるのだということを、イエスは兄弟の死で嘆き悲しむマルタに向かって一貫して語られたのでした。
しかし、マルタは現実的な事実にとらわれてしまうばかり、イエスの言葉が心に入って来なかったのかもしれません。死から4日も経ってしまった墓のなかは異臭で満ちあふれていたことが十分に想定されました。だからこそ、復活という出来事を信じつつも、しかし現実の場に引き戻されると、そのことがどこかに忘れ去られてしまったかのような感覚になってしまったのかもしれません。
私たちも往々にしてそういうことがあるのかもしれません。調子のよい時には大いに神を賛美し、神のなさることに心からの同意をもってそこに向かうことができるのです。しかし、自分自身に不幸が訪れたり、災いというものが降りかかってきた途端に、急に現実的なことに引き戻されてしまい、神のみわざなどに望みが持てなくなってしまうのです。
しかし、イエスはそのような現実があるにもかかわらず、ただご自分が神から委ねられた務めというものを果たしました。ラザロが墓の中から復活することによって、喜びや神の栄光をたたえる思いもまたよみがえさせられる経験を味わうことができたのでした。私たちはその出来事を、聖書を通して聞き、知り、そして日々の生活のなかでそれを見ることができるのです。復活とは何も死者の復活のことだけを言っているのではありません。生活のあらゆる場面で私たちは再生の喜びというものを味わうことができるならば、それはすべて復活の体験なのです。
主のご復活をお祝いするイースターから2週間あまりが過ぎました。復活はイースターの時だけに祝うものではなく、復活の喜びを想い起こすきっかけとしてイースターが与えられているのであって、私たちのすべてが神から与えられた復活体験の日々がここから始まった。今日もその日を迎えることができたのだと私は受け止めて、新しい命の一日を歩みたいと願いたいのです。
今日の一日がまた、私たちの復活を聞き、知り、見ることのできる時となりますように。お祈りします。
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