くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書23章23節
私は近くにいる神なのか――主の仰せ。
遠くにいる神ではないのか。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書15章34節
三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて21日目を迎えました。そして、ゴールデンウィークの最中から始まった一週間も、今日で最終日を迎えました。この一週間にあったことを思い巡らせながら、明日への備えをしつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に思いを寄せたいと思います。
今日の聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは、「私たちが神から見捨てられたような感覚に陥る時にこそ、実は神はすぐそばにおられる」というものでした。私たちは誰でも、神の存在、そしてなさることを信じ、受け止めていたとしても、ちょっとしたことで神から見捨てられたような経験をしたことがあるかもしれません。
私はここ数日考えていたことがあります。ある人がついた「嘘」を信じてしまったがために、大きな代償を払わなければならなくなってしまったということについでです。詳しいことを書くのは控えますが、これは実際に私の身に起きたことであって、そのことに真摯に向き合おうと思いながらも、時々そのことで思い苦しむ自分自身があったりするのです。どこに怒りのやり場を向けて良いのか、とてもやるせない気持ちにさせられるのです。
お前のついた嘘のせいでこんな目に遭ったんだ。そう思う一方で、だまされた自分が馬鹿だったとも思うわけです。自分のことでこういう言い方をするのはおこがましくはあるのですが「正直者は馬鹿を見る」とはよく言ったものだと思うのです。そういう時に、私はいつも思うのです。神はこの状況をどのようにご覧になられているのだろうかと。
今日の新約聖書の言葉は、イエスが十字架上で叫ばれた「私の神よ、私の神よ、どうして私をお見捨てになられたのですか」という、大変有名な聖書の箇所が選ばれています。十字架のうえでただ孤独のなかで神に向けられたこの言葉を聞く時に、イエスは本当に神に対して見捨てられたような感覚を抱いてこのようなことを言われたのだろうかと。
私はそうではないと思っています。孤独という現実が実際に人を襲うなかにあって、誰からも見捨てられたような感覚に陥る人間の正直な気持ちというものを、イエスは全人間を代表するかのように叫ばれたのだと私は受け止めたいのです。しかし、神がそう簡単に人間のことを於お見捨てになるはずがありません。どの時代にも、神は人間のことを決して見捨てられるようなことをなさいませんでした。だからこそ、救い主を与えられたのではなかったのか。その救い主を復活を通して、本当に命の救い主にしてくださったのではないか!と。
だから、私自身の話に戻れば、こういうつらい時にこそ、神はすぐそばにいてくださって必ず神にとってベストな道というものをもって、私にそのことを示してくださるのだと信じたいのです。その過程で、もちろん自分自身が神に向き合えなかったことを悔やむ思いも与えられるでしょうし、誰も理解してくれないようなことでも、神は理解してくださったのだということに大きな喜びを見い出せるに違いない。とにかく神は決して遠く離されたところにおられる方ではなく、すぐ近くにおられるのだと。
だからこそ、自分自身にある状況というものを認めながらも、それよりも大切にしたいのはすぐそばにおられる神と歩むことに誠実でありたいと、今日の聖句を通してあらためて思わされたのでした。今私を悩ませている出来事も、すぐ近くにおられる神がご自分の正しさをもって私に何をすべきかを教えてくださるのだと、希望をもって歩みたいと思いました。
明日から新しい一週間が始まります。その日々が神によって祝されることを心から願いつつ、今日の残りの時間を過ごすことが出来ますように。心からお祈りします。
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