くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
哀歌3章31~32節
主はとこしえに拒まれることはない。
たとえ苦しみを与えても
豊かな慈しみによって憐れんでくださる。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章63~64節
父親は書き板を持って来させて、「その名はヨハネ」と書いたので、人々は皆不思議に思った。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて16日目を迎えました。今日も朝から青空のひろがる仙台です。今日は駐車場と会堂を貸し出して、この地域の若い人たちに向けたバーベキューイベントが行われます。この催しに参加する人たちが、とても楽しいひと時を過ごすことができますようにと祈りたいと思います。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「懲らしめの背後にある慈しみ」であると私は受け止めました。私は個人的にとても難しいテーマのように感じましたが、そこにも大きな意味があると思いました。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
懲らしめは何のためにあるのでしょうか。まず言えることは、懲らしめはいたずらに行われるべきではない類の出来事であるということです。そして、人間の怒りのはけ口や権力誇示のために用いてもいけないということです。あまりにもそのような仕方で懲らしめというものが濫用されていますから、私たちはあらためて懲らしめの意味というものを考えなければならないと私は考えています。
懲らしめは私たちを憐れみ、慈しむためである。少なくとも聖書で語られている神による懲らしめとは、そのような意味をともなっていることが分かります。母親が子宮のなかで胎盤に支えられながら胎児を守るといったイメージで、旧約聖書の世界に生きる人たちは「憐れみ」という言葉をとらえていたのだそうです。命を守るため、その命を十分な保護のもとに育むために、時には懲らしめというものが神によって人間に向けてなされるのだと言うのです。
今日の旧約聖書の言葉は「哀歌」の一節です。絶対に滅びることがないと信じてやまなかった都エルサレムがいともやすくバビロニア帝国に滅ぼされてしまったときに、はじめて神の民は気付かされました。自分たちは神とともにあると言いながらも、神に背を向けて神とともに歩もうとしなかったということをです。人は痛い目に遭わなければ本当に大切なことになかなか気づけないということは、まさにその通りであると私も自分自身の歩みを振り返っては実感させられるのです。
しかし、痛みが痛みのままで終わることは決してないのです。失敗がいつまでも責められ続けることもありません。本当に人は懲らしめの意味と真実を実感したところにこそ、神は必ず憐れみを示してくださるというのです。私たちを慈しんでくださる神が、懲らしめを通して本当に大切なことを私たちに気付かせてくださるのだと。この神のまなざしを、私たちはどのように受け入れることができるのでしょうかということを、ただ考えさせられるのです。
洗礼者ヨハネの父親となった祭司ザカリアも、神のなさることを自分自身の限界ゆえに受け入れることができませんでした。神はしばらくの間ザカリアを黙らせました。そうすることによって、ザカリアは沈黙し、神の恵みについて黙考、黙想する時が与えられたのでした。その結果、ザカリアが得た結論は「神がこのような老人にも憐れみと慈しみを示され、子を持つ喜びを与えてくださった」というものでした。懲らしめは人を真実へと導き、ザカリアがそうであったように神を賛美する思いへと促すのだと。
世のなかにある懲らしめのすべてが良いものではありません。むしろ悪い懲らしめばかりかもしれません。だからこそ、懲らしめの意味というものをじっくり考えつつ、懲らしめの背後にある憐れみと慈しみを与えられる神とともに生きる幸いを味わうことができますようにと受け止め、今日の一日をも祈りつつ過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一切にも、神である主の守りと祝福が、ともに豊かにありますように。
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