09/05/2025

2025.5.9(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エゼキエル書33章17節
あなたの同胞は、『主の道は公正ではない』と言っている。しかし、彼らの道こそ公正ではない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙9章14節
神に不正があるのか。決してそうではない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて20日目を迎えました。昨日、おとといと黙想を皆さんにお届けすることができませんでした。楽しみにしてくださった皆さまには申し訳ありませんでした。3日ぶりのローズンゲン黙想となりますが、聖書の言葉から、生きる励みを今日も得てまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「正しさ」という言葉です。しかし、その正しさとはいったい何か。そのあたりを黙想してみたいと思いました。
 
今日の旧約聖書の言葉であるエゼキエル書33章の一節は、イスラエルの民の主張が描かれています。その主張とは「神である主ヤハウェの歩まれる道は『公正』ではない」というものです。旧約聖書では「公正」と日本語に訳されている言葉の多くは「ミシュパート」というヘブライ語が用いられています。これは神の正義(ヘブライ語でツェダカー)に基づいた「正しい判断」のことを指している言葉であると言えます。
 
しかし、今日の聖句で「公正」と訳されている元の言葉は「ターカン」というヘブライ語が用いられています。このターカンという言葉は「正確に測られた・バランスの取れた」というもともとの意味がありますので、公正でないというイスラエルの民の主張には、神の正義に基づいた判断は不正確であり、バランスが取れておらず、どこかズレているという不平の意味が込められていることが分かります。
 
しかし、エゼキエルは言います。神の思いを正確に受け取ることができない、バランスに欠け神の御心からズレてているのは同胞であるイスラエルの民のほうなのだと。それは神と人間との関係性にゆがみがあり、ひずみがあり、破れがあることを示していると言えるでしょう。そのような関係性の壊れを、聖書では大本の「罪」(いわゆる罪の原理:原罪)という言葉で表現しています。
 
つまり、私たち人間はこの世界にあるあらゆるゆがみや壊れというものを考えるときに「神がおられるのにどうしてこの世界はこんなに悪いのだ」ということを口にしては、その責任を神に押し付けてはいないだろうか、そんなことを考えさせられるのです。こんなに悪い状況を頬っておられる神は無責任だと。では、果たして本当にそうなのでしょうか。
 
私たちは自分のことを棚に上げて、誰かのせいにすることほど楽なことはありません。そうやって私たち人間は大なり小なりバランスを保ちながら生活をしているのです。しかし、自らのあり方というものに目を向けることなく、つねに他者にその責任を着せようとする態度は、それこそバランスに欠けた姿勢なのではないだろうか。私は自戒を込めつつそのように思わされたのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、後にイスラエル民族の祖となったヤコブとその双子の兄エサウを引き合いに出して、長子であるエサウが家督を継げなかったことは神の不正なのかという問題提起に、ローマの信徒への手紙の筆者であるパウロが答えている箇所です。パウロは他の事例を提示しながら、神の正しさはその「憐れみ」にあるのだということを書きつづっています。それは私たち人間の確固な意志や努力によって、神の正しさを勝ち取るようなものではないのだと。
 
むしろ逆なのです。神の思いをストレートに受け取ることのできない私たちに、神の正しさが憐れみをもって臨むときに、私たちは神の正しさによってその関係性を確固なものにさせてもらえるのだということを、今日のふたつの聖句は伝えているのだと私は受け止めました。自分自身に与えられた責務とは、そのような神の正しさによって誠実に歩むことなのだと。
 
今日の一日が、そのような公正によって祝されたときでありますように。お祈りします。

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