07/04/2025

2025.4.7(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編103編6節
主は虐げられているすべての者のために
正義と公正を行う。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙4章17節
だから、なすべき善を知りながら行わないなら、それはその人の罪です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節29日目を迎えました。そして、今週もウィークデイが始まりました。どんなことがこの一週間にやってくるのでしょうか。神が私たちのためになしてくださることに期待しつつ、今日のローズンゲンに示された御言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉はヤコブの手紙の一節でした。ヤコブの手紙は一般的には「行い」の重要性について各所で言及されている手紙として知られているわけですが、プロテスタント教会では「信仰」こそ大切であるということを強調するがゆえに、行為についてはわきに追いやられてきたという歴史がこれまでありました。
 
しかし、宗教改革者ルターでさえも、実は行いの重要性を説いている訳であって、なにも行為を否定したわけではありませんでした。ルターは、自分自身の行いが「何に基づいているか」ということを見極める大切さを宗教改革の中心にしたと言って間違いありません。
 
そのことを踏まえて、今日のヤコブ書の言葉に目を向けるならば、それは「善」であるとこの手紙には書かれていることが分かります。では善とは何でしょうか。それが、今日の旧約聖書の言葉で言及されている「正義と公正」であると言えるでしょう。
 
神である主ヤハウェは、私たちのためにご自分の正義と公正を行われるというのが、今日の旧約聖書の言葉である詩編の一節です。正義と公正という言葉は、旧約聖書ではしばしば登場するワードです。聖書原語であるヘブライ語ではツェダカー(正義)とミシュパート(公正)と言います。つまり、正義が神御自身の土台にあるからこそ、神はご自分の正義をもって私たち人間を過不足なく取り扱ってくださる。それが今日のヤコブ書で言われている「善」そのものなのです。
 
つまり、今日のヤコブ書のなかで「なすべき善と知りながら」という言葉は、私たちがなすべき行動の土台が、神のツェダカーとミシュパートであることを知っているならばと置き換えることができるのです。もっと分かりやすく言えば、神が善い御方であることが自分の生活の土台にすることを大切にして、主と手をつないで歩もうと思うことがなければ、という言い方でも表現できるのではないかと思うのです。
 
そして、そうでなければ「それはその人の罪です」というヤコブ書の続く部分に注目すれば、ここで言う罪とは「神とともに歩めない状態」のことを指すわけです。何か悪いことを行うことによって生み出される罪というよりは、神と乖離した状態のことをこの手紙は私たちにつたえているのではないだろうか。そんな風に受け止めたいと思ったのです。
 
私たちの罪のためにイエスは十字架にかかられたという、レントの時だからこそ考える命題は、神と手をつなぎえない私たちの状態がこれ以上続かないために、イエスがご自分の命をもってそのかすがいとなってくださったことを想い起こす絶好の機会なのだと思います。このことが土台となってこそ、私たちの生き方というものも問われていくのでしょう。
 
この平日の数日間の先駆けとなる今日の一日に、神がともにいてくださることゆえの幸いを気づく思いを神が豊かに与えてくださいますように。主にある平安と祝福をお祈りします。

06/04/2025

2025.4.6(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書58章7節
家がなく苦しむ人々を家に招きなさい。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書25章40節
そこで、王は答える。『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。』
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節5回目の日曜日を迎えました。刻一刻と救い主の御復活を祝うイースターが近づいています。しかしその前に、救い主イエスの苦しみが私たちの目前に迫っています。この苦しみを私たちはどのように受け止めることができるのでしょうか。そんなことを心に刻むことのできるような一日となることを願いつつ、今日もローズンゲンに示されたふたつの言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、それに先立って「私の選ぶ断食とは」という問いかけから始まっています。ここで言う私とは神御自身のことを指すわけですが、断食というのは苦しみを意味する象徴的な言葉でもありますから、神が苦しみの道を選び取るという前提で今日の言葉が語られていると考えることができるでしょう。
 
安住する場が見つからない方々をご自分の家に招かれる神。そこには寛大な心を私たちは読み取ることが出来るかもしれません。神はこうしてどんな人でも迎え入れてくださるのだと。しかし、誰彼を迎えるということは決して楽なことではないということを、私たちはよく知っています。私自身、仕事上誰かを引き取らなければならない時がありますが、引き取った後に訪れる様々な出来事に、正直音を上げてしまいたくなることがこれまで幾たびもありました。
 
つまり、寛大な心をもって何かを迎え入れるということは、迎え入れる側に何かしらの犠牲を伴わなければならないということなのでしょう。神が私たちひとりひとりを迎え入れるために、神御自身が犠牲を払われるということを想うときに、最愛の独り子を私たちのために差し出してくださったという、私たちの想像を絶する犠牲があったことを思わずにはいられないのです。
 
私たちもまた、そのような犠牲を払うという道を選び取ることが、イエスの言われる十字架の道を歩むということにつながるのだと私は考えています。本当に助けを必要とする人が、神の犠牲によって再生することを心から願いつつ、自分自身のうちにある犠牲を払うこと。そのことは本当に苦しいことですし、投げたしたくなるかもしれません。しかし、犠牲の苦しみを知っておられる神がおられるからこそ、その神の守りと助けを十分にいただきながら、いただいた命を尊び合うことに喜び、今日の一日を生きてまいりたいと思いました。
 
どうか今日の一日もまた、神とともに歩む幸いを味わうことができますように。心からお祈りします。

05/04/2025

2025.4.5(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
サムエル記上2章7節
主は貧しくし、また富ませ
低くし、また高めます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙12章3節
私に与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。分を越えて思い上がることなく、神が各自に分け与えてくださった信仰の秤に従って、慎み深く思うべきです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節28日目を迎えました。そして今週も最終日を迎えました。この一週間にあったさまざまなことを想い起こしながら、今日を生きるための糧となる御言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「与えられた信仰」についてでした。そのことについて綴ってみたいと思います。
 
信仰とは得るものか、それとも与えられるものか。それは決して悟りを得て自ら見つけ出すものではありません。そうではなくて神が私たちの人生のために、惜しみなく与えてくださるものなのだということを、今日の聖句は私たちに伝えているのです。大切なことは、私たちがそのことに気付いて、いかにいただいたものを大切に用いることができるかということなのです。
 
そのことを、今日の新約聖書のことばには「信仰の秤」という言葉で表現されています。その秤(はかり)は、神が私たちの各自に与えてくださったのだと、この手紙の筆者である使徒パウロは愛するローマにあるクリスチャンたちに書き送りました。私たちそれぞれに別物の信仰が与えられたわけではありません。量の大小の問題でもありません。私たちに与えられた信仰という秤を、私たちがどのように健全に用いることができるのかということなのです。
 
つまり、与えられたものの使い方をトリセツ通りに使うならば、そのものの機能が十分に発揮されます。はかりの場合は、ものの重さを正確に量ることができるようにメンテナンスをする必要があります。1グラムという重さを1グラムとして量ることができるように整えることは大切なのです。
 
目方をごまかして、多いものを少なく見せたり、その逆のことも私たちの世界ではよくあることです。自分自身を過大評価、もしくは過小評価することで、本来示されるべきことが示されないままに自分自身を受け入れることもあれば、それが結果として、人をだますなどということが、人間の歴史では繰り返し起きてきました。聖書のなかにもそのようなエピソードというものを私たちは見ることができるのです。
 
神はイエス・キリストという信仰の秤を私たちのために惜しみなくプレゼントしてくださいました。その秤自体は完全完璧なものなのですが、それを使う私たちが、いつのまにかに自分好みの秤に改造してはいないだろうか。そんなことを私たちは自問することは本当に大切なのだと思わされます。
 
そこに自分自身の慎み深さが働く時に、神は余すところなく私たちの心を富ませてくださることでしょう。もし、神である主ヤハウェが私たちを貧しくされるのであれば、それは決していたずらにそうさせるのでは決してありません。私たちの判断と決断、選択の結果なのです。そのことを私たちは、誰かに責任を転嫁することなく、神が本来私たちに与えようとされておられることを真摯に受け止めながら、今日も与えられたイエス。キリストという信仰の秤を、よいものとして用いてまいりたい。そんなことを受け止めたいと思います。
 
今日の一日が、明日の主の日の良き備えの時となりますように。お祈りします。

04/04/2025

2025.4.4(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ミカ書7章19節
主は私たちを再び憐れみ
私たちの罪をことごとく
海の深みに投げ込まれる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一1章9節
私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節27日目を迎えました。仙台はおととい昨日と冷たい雨が降り続けていましたが、今朝は久しぶりに太陽が顔をのぞかせています。青空の下で春のひと日を過ごしつつ、イエスが負われた受難の出来事に心を寄せたいと思いました。今日も、ローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、黙想を深めてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに共通するテーマは「罪のゆるし」であると私は受け止めました。先日、SNSに目を通していましたら、どうしてキリスト教は罪のことをここまでも強調するのだろうか、イエス・キリストが私たちの罪をゆるしてくださったのならば、罪のことをここまで強調する必要はないのではないだろうか。にもかかわらず、どうして「私たちの罪をゆるしてください」と祈り続けるのだろうか、というポストを目にしました。
 
その方がおっしゃるには、罪をゆるしてくださいという言葉を聞くたびに、自己嫌悪におちいって、やはり私は神にゆるされていないのではないだろうかと思うのだそうです。私もこれまでこのような反応というものにたびたび出会ってきました。だからこそ、罪という言葉には慎重に、かつどのような用い方をすればバランスの取れた見方をすることができるかということを考え続けています。
 
聖書で言う罪は、私たちが一般的に考える悪事=罪という以前に、神との関係が破綻している状態のことを「罪」という日本語を用いて表現しているに過ぎないと私は考えています。一般的な悪事は、その前提の結果として表面化することなのであって、そちらがメインではないということを私は強調したいのです。
 
人間は神がいなくても独立独歩の道を歩むことで、世界は平和になると考えたことが、聖書の冒頭に記されています。神との絶縁を選択した人間は、その後誰か特定の人物を「神」に仕立てることによって、支配ー被支配の構造が確立されました。この支配構造がゆがむと、どんなに平和を願ったとしても、それが実現することが無くなってしまうというのは、人間の歴史が繰り返し物語っています。これが表面化することによって、私たちの目に見える罪が明らかにされるというのです。
 
問題なのは神ではない、宗教でもない。そういうものを我田引水のごとく利用悪用する人間の側にあるのだと、私も自己反省的に痛感させられます。神との関係を健全に理解すれば、神や宗教の存在は決して悪いものではないのです。ただ、それがなかなかできないからとても悩ましいし、神のゆるしを聞いても、それをなかなか受け入れることができないのだと自戒を込めて思わされるのです。
 
だからこそ、神との関係性を健全なものとしてもらえるように、神のことをよく深く知りたいのです。神との関係の破綻を海に投げ込んでくださる神。そのことを自分自身の問題として神の御前に素直に告白したときに、必ず神は私たちに健全な関係性というものを築かせてくださるのだ。今日の旧約聖書・新約聖書の言葉が言わんとしていることなのだと私は受け止めたいのです。
 
今日も神が私たちとともにいてくださる。そのことを希望のいしずえにして歩むことができますように。皆さんの一日に神が豊かにともなってくださいますように。お祈りします。

03/04/2025

2025.4.3(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書2章13節
わが民は二つの悪をなした。
命の水の泉である私を捨て
自分たちのために水溜めを掘ったのだ。
水を溜めることもできない
すぐに壊れる水溜めを。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書4章14節
しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節26日目を迎えました。今日もローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、神の言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のふたつの聖句に共通する言葉は「いのちの水」であると私は受け止めました。そして、私たちのいのちを支える水源について、ふたつの聖句は実に対照的な言葉をもって私たちに大切なことを指し占めていると私は思ったのです。そのことをつづってみたいと思います。
 
旧約聖書はエレミヤ書のはじめのほうにある一節でした。エレミヤ書が特にそうなのですが、神に従順を示しているようで、実はそうではない。かたちばかり口先ばかりの民たちに対して、神はエレミヤを送ってご自分の言葉を民たちに授けられました。ですから、エレミヤの口を通して語られる言葉は、とても鮮烈かつ痛烈なものとして当時の民たちに、そしてこの言葉を読む私たちに響いてくるのです。
 
そこでモチーフとして用いられるのが「水」です。私たちのいのちを支える水がどこからくるのか。民たちは自分たちの所有物であるとうそぶき、みずから貯水池をつくってそこに水をためることによって、いかに豊富な水を貯えることができるかを誇った。つまり、それは自分たちの功績というものをアピールすることへとつながるものだったのです。
 
どれだけ伝道をしたか、どれだけ洗礼者を増やし、礼拝出席者を増やし、いかに大きな会堂を目抜き通りに建てて、大企業のようなメガチャーチをつくることできるか。もちろん、それ自体が悪いことではありません。しかし、その成績を競い合うかのように増殖することばかり考えて、一番大切にしなければならないことをおそろかにするならば、そこにはたとえ水が豊富にあるように見えても、必ず枯渇する日がやってくるのです。
 
それをエレミヤは「すぐに壊れる水溜め」という言葉で民たちに語ったのでした。なぜか。水源がどこにあるのかという一番大切にしなければならないじことを民たちはおろそかにしたからです。自分たちの功績ではない。自分たちの功績など、いつかは壊れてなくなってしまう。そうではないのだ。いつまでも堪えることのない水源こそ、私たちにいのちを与える神である主ヤハウェにあることを、エレミヤは神からいただいた言葉をもって民たちに知らせたのでした。
 
教会という場所が、私たち一人ひとりのいのちが、名によって形づくられ、また建てられているのかということを、私たちは日々確認していくことにこそ幸いというものを見い出すことができるのです。後にイエスは、井戸端でそのことを語られたのでした。私が与える水こそ、決して渇くことのない、永遠にわたって私たちのいのちを支えるいのちの水の泉がどこにあるのかということを。
 
決して滅びることのない神に言葉に、今日も私たちのいのちを活かす根本があることを大切にしてまいりたいと思うのです。どうか、私たちに与えられたいのちの幸いが神とともにありますように。祈りつつ歩んでまいりたいと思います。そのことをお祈りします。

02/04/2025

2025.4.2(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
マラキ書1章6節
主はあなたがたに言われる。
子は父を敬うものだ。しかし、私が父であるなら
私に対する尊敬はどこにあるのか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章3節
私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈しみ深い父、慰めに満ちた神がほめたたえられますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節25日目を迎えました。今日の一日もまた、救い主イエスが負われた痛みや苦しみを想いつつ、自分自身に与えられた時に感謝することができますように。そんな思いを胸にしつつ、ローズンゲンに示された御言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉であるマラキ書の冒頭にある一節で、神はご自分の民たちへ、特に礼拝を司る祭司たちに向けて「私に対する尊敬はどこにあるのか」と問いかけています。今日のローズンゲンの言葉には反映されていませんが、同じ節の続く部分で、神は祭司たちに向かって「私の名を軽んじる祭司たちよ」と呼び、祭司たちは「私たちはどのように御名を軽んじましたか」と答えています。つまり、祭司たちにとっては、まさか自分たちが神を軽んじていることなどないだろうという意識のなかで、神にそのような言葉をもって、本当に尊敬をしているのだろうかと問いかけられているのです。
 
尊敬と日本語で訳されている言葉ですが、原語のヘブライ語では重さを示す意味として用いられています。つまり、尊敬とは重きを置くこと、重んじていること、重要なものとして取り扱うことを意味します。ですから、神は祭司たちに対して、本当に自分のことを自分自身の生活のなかで、重要な存在として位置付けているだろうかと問いかけているわけです。ですから、その対義語としての「軽んじる」という言葉が成立するのです。重要なという意味ではなく、大して重要な存在ではないということを、無意識のうちに祭司たちは示していたのでしょう。
 
この「無意識のうちに」ということがポイントなのだと私は受け止めたいのです。祈ること、聖書の言葉に聴くこと、賛美をすること、礼拝に出席することなどなど、そのどれもが大切なことですし、その行為をすること自体立派なことなのだと思います。しかし、心はどこにあるのだろうか。私たち一人ひとりの言動というものが、神が私たちとともにおられるということを重要なもの、大切なこととして受け止めてそいうことがなされているのだろうかと、じっくりと黙想することこそが、今日のマラキ書から得ることのできるメッセージなのだと私は思ったのです。
 
御名を軽んじるとは、神は私たちとともにおられるという神のお名前の指し示す意味を軽んじるということです。そして、神の御名に示された意味が具体的に、今日の新約聖書の言葉にもあるように、慈しみと慰めというかたちをもって、今日一日の私たちの生活を支えてくださるのだと是非受け止め、受け入れることができるのです。ここにこそ、神が与える幸いというものが、皆さんの一日を活かしてくださるのです。
 
どうか今日一日を生きる私たちの心が、神に重きを置くそのような思いへと導かれますように。そのような私たちを神が今日も祝福してくださいますように。お祈りします。

01/04/2025

2025.4.1(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編146編7節
主は
虐げられている人のために裁きを行い
飢えた人にパンを与える。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二9章10節
蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたに種を備えて、それを増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節24日目を迎えました。そして、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「パンを与えられる神」であると私は受け止めました。パンとはなにか、そのことについて綴ってみたいと思います。
 
私たちの命をつなぐ食物でも主食となるものを、聖書では「パン」という言葉で表現しました。主食ですから、最も大切なものであると同時に、ありふれたもの、手に入りやすいものとも考えることができるでしょう。ただ、私たちはありふれたものであればあるほど、それが「本当に大切なもの」としてどれだけそれをみなすことができるだろうか、とも思わされるのです。
 
昨年、日本では主食であるコメが高騰したことがありました。それは今でも続いているわけですが、いざ当たり前のものが無くなるのが分かると、何となく私たちの心が騒ぎ、ちょっとした騒動から社会問題となることを経験からよく知っています。本当に大切なものは何かということを、常日頃から意識しておくことは本当に大切なことなのだと痛感させられます。いざそれが欠乏してあたふたすることのないようにです。
 
今日の新約聖書の言葉は、私たちにとって最も大切なものであるパンを通して、神は私たちに義の実というものを増し加えてくださると伝えています。義とは神の正しさのことであり、私たちが日ごろから最も大切なものを大切なものとして受け取り続けていくうなかで、神の正しさというものを自らのなかで増し加えることができるというのです。
 
神の正しさは、聖書を通して与えられる神の言葉の本質によって明らかにされます。それを私たちが理解しようとするときに、聖霊はそのために大きな助けとなって私たちの心を促してくださいます。神の正しさによって生きようとするときに、神は私たちにパンを与えてくださるように、ごくごくありふれたものから宝を生み出す力というものを私たちに分からせてくださるために、私たち一人ひとりに働きかけてくださいます。
 
たとえ、大切なものに事欠いてしまい、飢えや虐げられるような感覚に陥ったときにでも、いや、そういう時だからこそ、神は私たちにパンを惜しみなく与えてくださる。そういうことを通しても、私たちは本当に大切なものが何なのかに気付くことすらできるのです。今日の旧約聖書の言葉が物語るエッセンスと言ってもよいでしょう。神の裁きを通して、神の正しさが私たちに慈しみと憐れみをもって私たちに応えてくださるというのですから。
 
今日も神の言葉というパンが私たちに与えられました。このパンが私たちの霊的な、そして精神的な命を健やかに保たせてくださることを喜ぶことができますように。皆さんの一日のためにお祈りします。