くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編103編6節
主は虐げられているすべての者のために
正義と公正を行う。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙4章17節
だから、なすべき善を知りながら行わないなら、それはその人の罪です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
******
皆さん、おはようございます。
四旬節29日目を迎えました。そして、今週もウィークデイが始まりました。どんなことがこの一週間にやってくるのでしょうか。神が私たちのためになしてくださることに期待しつつ、今日のローズンゲンに示された御言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
今日の新約聖書の言葉はヤコブの手紙の一節でした。ヤコブの手紙は一般的には「行い」の重要性について各所で言及されている手紙として知られているわけですが、プロテスタント教会では「信仰」こそ大切であるということを強調するがゆえに、行為についてはわきに追いやられてきたという歴史がこれまでありました。
しかし、宗教改革者ルターでさえも、実は行いの重要性を説いている訳であって、なにも行為を否定したわけではありませんでした。ルターは、自分自身の行いが「何に基づいているか」ということを見極める大切さを宗教改革の中心にしたと言って間違いありません。
そのことを踏まえて、今日のヤコブ書の言葉に目を向けるならば、それは「善」であるとこの手紙には書かれていることが分かります。では善とは何でしょうか。それが、今日の旧約聖書の言葉で言及されている「正義と公正」であると言えるでしょう。
神である主ヤハウェは、私たちのためにご自分の正義と公正を行われるというのが、今日の旧約聖書の言葉である詩編の一節です。正義と公正という言葉は、旧約聖書ではしばしば登場するワードです。聖書原語であるヘブライ語ではツェダカー(正義)とミシュパート(公正)と言います。つまり、正義が神御自身の土台にあるからこそ、神はご自分の正義をもって私たち人間を過不足なく取り扱ってくださる。それが今日のヤコブ書で言われている「善」そのものなのです。
つまり、今日のヤコブ書のなかで「なすべき善と知りながら」という言葉は、私たちがなすべき行動の土台が、神のツェダカーとミシュパートであることを知っているならばと置き換えることができるのです。もっと分かりやすく言えば、神が善い御方であることが自分の生活の土台にすることを大切にして、主と手をつないで歩もうと思うことがなければ、という言い方でも表現できるのではないかと思うのです。
そして、そうでなければ「それはその人の罪です」というヤコブ書の続く部分に注目すれば、ここで言う罪とは「神とともに歩めない状態」のことを指すわけです。何か悪いことを行うことによって生み出される罪というよりは、神と乖離した状態のことをこの手紙は私たちにつたえているのではないだろうか。そんな風に受け止めたいと思ったのです。
私たちの罪のためにイエスは十字架にかかられたという、レントの時だからこそ考える命題は、神と手をつなぎえない私たちの状態がこれ以上続かないために、イエスがご自分の命をもってそのかすがいとなってくださったことを想い起こす絶好の機会なのだと思います。このことが土台となってこそ、私たちの生き方というものも問われていくのでしょう。
この平日の数日間の先駆けとなる今日の一日に、神がともにいてくださることゆえの幸いを気づく思いを神が豊かに与えてくださいますように。主にある平安と祝福をお祈りします。