30/04/2025

2025.4.30(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
歴代誌上29章11節
主よ、偉大さ、力、誉れ、輝き、威厳はあなたのもの。まことに、天と地にあるすべてのものはあなたのもの。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙1章9~10節
神は御心の秘義を私たちに知らせてくださいました。これは、前もってご自身でお決めになっていた御心によるものであって、時が満ちるというご計画のためです。それは、天にあるものも地にあるものも、あらゆるものが、キリストのもとに一つにまとめられることです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんこんにちは。救い主イエスの復活から数えて11日目を迎えました。今日もローズンゲンに示された聖書の言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。今日のふたつの聖句に共通して登場するキーワードは「天にあるものも、地にあるものも」という言葉です。天地万物、また森羅万象という言葉でも表現できるかもしれません。
 
聖書では、これら天地万物は神によって御子とともに創造されたことが記されているのは皆さんもご存知の通りだと思います。まさに創造主である私たちの神が、すべてのものを治めたもう御方であることを、私たちは信仰としていただき、そして受け止めています。しかし、この万象に対して神がどのような思いを抱いているか、私たちはそのすべてを知り尽くすことはできません。ある程度の想像はできても、私たちの限界をはるかに超えたところに、神の御心というものが働いているということを、私たちは理解したいのです。
 
今日の新約聖書であるエフェソの信徒への手紙では、そのことを「秘儀」という言葉で表現しています。新約聖書の原典には「ミュステリオン」というギリシア語が用いられています。ミステリーの語源となった言葉であって、まさに謎に満ちあふれているのが神の御心なのです。
 
私は神の御心は神が私たちのわかるような仕方で明らかにしてくださらない限り、それを明確に知ることはできません。そしてその多くは結果とともに後付けで知らされるのです。ですから、自分自身が想像したり願っていたことが神の思いと合致することもあれば、そうでない場合も多々あるのです。大切なことはそのように導き出された神の御心の結果というものを、私たちがいかに神の御心と心を直くして受け止めることができるかどうかということなのだと私は思うのです。
 
その神の秘儀は、自らの御子を私たちのもとに降して、まことの人間として生きてその身を私たちのためにささげ、その後死者のなかから復活させることによって、神が与えられた命の回復というものを私たちに希望として与えてくださったことで明らかにされました。復活という私たちの生きる世界では限界のある出来事を、神はまさにミステリーとして私たちに与えてくださったところに、すべてを治めたもう神の権威というものが私たちを照らしてくださるのです。
 
ですから、このことを私たち人間が神の威を利用してひけらかすようなことは、神の秘儀というものを弱め、損なわせてしまうものなのだと私は思えてなりません。あくまで神の御前にへりくだりながらも、神から与えられた希望によって歩む者でありたい。これが私が今日受け止めたいと思った黙想でした。
 
今日も午後を迎えました。皆さんの今日の残りの時に、神の守りと祝福がゆたかにありますように。お祈りします。

29/04/2025

2025.4.29(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言14章21節
友を侮る者は罪人。
苦しむ者を憐れむ人は幸い。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書17章10節
自分に命じられたことをみな果たしたら、『私どもは役に立たない僕です。すべきことをしたにすぎません』と言いなさい。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんこんにちは。救い主イエスの復活から数えて10日目を迎えました。世の中ではゴールデンウィークの前半初日のところも多いと思います。私自身は午前中はゆっくりと休んで、午後からいろいろと動き出しています。黙想をお届けするのもこの時間となってしまいました。もう一日も半分を過ぎてしまっていますが、ローズンゲンを通して与えられた今日の聖句を通して、黙想をつづってみたいと思います。
 
今日黙想したいと思ったのは「自分に命じられている務めとはいったいなんだろうか」ということについてです。「使命」という言葉でも言い換えることができるかもしれません。神は私にどのような使命を与えておられるのだろうか。そんなことを考えるとき、私は神の思いをすべて知ることはできませんから、使命であると思い違いをして実はとんでもないことをしているのかもしれません。だからこそ、使命というものについてじっくりと考えることは、本当に大切な営みなのだと感じさせらます。
 
今日の新約聖書の言葉であるルカによる福音書17章の一節にあるこの言葉は、主人と奴隷の関係性を通して、奴隷に与えられた務めとはいったいなにかについてイエスが語っておられる箇所です。奴隷として当たり前のことを当たり前のように自分の使命と受け止める奴隷の姿を通してどのようなメッセージを聴くことができるのでしょうか。
 
奴隷の務めとは、主人を労働で支えることです。イエスはこの関係性を通して、神と私たちの関係性について問おうとしているのですが、これは読み方によっては危険な香りを漂わせる可能性のある言葉であると私は思いました。しばしばリーダーの立場である聖職者や教職者、信徒リーダーと言われる人たちがこの言葉をはき違えて、教会メンバーや家族などを信仰という名のもとに奴隷のように扱う事例が散見されます。これは明らかに聖書の誤用と言えるでしょう。
 
そうではなく、私たちは神との関わりのなかで、神が期待しておられることを当たり前のように行うという姿勢、行いたいと心から願う姿勢こそが大切なのだと思うのです。では、その姿勢の根幹にあるものとは何か。それが今日の箴言の言葉に記されているものであると私は受け止めました。それが「友を侮らないこと、苦しむ者に神の憐れみをもって接する」ことであると。
 
ここで「侮る」と訳されているヘブライ語は「ブーズ」と呼ばれる言葉ですが、相手に対して役に立たない者、取るに足らない者として軽蔑し、公然と侮辱するという意味が含まれています。友、つまり隣人に対してそのような侮辱を働く者は、神を愛し隣人を愛するという神が与えた最大の掟を踏みにじり、神に背を向けて歩むという「罪」を背負う者となることを示しているのです。そうではなく、神の憐れみを受けた者であることを受け止めつつ、その憐れみが人々に向けて働くように祈り、そして生きるこそ神が与えられた使命なのだと私は受け止めたいと思ったのです。
 
誰が何と言おうとも、そのことで侮辱するようなことがあったとしても、軽蔑や侮辱で好戦的に応ずるくらいならば、神が与えられた使命に生きようとすることのほうがずっと幸いなのだと。そんなことを望みつつ、時を過ごすことができますように。皆さんのすべてに神の祝福をお祈りします。

28/04/2025

2025.4.28(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編38編23節
急いで私を助けに来てください。
わが主、わが救いよ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書18章40~43節
イエスは盲人にお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、また見えるようになることです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神を崇めながらイエスに従って行った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。救い主イエスの復活から数えて9日目の朝を迎えました。今日もローズンゲンに示された神の御言葉に聴きたいと思います。
 
今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐキーワードは「救い」です。いみじくも今は復活節の時ですから、私たちのために命の救い主となられたイエスの何が私たちにとっての救いなのかということを、じっくりと思い巡らすのにはとてもふさわしい時なのかもしれません。
 
私たちは救いという言葉をどのように用いているでしょうか。イエス・キリストという信仰をいただいて、その信仰を公に告白して、恵みのしるしとしての洗礼を受けたときに、私たちはしばしば「私は救われました」ということを言うことがあります。それは私たちの命が救われたことを意味しており、具体的には神との断絶状態が回復されることによって、究極的な死と滅びから解放されたことを指しています。つまり、キリスト教的救いとは、命と対極にある死を意識して用いられている言葉であることが理解できるのです。
 
つまり、死からの解放、具体的には不安と恐れからの解放はすべて救いへと直結するものなのだと私たちは受け止めることができます。そのことを考えれば、視覚が失われた状態、光も視界も遮られた状態は「死」を意識してもおかしくないものなのだと思うのです。ただ、そのような環境のなかで、私たちは心の視覚や視界というものは回復することは十分に可能なのだと思うのです。
 
最近、SNSで後天性の眼病によって全盲になられた女性のチャンネルをよく観ることがあります。浅井純子さんという方で、自らを「全盲おばさんじゅんじゅん」と名乗って、全盲だからこそいろんなことにチャレンジできるのだとすべてを前向きにとらえて生きている姿を動画で公開しているというものです。
 
私はこの純子さんがクリスチャンかどうかは知りませんが、物理的にモノを見ることができなかったとしても、心の視覚は十分に持つことは可能なのだということをつくづく感じさせられるなかで、ましてや主イエスの復活の出来事を知る私たちならば、いくらでも心の視覚、心の視野というものを広げるチャンスはいくらでもあると思ったのです。もちろん復活の主の助けなしにはそれはできないのですが。
 
だからこそ、今日の旧約聖書の言葉にもあるように、助けてくださいと神に懇願することができるし、大いなる助けをいただいて、心の眼を大切に守っていきたいと思ったのです。そのような思いをもって、今日の一日を生きることができますように。皆さんの主にある守りと祝福を心からお祈りします。

27/04/2025

2025.4.27(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編116編1節
私は主を愛する。
主は嘆き祈る私の声を聞いてくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書18章26~27節
一万タラントン借金している家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返ししますから』と懇願した。家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、借金を帳消しにしてやった。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。救い主イエスの復活から数えて8日目の朝を迎えました。世界中の教会や集会で行われる主の日の祝祭に、神の喜びと祝福が豊かにありますように、心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「神は私たちの懇願を聞いてくださる」であると私は受け止めました。神はご自分の民が幸せに生きることができるように、ご自分の御心を私たちに示され、私たちにその御心に従って私たちの懇願に返答される方なのだということを、これらの聖句は私たちに伝えようとしています。
 
しかし、私たちはなんでもかんでも懇願すれば、それを神が全面的に受け入れてくださるのかと言えば、そんなことは絶対にないのです。神がご自分の御心によって人間が健やかに生きることを願っておられるわけですから、私たちもまた神の御心に示されたその意味というものを理解したうえで、神に願うことが本当に大切なのだと思わされます。
 
今日の新約聖書の言葉は、返済不能な天文学的な額の借金をした家来の話の一節です。1タラントンとは20年分の年収に相当する金額を示す単位ですので、10,000タラントンと言えば20万年分の収入と言うことになります。仮に1日1万円の収入だとすれば6,000億円ということになります。そんな額を返済できるわけがありません。
 
しかし、この家来の懇願に対して主人は借金を帳消しにします。これが神の人間に対する御心に他なりません。人間がこれまで背負ってきたさまざまなしがらみから解放すべく、イエス・キリストの命の犠牲と復活によって、その負債を清算された神がおられるのだ。まさにそのことを私たちに神はご自分の心としてお示しになられました。
 
この神の御心を、私たちはどれだけ理解しているのだろうかということを問いたいのです。というのも、この話には続きがあります。借金から解放されたこの家来は、自分に100デナリオン(約3か月分の収入に相当する額)の借金をしている仲間に返済を迫り、返済できないのを知るとその仲間を牢に入れてしまいます。この家来は、神の御心を全然理解しませんでした。だから彼は借金の帳消しが取り消されて、以前の状態以上に苦しまなければならなくなりました。
 
私たちは神の御心を理解しようとせずに、神にあれこれ自分の欲求の赴くままに要求をしてはいないだろうか。神が私たちのためになしてくださっていることを調子のよい時は礼賛しながらも、いざ自分自身に不都合がことが起きればすべて忘れてしまったかのように恨み節をこぼしていないだろうか。それを神に向けるように隣人にもぶつけてはいないだろうか。そんなことをいろいろと問わされるのです。
 
神の御心を理解することは、神がイエス・キリストを通して私たちに復活のいのちを与えるまでに憐れみを示された方であることへの深い理解へとつながっていくということを、復活節の期節を生きる者として、もう一度想い起こしながら今日の一日を過ごしていきたいと心から願わされた次第です。どうぞ皆さんの一日にも、神の御心が豊かに働きますように。それを理解する心を与えてくださる神に感謝しつつ、一日を過ごすことができますように。お祈りします。

26/04/2025

2025.4.26(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
コヘレトの言葉5章9節
銀を愛する者は銀に満足することがなく
財産を愛する者は利益に満足しない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一6章7~8節
私たちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、私たちはそれで満足すべきです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。救い主イエスの復活後6日目の朝を迎えました。主のご復活を祝うイースターから始まった一週間も、早いもので今日が最終日です。世の中でははやいところで今日からゴールデンウィークが始まりました。春を存分に楽しむことができるなかで、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉を目にして、一瞬「ドキッ!」としたのは私だけでしょうか。今日の聖句で言わんとされているのは「私たちは何を大切にすることができるのか」という問いであると私は受け止めました。
 
今日の旧約聖書はコヘレトの言葉の一節です。何かに飽き足りることのない人間の姿とうものについて、リアルに描写されているひと言であると私は思いました。どんなに財産を持ったとしても、それが人間の満足度を充足させるものとはならないのだ。財産を持ったらその財産をもっと増やしたい、もっと、もっとと、人間はさらに上を向いて何かを満たそうと躍起になって頑張ろうとする。この世のなかではそのことを推奨しますし、教会の世界のなかでもそのことが盛んに叫ばれることもあったりするのです。
 
もちろん、何かが増やされていくこと自体何も悪いことではありませんし、それを神の祝福の結果と見る向きももちろんあるでしょう。しかし、ここで言わんとされているのは、果たしてそれが私たちの心の満足感につながっているだろうか、ということです。何かが多く増やされているから満足できるのでしょうか。物の大小や多少で物事の価値基準を決めるというものは、今日のコヘレトの言葉からすれば違うと断言できるのです。多いことは悪いことではないけれど、多いからと言ってそれが絶対的な満足感には必ずしも直結しない、ということなのです。
 
大切なことは、多かれ少なかれ、それが神の喜びであることに変わらないというこの価値観に、私たちがどれだけアーメンと呼応できるかということなのでしょう。ですから、この言葉はいたずらな「清貧」を推奨するものではないと私は考えたいのです。今日の新約聖書の言葉は、どうせ財産なんて死の向こうまで持っていくことはできないのだから、衣食があればそれに満足しようじゃないかと読むことのできる聖句ですが、だからと言って、それは最低限の生活を「しなければならない」と読むならば、それは極論であると私は思うのです。多少の多のほうを価値基準とすることが極論ならば、少ないことばかりを礼賛するような向きも同じ価値基準から来ているということなのです。
 
繰り返しますが、大切なのは私たちの命をはじめ、私たちの命を支えるあらゆるものは、神が与えてくださったものであるということなのです。多少ばかりにこだわる世界があるからこそ、人間による過剰な搾取が起きるのではないか。私はそのように思えてならないのです。
 
今日の一日もまた、神が与えてくださったものはいったい何かを指折り数えながら、一週間の歩みを振り返ることができますように。皆さんの主にある一日の祝福のためにお祈りします。

25/04/2025

2025.4.25(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
サムエル記上7章8節
イスラエルの人々はサムエルに言った。「どうか黙っておられずに、ペリシテ人の手から救ってくださるよう、我々の神、主に叫んでください。」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙1章19節
あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の支えとによって、このことが私の救いとなることを知っているからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。救い主イエスの復活後5日目の朝を迎えました。今日も神が与えてくださった言葉によって、私たちの心が整えられることを期待しながら、聞いてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「とりなしの祈り」であると私は受け止めました。代祷とも言われる通り、誰かのために、誰かの幸せを願って祈るのがとりなしの祈りです。私たちは自分のためにだけでなく、誰かのために祈るということによって、神がその祈りをきいてくださったということを、これまで経験されたことがあるのではないかと思います。
 
そもそもとりなしの祈りとは、民たちの祭司や王が行うべき仕事であったことが今日の旧約聖書の言葉からわかります。イスラエルの民が指導者サムエルに対して敵から自分たちが守られるようにと祈ってくださいと懇願されているのが、今日の聖書箇所です。政治的指導者が神から委ねられている民たちのために祈ることもまた、神から委ねられた務めなのだと私は思わされました。
 
私自身、この街に住む牧師として、街とそこに住む方々の安寧のために祈ることを怠っていないだろうか。そんなことを確認させられます。教会のために、また教会の人々のために祈ることはもちろん大切な営みであることに間違いありませんが、この土地に教会が建てられているということは、この地域のために神に祈り続けるということもまた、決して欠かしてはいけないことなのだとあらためて確認することができました。
 
イスラエルの民たちの懇願に、サムエルは神に祈ったことを神は全面的に受け入れてくださいました。神が敵からご自分の民たちを守り、民たちには平和が訪れました。しかし、それは別にサムエルの功績でも何でもありませんでしたが、サムエルが神から預かっている宝を大切に守り続けるためには、神の助けがどうしても必要であると判断した結果のことだったのです。私たちも神に祈る時に、義務感で祈るのではなく、神が私たちのためになしてくださっていることはいったい何なのだろうかとイメージするなかで、そのような祈りに導かれたいと思うのです。
 
誰かのために祈ることは、それすなわち神がなさることへの深い信頼ゆえに起こされるものである。そんなことを胸にしつつ、新しい一日の営みへと出ていくことができますように。皆さんのためにとりなしお祈りします。

24/04/2025

2025.4.24(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編13編6節
私の心はあなたの救いに喜び躍ります。
主が私に報いてくださった」と。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書7章37節
人々はすっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。救い主イエスの復活後4日目の朝を迎えました。今週はなかなか黙想をブログに打ち込む時間を取ることができず、一日おきの配信となってしまっています。楽しみにしてくださる皆さまには、本当に申し訳ありません。
 
特に何があったというわけではないのですが、ときに心が沈むことがあります。そういう時は耳にイヤホンをして散歩に出るようにします。風景をながめながら、スマホからイヤホンを通して音楽を聞いたり、聖書アプリに耳を傾けたりします。身体も適度に動くので、気持ちも紛れてとても清々しい気持ちにさせられるのです。昨晩がそうでした。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私の心に響いたのは、イエスが人の耳と口を開いたという癒しの記事です。「耳と口を開く」とはどういうことかを、あらためて黙想させられました。文字通り聴力が回復し、それによって話すということが可能となる(もちろん聴力に難があっても話をすることができる方を知っていますが、そのようなトレーニングを受けていないと発声によって話すのはやはり難しいということを聞いたことがあります)という話ですが、私自身もまた「耳や口が閉ざされている状態」というものを往々にして経験しているのではないかと思わされたのです。
 
気が沈んでいるときなんかは、よくそのような状態になるのだと痛感します。意気消沈していると、自分の殻に閉じこもって外部からのアプローチをすべてシャットアウトしてしまうのです。もちろん独りになって自分を見つめる作業というものはとても大切であるとは思いますが、そういう時に孤高の存在、悲劇の主人公のように自分自身を仕立ててしまい、神からの語りかけすら跳ねのけてしまいそうな自分自身に気付かれることがあるのです。
 
こういうときに、どうして神はご自分の言葉を私たちに授けられたのかということを考えます。それは私の心を開き、耳と口を開くためなのだということを今日の聖書の言葉を通じて再確認することができたと思っています。私は決して孤独でなく、孤高にならなくとも神がいつもご自分の言葉をもって語り掛けてくださるではないか。この語りかけに、私は胸躍らされたい。気が沈むなかでも一筋の光を照らし続けてくださる神が、今日も私を生かしてくださるのだ。そんなことを一日を生きる希望の柱にしたい、そのように思わされたのです。
 
心の耳が開かれて、神がともにおられることが幸いだと心から告白できるような一日が、気持ちを穏やかにさせ平和へと導かれていく。そんなことを想いつつ、今日を過ごすことができますように。皆さんの救い主にある守りと祝福を心からお祈りします。

22/04/2025

2025.4.22(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書53章6節
私たちは皆、羊の群れのようにさまよい
それぞれ自らの道に向かって行った。
その私たちすべての過ちを
主は彼に負わせられた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一2章24節
キリストは自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。救い主イエスの復活後2日目の朝を迎えました。イースターの時から、私たちは救い主が復活されたことの意味を考える期節を過ごします。今年2025年は主の昇天日が5月29日、その10日後の6月8日に聖霊降臨祭(ペンテコステ)を迎えます。この50日間における復活のイエスと弟子たちの物語に、御言葉を通して聴くことができますようにと祈りつつ、今日ローズンゲンに示されたふたつの御言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日の聖句、特に旧約聖書の言葉を通して私が受け止めたいと思ったのは「自由の誤用」というものでした。私たちにとって自由とはいったい何だろうかということをあらためて考えさせられたのです。
 
今から30年以上前、私が高校生のときに「自由には責任がともなう」という言葉があることを知りました。自由を愛し、それを謳歌する以上、その自由によって生じた果実というものを負う責任が自分自身に問われているのだ。そういうことを教わったのです。この言葉を聞いた時には気づかなかったのですが、時が過ぎるとともに、それは聖書が私たちに伝えようとしている事と相通じるのだと思わされたのです。
 
自由の結果を処理するだけの責任が、私たち人間に取ることができるのだろうか。残念ながら、自由をそれぞれの思いで味わうことができたとしても、責任を取ることができなかったというのが人間の歴史であると私は思っています。「自分なり」の自由を味わう代償として、自他ともに多くの犠牲が生じました。この犠牲に対して誰も責任を取ることができないのです。自分も含めて、自由の誤用というのはまさに責任を取ることのできない姿そのものを指すのだと思うのです。
 
では何か。私たちが負うことのできない責任を一手に負ってくださった方がおられた。それが、今日の旧約聖書の言葉であるイザヤ書53章に描かれている「苦難の僕」であり、今日の新約聖書の言葉である第一ペトロ書に描かれたキリスト・イエスその御方なのだと。私たちが無責任に負うことのできなかったすべてを負われたイエス・キリストによって、私たちは再生への道、癒しの道が与えられました。それが、イースターの喜びとともに始まったことをあらためて、今日の聖句を通して感じ、また受け止めることができました。
 
今日もキリストの復活のいのちによって私たちが活かされる。そんな神の正しさに込められた幸いを胸に刻みながら、神とともに歩むことができますように。心からお祈りします。

20/04/2025

2025.4.20(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
列王記下19章14節
ヒゼキヤはこの手紙を読むと、主の神殿に上った。ヒゼキヤはそれを主の前に広げた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書9章28節
イエスは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。そして、救い主の御復活をお祝いするイースターの時を私たちは迎えることができました。苦しみが苦しみのままでは終わらないことを、イエスは死者のなかから復活された命をもって、私たちに示してくださいました。死という私たちの限界は、神にとっては決して限界などではなく、私たちに再生の希望をもって永遠というものの意味を知らせてくださいました。
 
私たちの限界を超えられる神。これがローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私たちに伝えられたメッセージであると私は受け止めました。今日の旧約聖書の言葉は、前後の言葉も含めて読まないと分かりにくいかもしれません。もしお時間があればお読みくだされば幸いです。南イスラエル(ユダ)王国、ヒゼキヤ王の時代のことです。決して強大とは言えないこの国に、北の国アッシリアからの攻撃が及ぼうとしていました。
 
周りは言います。神なんかに頼っている場合かと。だからこそ、ヒゼキヤ王はその忠告がしたためられた手紙をどうしたかというと、神殿へ携えて神の御前で開いたのでした。自分自身で政治的な判断をする際に、必ず神の御前でヒゼキヤ王はすべての限界を超えられる神の御心に聴こうとした。ここにヒゼキヤ王が後々名君とうたわれたゆえんがあります。神はヒゼキヤ王の願いに応えられました。アッシリア軍は都エルサレムに攻め入る前に壊滅したのでした。とても勝ち目のない戦いでも、それが神にとって本当に大切なことならば、私たち人間が手をくださなくてもそのようになるのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスが3人の弟子たちを連れて祈るために山に登ったという箇所です。この後イエスは弟子たちに幻を見せて、まばゆく輝くなかでモーセ、エリヤとともに語り合う、そこに神の宣言がなされるという、いわゆる「主の変容」と呼ばれるシーンが訪れます。しかし、このシーンはその前段こそが大切なのであって、その前段とは主イエスによる受難と復活の予告でした。多くの者のあざけりを受けて殺されることになるが、三日の後に復活するという、イエスによる宣言です。
 
いわゆる「受難予告」と呼ばれるイエスの言葉を、弟子たちはなかなか受け入れることができませんでした。そんなことがあるわけないと最後の最後まで否定し続けました。イエスが復活された朝でさえも、墓からイエスの身体が取り去られたと思い、そこに復活の出来事などがあったとにわかに信じがたい弟子たちの姿がありました。しかし、イエスは確かに復活されたのです!死という私たちの限界を超越される神が、イエスの復活というものを私たちの目前に見せてくださることによって、限界を超えられる神が確かに私たちとともにおられることを明らかにしたのでした。
 
この神が、今日私たちをイースターの喜びへと導いてくださいます。世界中で行われるイースターの祝祭に、喜びと祝福があふれんばかりに注がれますように。お祈りします。

19/04/2025

2025.4.19(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書61章1~2節
主が私を遣わされた。
主の恵みの年と
私たちの神の報復の日とを告げるために。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書23章43節
するとイエスは、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節最終日を迎えました。ご受難のあとに墓に収められたイエスの姿はもはや、見える形で私たちの前に現れることはないと誰もが思いました。イエスはご自身の復活を予告しておられましたが、イエスの死という現実を前に、ショックのあまりそんな予告などどこかに忘れされられてしまったかのような「闇」がありました。空虚がありました。信仰の先達たちは、その状況を「黒」という色で表現しました。暗黒に満ちあふれた虚無の世界。今日のことを「黒の土曜日」といつしか呼ばれるようになったのは、こういうイメージからなのでしょう。
 
しかし、それは神が与えてくださる良いもの。つまり「恵み」への序章に過ぎなかったのです。暗闇のなか、すべてが混とんとした状況のなかで、神が「光あれ」と叫ばれることで、創造のみ業が開始されたように、ここから新しい物語が始まるその前段にあるものは、何もない、ただ闇がすべてを覆うだけの状況でした。しかし、それは夢も希望もない姿では決してなかったのです。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句。そのうち新約聖書のことばは、ゴルゴダの丘で十字架刑にされてただ死を待つのみのイエスとふたりの犯罪人のあいだで語られた言葉の一節です。もはや希望を見いだすことのできない犯罪人に対して、イエスが言われたのは神が与えてくださるパラダイスの希望についてでした。死が死のままで終わらない。むしろここから神が復活への物語を私たちに与えてくださるのだと。それを、私たち人間が強制終了させてしまってはならないのです。夢もない、希望もないということを流布するのは、これから何かを始めようとされる神の御心を踏みにじってしまうことなのだと、私は自戒を込めてあらためて思わされたのでした。
 
どうして神である主ヤハウェは、救いの主を私たちに遣わされたのでしょうか。イエスの時代から遠く昔、預言者を通して語られたのが今日の旧約聖書の言葉です。恵みの年を伝えるためです。死という恐怖にがんじがらめにされた私たちに対して、死に対する報復を神は行うために、救い主イエスを私たちに遣わされました。明日はいよいよ復活祭がやってきます。曙とともにいのちの希望が再来する。そんな望みを胸にしつつ、今日の一日を過ごすことができますように。皆さんのためにも、私のためにも祈りたいと思います。

18/04/2025

2025.4.18(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書9章5節
その名は「驚くべき指導者、力ある神
永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二5章19節
つまり、神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節39日目を迎えました。そして、昨夕から始まった受難の長い一日の朝を迎えました。夜が明けるこの頃、うらみとねたみに満ちあふれた宗教裁判から、イエスがローマ総督に引き渡された風景があったことを私たちは思い起こすことができるでしょう。十字架への道をただ進み行くイエスの負われたあまりにも大きな犠牲の道です。この道を一日の歩みとして、私たちもまた歩もうとしています。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のうち、新約聖書の言葉として選ばれたのは第二コリント書の一節でした。和解という言葉がキーワードとされています。和解とは何かということをあらためて考えさせられます。本来、和解というのは「歩み寄り」がなければ成立しない言葉です。どちらか一方が和解の手を差し伸べたとしても、もう一方に和解する気持ちがなければ、絶対的に和解など無理なのだと私は思うのです。
 
歩み寄りをしようという気持ちよりも、自分自身の正しさが先に立ってしまうのです。その正しさを自己主張すればするほど、和解などという言葉はとても空しいものとなることを私たちはよく知っています。表向きに和解したように見えたとしても、それが傷となって残り続けるくらいならば、和解できない自分自身の姿を認めたほうがどれだけ楽だろうか。私はそんな風にも思えてしまうのです。それは決して「開き直り」ではなく、いかに人間というものは心かたくなにして生きてしまう存在なのだろうかという痛感そのものなのです。
 
この痛感こそ私たちの痛みなのです。苦痛を抱えながらも、その苦痛から逃れたくても、それが自分自身の心から取って離さない自分自身の姿なのです。そんな自分自身がどうして、神に向かって和解を申し出ることができるのでしょうか。どんなに美辞麗句を並べて神を賛美し、威勢の良い祈りの言葉を立て並べても、それは実に空しいものとなるのです。
 
だからこそ、和解を差し伸べて下さった神がおられたという事実が大切なのだと。私たちに犠牲のいけにえを差し出してくださった神が、私たちにできない歩み寄りに先んじて自ら私たちの前に進み出てくださったのです。何も悪くない神がです。私たちの痛感のすべてを十字架に引っさげたイエスが、私たちの前に歩み寄りのきっかけを与えてくださったのです。
 
それは平和のためです。平和のために他者を傷つけるのではなく、自ら傷つけた実にクレイジーな驚きが私たちに迫ってくるのです。この圧倒された神の思いに、私は今何をもって応えることができるのでしょうか。神に私自身の頑迷さと、その責任すら負うことのできないみじめな姿をこの時にこそさらけ出したいのです。すでに和解の言葉を携えて私たちと平和のうちに生きようとされておられる神がおられるのですから。
 
そのことを心から望みつつ、今日の一日も生きることができますように。お祈りします。

16/04/2025

2025.4.16(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編103編15~17節
人の日々は草のよう。
野の花のように咲くのみ。
風がそこを吹き抜ければ、消えうせ
生えていた場所も、もはやそれを知らない。
しかし、主の慈しみはとこしえまで。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一15章53節
この朽ちるものは朽ちないものを着、この死ぬべきものは死なないものを必ず着ることになるからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節37日目を迎えました。そして受難週4日目の朝を迎えました。
救い主イエスが十字架上で苦しみの極みを味わわれた。しかし、その死を通して神である主ヤハウェが私たちに「永遠」を示してくださるのだ。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったメッセージはこのようなものでした。
 
草草や野の花はやがて枯れ失せてしまう。聖書の書かれた舞台であるイスラエルは、夏の日照りゆえに草花から水気が奪われてしまうという光景を見ることができるのだそうです。命の終わりというものを実感せずにはいられない。そのようななかで、今日の詩編の言葉が歌われたことを想わされます。私たちの住む日本では、冬の寒い季節に木々が枯れてしまう感覚と似ているのかもしれません。夏の暑さも冬の寒さも、私たちひとりひとりには本当にこたえるものなのです。
 
しかし、命の終わりが終わりのままで済むことは決してないのだ。歌い手は永遠に続く「主の慈しみ」に注目します。神がこの地を愛され、その地に生きる私たちをいつくしんでくださる。私たちが生きるためにです。しかし、私たちは誰もが「死」に向かうなかで、そのような状態を避けたいと願いつつも、まるで死を思わせるような断絶を好戦的に自らの心に抱いていないだろうか。そんなことを想わされるのです。
 
誤解を恐れず申し上げれば、私たちは希望を抱いて歩むことよりも、目の前にある苦しみに愛着を抱いてしまう存在なのかもしれません。その愛着から逃れられない自分自身があるのです。苦しみの渦中に自らを置いて、そのなかにただずむ悲劇の主人公に酔いしれ、憐れんでいないだろうか。分かってはいるけれど、そういう状況から抜け出せない、いや抜け出したくない自分自身というものがないだろうかと。
 
しかし、それは私たち人間に対する神の願いではないのだと。イエスの死が死のままでは終わらせず、その命は復活へと向かわせたのは何を隠そう私たちの神なのですから。そのために、イエスが究極的に苦しみを自分のところで終わらせてくださったという事実を、私たちは自ら負う苦しみのなかで、希望をともないながらイエスを見つめていきたいのです。こうして、あらゆる意味での「死」を受容しつつも開き直ることなく、復活への希望に目を向けていきたい。そんなことをあらためて受け止めることができました。
 
ふさぎこみたくなるような現実がある。それを揶揄する世界のなかにあってこそ、そのようなところから視点を変えるだけで、神である主が注いでくださるいつくしみを見ることができるのならば、何と幸せなことだろうか。そんなことを希望の糧として、今日も歩むことができますようにと祈ります。受難週の中日、皆さんの一日に神の守りと平安がありますように。お祈りします。

15/04/2025

2025.4.15(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書8章9節
知恵ある者たちは
主の言葉を退けたのだ。
彼らに何の知恵があろうか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一1章20節
知恵ある者はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節36日目を迎えました。そして受難週3日目の朝を迎えました。
今日もローズンゲンに示されたふたつの聖句から黙想を得たいと思います。
 
知恵とは何か、知識とは何か。これが今日の聖書の言葉を通して私が受け止めたいと思ったテーマです。そして、私がこれらの聖句に触れるたびに、私の痛みとなっているひとつの出来事を思い出すのです。
 
私がかつて所属していたキリスト教系の団体は、高等教育(つまり大学教育)を否定しています。理由はふたつあります。ひとつは世界の終末が近づいているなかにあって、学ぶことに時間を割くべきなのか、そんなことに時間を使うくらいならば、伝道活動にいそしめという理由です。もうひとつの理由は、今日の新約聖書の言葉にもありますように、世の知恵を神は愚かなものとされているという理由です。ここで言う「世の知恵」とは、神を神としない高等教育のことなのだとその団体は主張し、これが聖書の教えなのだと私はかつて教えられました。
 
高校を卒業してからこの春で30年を迎えました。あの頃をことを思い出すと、胸がぎゅっと締め付けられるような感覚になることがあります。その時のことを恨みがましく思っているわけでは決してありません。あの経験があったからこそ、今の幸いがあるのだと思っています。そういう意味では痛みも感謝への重要なスパイスとなっているのだなと感じさせられるのです。
 
私はこの世の知恵というものは、何かを裁断してすっぱりと分けられるものではないと自らの経験を通して感じています。この世界に存在するあらゆる知恵や知識というものは、すべて「世の知恵」なのだと私は思っています。そのうえで大切なことは、それらの知恵を通して何を学ぶか、ということにあるのだと私は受け止めたいのです。
 
例えば、無神論というひとつの考え方を通して、私たちは神の存在というものを知ることができるのではないでしょうか。無神論を学んだからと言って、その学問をどのように受け止め、受け入れるかは学んだもの自身の問題なのです。前述のその団体は、そういった学びには私たちを神から引き離そうとする悪魔の影響があるのだということを主張します。しかし、だからと言って、それを全否定し、その影響から自分自身を100%引き離そうとすることなど、土台無理な話なのです。
 
だからこそ、この世の中にあるあらゆる知恵というものは、私たちは積極的に知るべきなのだと思うのです。大切なのは、知ることを通して、そのことが神がおられる、神が私たちの生きる毎日にどのようなことを教えようとしているのかということをじっくりと黙想することによって、神とともに生きる幸いというものを見い出していくのであれば、無駄な知恵など何ひとつないのだと私は受け止めたいのです。
 
今日のふたつの聖句で言われている「世の知恵」とは、神との関わりを考慮することなく自分自身の欲求に従って、我田引水的にその知恵を用いようとするときに、それが世の知恵という言葉が言わんとしていることになるのでしょう。そんなことを想いつつ、今日も神がご自分の言葉を通して、私たちに幸いを与えてくださいますように。心からお祈りします。 

14/04/2025

2025.4.14(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編33編5節
主の慈しみに地は満ちる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録14章17節
神はご自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天から雨を降らせて実りの季節を与え、あなたがたの心を食物と喜びとで満たしてくださっているのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節35日目を迎えました。そして受難週2日目の朝を迎えました。昨日の晴れ空とは打って変わって、強い雨の降る肌寒い仙台の街です。地をうるおす恵みの雨だと受け止めながら、今日のローズンゲンを開いたら、まさにそういう内容の聖書の言葉が記されていたのでとても驚きました。使徒言行録14章17節に記された御言葉です。
 
 
この御言葉にいたる物語はとても面白いものです。パウロとバルナバがある人の足を癒したところ、その町の祭司や群衆がふたりに対して「神のような扱いをし始めたところに、パウロの告白があったというシーンです。足をいやしたからといって、私はただの人間に過ぎないのだ。この人に、そして私たちに恵みを与えてくださるのは神のほかに誰もいないのだ。パウロはそのように群衆を前にして告白したのでした。
 
見るのは人ではない、その背後におられる神を見よ。これが、今日私が受け止めたいメッセージです。人は見える部分だけで判断する存在ですから、どうしても華々しいものに魅了されてしまうのです。そして過剰に持ち上げ、賞賛し、おべんちゃらを口にすることもあるでしょう。しかし、それは誤解を恐れず申し上げれば単なる「偶像崇拝」に過ぎないのです。
 
大切なのは、華々しくてもみすぼらしくても、その背後におられる神が私たちに慈愛の思いを注いてくださっているということです。私たちはそれを見た目や聞きかじった情報だけで安易に判断してしまうことがあるのです。大切なのは、その人も神から深く愛されているということを自他ともに認め、そのうえでその人の人生が神によって変えられていくかということに尽きるのでしょう。
 
神がその人を変えてくださるときに、その人の内面から漂う良い香りがあるとき、その香気を放たれる神を賛美したい。そんな一日を今日も過ごすことができますように。お祈りします。

13/04/2025

2025.4.13(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
レビ記25章17節
あなたがたの誰も、同胞に損失を与えてはならない。あなたの神を畏れなさい。私は主、あなたがたの神である。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙2章5節
互いに自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払うことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節最後の日曜日を迎えました。私たちは今日から始まる一週間、受難週のときを過ごします。イエスが十字架への道をただただ歩みました。そして、多くの怒りやあざけりを一手にご自分の身に引き受け、孤独のなかでその痛みに耐え抜かれました。このイエスの心を、私たちはどのように受け止めることができるのでしょうか。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して考えてみたいと思います。
 
今日のふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは「自分のことばかり考えるな!」ということでした。もちろん、私たちは自分に与えられた命をどのように用いることができるだろうかということに大きな関心を寄せていますので、自分のことを考えるのはごくごく当たり前のことで、主観をもって生きていくことは本当に大切なのは間違いありません。
 
しかし、自己主張をするばかり、他者の大切な主観まで奪い取ってしまうことがあるとすれば、それは本末転倒なのではないだろうかと私は思うのです。だからこそ、今日の聖句に示されている通り、同胞に損失を与えることがあってはならないし、そのために互いに神から与えられた尊厳というものを十分に考えたうえで、他者に注意を払うことを決して忘れてはならないのだと思うのです。
 
私たちはその点に置いて、バランスの取れた見方というものが求められるのでしょう。他者のために犠牲を払われたイエスが、私たちのいのちの尊厳というものを大切にされたということを心にとどめつつ、自他ともに幸いを味わえるような生き方というものを営みたい。これが今日の聖句を通して私がうけとめたことでした。
 
今日、世界中で行われる主の日の礼拝や集会のすべてが、そのような幸いに包まれたものとなりますように。心からお祈りします。

11/04/2025

2025.4.11(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編145編13節
あなたの王権はとこしえの王権
あなたの統治は代々に。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録5章13節
また私は、天と地、地の下と海にいるすべての造られたもの、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。
「玉座に座っておられる方と小羊に
 賛美、誉れ、栄光、そして力が
 世々限りなくありますように。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節33日目を迎えました。朝起きて書斎に向かうときに、窓の外が明るむのも随分早くなってきました。春の訪れを感じることができて、気持ちの弾む一日の始まりです。そんな思いのなかで、今日も聖書の言葉に心を寄せることができるのを神に感謝しつつ、黙想したいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「神の権威」であると私は受け止めました。そして、 もぅひとつ付け加えるならば「権威と権力は違う」ということです。神は権威をもって私たち人間を扱い、私たちを平和へと導かれる方であるということです。
 
昨年末、地引網出版より一冊の興味深い本が出版されました。『サーバント・リーダーシップの原則ー権力によらないリーダーシップ』という本です。私事ですが、私が働いている日本基督教団東北教区センター・エマオで、今日から「カルトにならない聖書の読み方Ⅲ」が開講されますが、この講座でテキストとして用いるのがこの本です。(もし講座に興味のある方がおられましたら、こちらをクリックしてみてください。講座の案内が表示されます)。
 
そのなかで、「権力と権威の違い」という章があります。社会学者マックス・ヴェーバーによる権力と権威について掲載されていますので、それを簡単にご紹介したいと思います。権力とは「相手の意志とは関係なく、地位や力によって自分の意志どおりのことを強制的に行わせることです。権力に関するヴェーバーの簡単な定義があります。「それをやるんだ!さもないと」です。さもないと、やっつけるぞ、解雇するぞ、どうしてもやらせるぞ、ということです。」(44ページ)。
 
一方、権威とは「権威とはスキルであり、個人的な影響力によってあなたの意向にすすんで従わせることです。権威の定義についてヴェーバーのわかりやすい例示があります。「あなたのためにすすんでそれをやります」と人々が言ってくれるのが権威です。」(45ページ)。もちろん、権威の定義を権力を行使するための隠れ蓑にするならば、それは立派なカルト的な行為に相通じるわけですが、そんなことをしなくても人々が自然にそのように対象に向くならば、権威としての定義を十分に果たしていると言えるでしょう。
 
人間は権威にはなり得ません。人間が権威を帯びようとすると、それはおのずと権力に化してしまうのです。これは有史以来の人間の言動が証明していると言えるでしょう。あくまで権威とは神その方であり、具体的にはそれを私たちに対して目に見えるかたちで体現してくださった救い主イエス・キリストに他ならないのです。今日の聖句は、この前提を物語る人々の神に対する賛美の言葉であると言えるのです。
 
私たちは権威をどのように見ているでしょうか。知らず知らずのうちに権威を権力にすり替えて、自分自身のものにしていないでしょうか。そんなことを自問しながら、神を神とする営みというものを、自分自身大切にしたいとあらためて願わされた朝のひとときを持つことができました。神はご自分の権威をもって私たちを平和へと導かれる。そのことを心に刻みつつ、私たちもまた神にある平和を楽しむことができますように。神の祝福を心から祈ります。

10/04/2025

2025.4.10(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
歴代誌上29章12節
勢いと力は御手にあり、その御手によってあらゆる者を大いなる者、力ある者となさいます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一5章6節
ですから、神の力強い御手の下でへりくだりなさい。そうすれば、しかるべき時に神はあなたがたを高くしてくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節32日目を迎えました。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「神の力強さ」であると私は受け止めました。そのことについて黙想したいと思います。
 
神の力強さが私たちひとりひとりを強くするということが、今日の聖句で語られています。私たちはこの世の中で生きるときに、日々を生き抜くための「強さ」が必要であることを、いろいろな所で叫ばれることがあります。弱さを捨てて強くなれ、そんなことを少なからず言われたことがあるのではないでしょうか?
 
しかし、こういうことが叫ばれるときに、それは単なる「精神論」に過ぎないのではないかと私は思ってしまうのです。確かに強さは必要かもしれません。しかし、強さの「質」というものがどういうところから来るのかということに、私たちは大きな関心を寄せることが必要なのだと感じさせられます。なぜならば、私たちは根本的には「弱さ」を抱えながら生きている存在だからです。
 
今日の聖句ではありませんが、使徒パウロは「弱いときにこそ強い」ということを手紙に書きしたためました。社会的には強さを抱える一面がパウロにはありましたが、彼は内面において、そして身体的には弱さを抱えながら、日々を逡巡しながら歩んでいたことも確かです。だから、パウロは強さを必要としました。それが、今日の聖句にも相通じるわけです。
 
私たち人間が必要とするのは、神の力強さそのものです。神の御手に示された力強さは、その腕力をもって私たちを支え、立たせてくださる力強さです。私たちが倒れそうになってもしっかりとホールドしてくださるというのです。この力強い御手に支えられるからこそ、私たちはどんなに荒波が自分自身を襲ったとしても、安心して神とともに生きるということの幸いというものを教えられ、そのことを自分自身の強さとすることができるのでしょう。
 
誤解を恐れず申し上げれば、私はいわゆる「スポーツ根性論」というものが大嫌いです。神の力強さよりも、自分自身の鍛錬によって強さがつくり出せるものだと思い込んでしまう元となってしまうことがあるからです。このような考え方が弱さというものを端へ追いやって悪しきものに仕立て上げてしまう。今日の聖句から私たちがいただきたいと思うメッセージに逆行してしまうのだと私は思えてならないのです。
 
自分自身の弱さを認めつつもそれに開き直ることなく、だからこそ神の力強い御手のなかで安心して生きることの幸いというものを、今日も味わいたいと願わされました。こうして私たちの一日が、神とともに歩む喜びへと導かれてまいりますように。心からお祈りします。

09/04/2025

2025.4.9(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編34編6節
主を仰ぎ見る人は輝き
辱めに顔を伏せることはない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書13章15節
私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節31日目を迎えました。今朝は少しゆっくりと休んで、少し遅めの黙想をしています。聖書の言葉に耳と心を傾けながら、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。
 
神である主ヤハウェを仰ぎ見る。今日の旧約聖書・詩編の一節です。仰ぎ見るとはどういうことなのかについて考えてみたいと思いました。顔を上にあげて見ることを仰ぎ見るというわけですが、仰ぐという言葉には尊敬の思いをもってという意味もありますので、天におられる私たちの神に対する心からの尊敬の気持ちを抱きながら私たちが生きるところにこそ「仰ぎ見る」という言葉の本質を私たちは見ることができるわけです。
 
私たちは自分の足元を見たり、普段生活している目線の範囲内を見渡したりすることはよくあります。つまずいて転んだり、たがいにぶつかり合うことのないようにするために、見るということを大切にしているのだと思います。しかし、空を見上げること、自分自身の視線を生活目線ではないところに置くということは、やはり意識しない限りなかなか無いことなのだとあらためて思わされるのです。だからこそ、仰ぎ見るという出来事は決して当たり前のことではなく、私たちが心がけて行うことなのだと思うのです。
 
つまり、神である主は私たちのことを常日頃からご覧になられていますが、私たちが神と同じように常に神を見続けるということは、実は簡単なようで難しいことなのだと思うのです。ついつい自分自身のことや周囲の人間関係のほうに関心が向いてしまうと、その時に神の視点、神の視線というものを考えることなく、自分のしたいようにしてしまうのかもしれません。
 
今日の新約聖書の言葉は、十字架にかけられる前夜に弟子たちに対して語られた言葉です。弟子たちのために言葉と行いによって私たちに模範を示されたイエス。そのイエスが弟子たちに自分が示した生き方を模範として、あなたがたも自分たちの生き方としなさい。そのように語られているのです。
 
これは何か決められた形式ではありません。生き方を支える心と視線によってかたちづくられるものなのだと私は思います。その時その場所によって、私たちにはその状況に適した生き方というものが求められます。だからこそなぜを問い、そのたびに空を見上げるように神を仰ぎ見るのです。そして、イエスが私たちのためになされたことを思い巡らせながら、生きる道というものを探し出しつつ。示された道程を一歩一歩進み行くことができるのでしょう。
 
私たちはイエスの示された模範を100%模倣することはできませんが、その精神を心に抱きながら新しい一日を歩もうとする思いを確かめることはできるのです。そのときにこそ神がともにいてくださり、私たちの生き方を助けてくださるということに、是非自分自身の関心を寄せていきたいのです。
 
神が私たちを照らし、神の輝きで一日の営みを光らせてくださいますように。心からお祈りします。

08/04/2025

2025.4.8(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
歴代誌下30章9節
もしあなたがたが主に立ち帰るなら、あなたがたの神、主は恵みに満ち、憐れみ深い方となり、あなたがたから御顔を背けることはない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書22章32節
しかし、私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った。だから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節30日目を迎えました。早いものでレントも4分の3が過ぎたことになります。特にこの日本では年度末年度初めの忙しいときでもありますから、慌ただしさのなかで何かを置き忘れているような感覚に陥ってしまうこともありますが、新しい一日が与えられたことを神に感謝しつつ、今日もローズンゲンに示された御言葉に耳と心を傾けたいと思います。
 
今日のふたつの聖句に共通するテーマは「悔い改め」であると私は受け止めました。悔い改めという言葉がすでにこの日本では聖書の言葉として広く知られているわけですが、今日の聖句のなかで言及されている「立ち帰り」「立ち直り」という言葉が、果たして悔い改めという言葉にマッチングするのだろうかということをあらためて考えたいと思ったのです。
 
悔い改めという言葉を国語辞典で調べてみますと「(penitentia ラテン)キリスト教で、神に対して罪を悔い、心を改めて主なる神を中心において生きようとすること。改悛」(広辞苑第七版)とあります。もちろんこの意味自体間違ったものではありません。しかし、これは私がいつも思うことなのですが、私たちが悔い改めという言葉を耳にする時に、悔いることが強調されすぎるあまり、改めという言葉が薄れてしまっているのではないかと感じるのです。
 
もちろん悔いることは大切なことなのですが、それよりも大切なことは神が再び私たちを立たせ、御自身とともに歩むように私たちを助けてくださるという面にあると私は思っています。人は痛い目に遭わなければ分からない。しかし、私たちを再生へと向かわせてくださる方が確かにおられるからこそ、そこにとどまり続けることなく未来志向の視点で神がともにいてくださることを実感できる。ここにこそ福音の真髄というものがあるのだと。
 
実は悔い改めという言葉の原語であるギリシア語メタノイアには、悔いるという言葉を示す意味は直接的には含まれていません。メタは「方向を変える」ノイアは「心や思い」という意味をもっていますから、悔い改めというよりも今日の聖句にあるように「立ち帰り」「立ち直り」という言葉のほうがしっくりと来るのです。つまり悔い改めは、悔いることよりも改めることに重きが置かれている言葉であるということを私たちはぜひ覚え続けたいのです。
 
ちなみに、今日の聖句で「立ち直る」という新約聖書の言葉はエピストテレフォーというギリシア語が、「立ち帰る」という旧約聖書の言葉はシューブというヘブライ語がそれぞれ用いられています。いずれも「向きを変える」という言葉であり、神とともに歩むために悔いること以上に必要なことなのです。ともに歩もうと心から願ったときに、おのずと自分自身のうちから悔いるということが生まれてくるということを私たちは実感したいのです。
 
今日も神が私たちとともに歩んでくださる。そのために自分自身が歩もうとしている方向というものを確認することができますように。そして、神の招きに心から喜んでそれに応じることが出来ますように。

07/04/2025

2025.4.7(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編103編6節
主は虐げられているすべての者のために
正義と公正を行う。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙4章17節
だから、なすべき善を知りながら行わないなら、それはその人の罪です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節29日目を迎えました。そして、今週もウィークデイが始まりました。どんなことがこの一週間にやってくるのでしょうか。神が私たちのためになしてくださることに期待しつつ、今日のローズンゲンに示された御言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉はヤコブの手紙の一節でした。ヤコブの手紙は一般的には「行い」の重要性について各所で言及されている手紙として知られているわけですが、プロテスタント教会では「信仰」こそ大切であるということを強調するがゆえに、行為についてはわきに追いやられてきたという歴史がこれまでありました。
 
しかし、宗教改革者ルターでさえも、実は行いの重要性を説いている訳であって、なにも行為を否定したわけではありませんでした。ルターは、自分自身の行いが「何に基づいているか」ということを見極める大切さを宗教改革の中心にしたと言って間違いありません。
 
そのことを踏まえて、今日のヤコブ書の言葉に目を向けるならば、それは「善」であるとこの手紙には書かれていることが分かります。では善とは何でしょうか。それが、今日の旧約聖書の言葉で言及されている「正義と公正」であると言えるでしょう。
 
神である主ヤハウェは、私たちのためにご自分の正義と公正を行われるというのが、今日の旧約聖書の言葉である詩編の一節です。正義と公正という言葉は、旧約聖書ではしばしば登場するワードです。聖書原語であるヘブライ語ではツェダカー(正義)とミシュパート(公正)と言います。つまり、正義が神御自身の土台にあるからこそ、神はご自分の正義をもって私たち人間を過不足なく取り扱ってくださる。それが今日のヤコブ書で言われている「善」そのものなのです。
 
つまり、今日のヤコブ書のなかで「なすべき善と知りながら」という言葉は、私たちがなすべき行動の土台が、神のツェダカーとミシュパートであることを知っているならばと置き換えることができるのです。もっと分かりやすく言えば、神が善い御方であることが自分の生活の土台にすることを大切にして、主と手をつないで歩もうと思うことがなければ、という言い方でも表現できるのではないかと思うのです。
 
そして、そうでなければ「それはその人の罪です」というヤコブ書の続く部分に注目すれば、ここで言う罪とは「神とともに歩めない状態」のことを指すわけです。何か悪いことを行うことによって生み出される罪というよりは、神と乖離した状態のことをこの手紙は私たちにつたえているのではないだろうか。そんな風に受け止めたいと思ったのです。
 
私たちの罪のためにイエスは十字架にかかられたという、レントの時だからこそ考える命題は、神と手をつなぎえない私たちの状態がこれ以上続かないために、イエスがご自分の命をもってそのかすがいとなってくださったことを想い起こす絶好の機会なのだと思います。このことが土台となってこそ、私たちの生き方というものも問われていくのでしょう。
 
この平日の数日間の先駆けとなる今日の一日に、神がともにいてくださることゆえの幸いを気づく思いを神が豊かに与えてくださいますように。主にある平安と祝福をお祈りします。

06/04/2025

2025.4.6(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書58章7節
家がなく苦しむ人々を家に招きなさい。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書25章40節
そこで、王は答える。『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。』
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節5回目の日曜日を迎えました。刻一刻と救い主の御復活を祝うイースターが近づいています。しかしその前に、救い主イエスの苦しみが私たちの目前に迫っています。この苦しみを私たちはどのように受け止めることができるのでしょうか。そんなことを心に刻むことのできるような一日となることを願いつつ、今日もローズンゲンに示されたふたつの言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、それに先立って「私の選ぶ断食とは」という問いかけから始まっています。ここで言う私とは神御自身のことを指すわけですが、断食というのは苦しみを意味する象徴的な言葉でもありますから、神が苦しみの道を選び取るという前提で今日の言葉が語られていると考えることができるでしょう。
 
安住する場が見つからない方々をご自分の家に招かれる神。そこには寛大な心を私たちは読み取ることが出来るかもしれません。神はこうしてどんな人でも迎え入れてくださるのだと。しかし、誰彼を迎えるということは決して楽なことではないということを、私たちはよく知っています。私自身、仕事上誰かを引き取らなければならない時がありますが、引き取った後に訪れる様々な出来事に、正直音を上げてしまいたくなることがこれまで幾たびもありました。
 
つまり、寛大な心をもって何かを迎え入れるということは、迎え入れる側に何かしらの犠牲を伴わなければならないということなのでしょう。神が私たちひとりひとりを迎え入れるために、神御自身が犠牲を払われるということを想うときに、最愛の独り子を私たちのために差し出してくださったという、私たちの想像を絶する犠牲があったことを思わずにはいられないのです。
 
私たちもまた、そのような犠牲を払うという道を選び取ることが、イエスの言われる十字架の道を歩むということにつながるのだと私は考えています。本当に助けを必要とする人が、神の犠牲によって再生することを心から願いつつ、自分自身のうちにある犠牲を払うこと。そのことは本当に苦しいことですし、投げたしたくなるかもしれません。しかし、犠牲の苦しみを知っておられる神がおられるからこそ、その神の守りと助けを十分にいただきながら、いただいた命を尊び合うことに喜び、今日の一日を生きてまいりたいと思いました。
 
どうか今日の一日もまた、神とともに歩む幸いを味わうことができますように。心からお祈りします。

05/04/2025

2025.4.5(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
サムエル記上2章7節
主は貧しくし、また富ませ
低くし、また高めます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙12章3節
私に与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。分を越えて思い上がることなく、神が各自に分け与えてくださった信仰の秤に従って、慎み深く思うべきです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節28日目を迎えました。そして今週も最終日を迎えました。この一週間にあったさまざまなことを想い起こしながら、今日を生きるための糧となる御言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「与えられた信仰」についてでした。そのことについて綴ってみたいと思います。
 
信仰とは得るものか、それとも与えられるものか。それは決して悟りを得て自ら見つけ出すものではありません。そうではなくて神が私たちの人生のために、惜しみなく与えてくださるものなのだということを、今日の聖句は私たちに伝えているのです。大切なことは、私たちがそのことに気付いて、いかにいただいたものを大切に用いることができるかということなのです。
 
そのことを、今日の新約聖書のことばには「信仰の秤」という言葉で表現されています。その秤(はかり)は、神が私たちの各自に与えてくださったのだと、この手紙の筆者である使徒パウロは愛するローマにあるクリスチャンたちに書き送りました。私たちそれぞれに別物の信仰が与えられたわけではありません。量の大小の問題でもありません。私たちに与えられた信仰という秤を、私たちがどのように健全に用いることができるのかということなのです。
 
つまり、与えられたものの使い方をトリセツ通りに使うならば、そのものの機能が十分に発揮されます。はかりの場合は、ものの重さを正確に量ることができるようにメンテナンスをする必要があります。1グラムという重さを1グラムとして量ることができるように整えることは大切なのです。
 
目方をごまかして、多いものを少なく見せたり、その逆のことも私たちの世界ではよくあることです。自分自身を過大評価、もしくは過小評価することで、本来示されるべきことが示されないままに自分自身を受け入れることもあれば、それが結果として、人をだますなどということが、人間の歴史では繰り返し起きてきました。聖書のなかにもそのようなエピソードというものを私たちは見ることができるのです。
 
神はイエス・キリストという信仰の秤を私たちのために惜しみなくプレゼントしてくださいました。その秤自体は完全完璧なものなのですが、それを使う私たちが、いつのまにかに自分好みの秤に改造してはいないだろうか。そんなことを私たちは自問することは本当に大切なのだと思わされます。
 
そこに自分自身の慎み深さが働く時に、神は余すところなく私たちの心を富ませてくださることでしょう。もし、神である主ヤハウェが私たちを貧しくされるのであれば、それは決していたずらにそうさせるのでは決してありません。私たちの判断と決断、選択の結果なのです。そのことを私たちは、誰かに責任を転嫁することなく、神が本来私たちに与えようとされておられることを真摯に受け止めながら、今日も与えられたイエス。キリストという信仰の秤を、よいものとして用いてまいりたい。そんなことを受け止めたいと思います。
 
今日の一日が、明日の主の日の良き備えの時となりますように。お祈りします。

04/04/2025

2025.4.4(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ミカ書7章19節
主は私たちを再び憐れみ
私たちの罪をことごとく
海の深みに投げ込まれる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一1章9節
私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節27日目を迎えました。仙台はおととい昨日と冷たい雨が降り続けていましたが、今朝は久しぶりに太陽が顔をのぞかせています。青空の下で春のひと日を過ごしつつ、イエスが負われた受難の出来事に心を寄せたいと思いました。今日も、ローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、黙想を深めてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに共通するテーマは「罪のゆるし」であると私は受け止めました。先日、SNSに目を通していましたら、どうしてキリスト教は罪のことをここまでも強調するのだろうか、イエス・キリストが私たちの罪をゆるしてくださったのならば、罪のことをここまで強調する必要はないのではないだろうか。にもかかわらず、どうして「私たちの罪をゆるしてください」と祈り続けるのだろうか、というポストを目にしました。
 
その方がおっしゃるには、罪をゆるしてくださいという言葉を聞くたびに、自己嫌悪におちいって、やはり私は神にゆるされていないのではないだろうかと思うのだそうです。私もこれまでこのような反応というものにたびたび出会ってきました。だからこそ、罪という言葉には慎重に、かつどのような用い方をすればバランスの取れた見方をすることができるかということを考え続けています。
 
聖書で言う罪は、私たちが一般的に考える悪事=罪という以前に、神との関係が破綻している状態のことを「罪」という日本語を用いて表現しているに過ぎないと私は考えています。一般的な悪事は、その前提の結果として表面化することなのであって、そちらがメインではないということを私は強調したいのです。
 
人間は神がいなくても独立独歩の道を歩むことで、世界は平和になると考えたことが、聖書の冒頭に記されています。神との絶縁を選択した人間は、その後誰か特定の人物を「神」に仕立てることによって、支配ー被支配の構造が確立されました。この支配構造がゆがむと、どんなに平和を願ったとしても、それが実現することが無くなってしまうというのは、人間の歴史が繰り返し物語っています。これが表面化することによって、私たちの目に見える罪が明らかにされるというのです。
 
問題なのは神ではない、宗教でもない。そういうものを我田引水のごとく利用悪用する人間の側にあるのだと、私も自己反省的に痛感させられます。神との関係を健全に理解すれば、神や宗教の存在は決して悪いものではないのです。ただ、それがなかなかできないからとても悩ましいし、神のゆるしを聞いても、それをなかなか受け入れることができないのだと自戒を込めて思わされるのです。
 
だからこそ、神との関係性を健全なものとしてもらえるように、神のことをよく深く知りたいのです。神との関係の破綻を海に投げ込んでくださる神。そのことを自分自身の問題として神の御前に素直に告白したときに、必ず神は私たちに健全な関係性というものを築かせてくださるのだ。今日の旧約聖書・新約聖書の言葉が言わんとしていることなのだと私は受け止めたいのです。
 
今日も神が私たちとともにいてくださる。そのことを希望のいしずえにして歩むことができますように。皆さんの一日に神が豊かにともなってくださいますように。お祈りします。

03/04/2025

2025.4.3(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書2章13節
わが民は二つの悪をなした。
命の水の泉である私を捨て
自分たちのために水溜めを掘ったのだ。
水を溜めることもできない
すぐに壊れる水溜めを。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書4章14節
しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節26日目を迎えました。今日もローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、神の言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のふたつの聖句に共通する言葉は「いのちの水」であると私は受け止めました。そして、私たちのいのちを支える水源について、ふたつの聖句は実に対照的な言葉をもって私たちに大切なことを指し占めていると私は思ったのです。そのことをつづってみたいと思います。
 
旧約聖書はエレミヤ書のはじめのほうにある一節でした。エレミヤ書が特にそうなのですが、神に従順を示しているようで、実はそうではない。かたちばかり口先ばかりの民たちに対して、神はエレミヤを送ってご自分の言葉を民たちに授けられました。ですから、エレミヤの口を通して語られる言葉は、とても鮮烈かつ痛烈なものとして当時の民たちに、そしてこの言葉を読む私たちに響いてくるのです。
 
そこでモチーフとして用いられるのが「水」です。私たちのいのちを支える水がどこからくるのか。民たちは自分たちの所有物であるとうそぶき、みずから貯水池をつくってそこに水をためることによって、いかに豊富な水を貯えることができるかを誇った。つまり、それは自分たちの功績というものをアピールすることへとつながるものだったのです。
 
どれだけ伝道をしたか、どれだけ洗礼者を増やし、礼拝出席者を増やし、いかに大きな会堂を目抜き通りに建てて、大企業のようなメガチャーチをつくることできるか。もちろん、それ自体が悪いことではありません。しかし、その成績を競い合うかのように増殖することばかり考えて、一番大切にしなければならないことをおそろかにするならば、そこにはたとえ水が豊富にあるように見えても、必ず枯渇する日がやってくるのです。
 
それをエレミヤは「すぐに壊れる水溜め」という言葉で民たちに語ったのでした。なぜか。水源がどこにあるのかという一番大切にしなければならないじことを民たちはおろそかにしたからです。自分たちの功績ではない。自分たちの功績など、いつかは壊れてなくなってしまう。そうではないのだ。いつまでも堪えることのない水源こそ、私たちにいのちを与える神である主ヤハウェにあることを、エレミヤは神からいただいた言葉をもって民たちに知らせたのでした。
 
教会という場所が、私たち一人ひとりのいのちが、名によって形づくられ、また建てられているのかということを、私たちは日々確認していくことにこそ幸いというものを見い出すことができるのです。後にイエスは、井戸端でそのことを語られたのでした。私が与える水こそ、決して渇くことのない、永遠にわたって私たちのいのちを支えるいのちの水の泉がどこにあるのかということを。
 
決して滅びることのない神に言葉に、今日も私たちのいのちを活かす根本があることを大切にしてまいりたいと思うのです。どうか、私たちに与えられたいのちの幸いが神とともにありますように。祈りつつ歩んでまいりたいと思います。そのことをお祈りします。

02/04/2025

2025.4.2(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
マラキ書1章6節
主はあなたがたに言われる。
子は父を敬うものだ。しかし、私が父であるなら
私に対する尊敬はどこにあるのか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章3節
私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈しみ深い父、慰めに満ちた神がほめたたえられますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節25日目を迎えました。今日の一日もまた、救い主イエスが負われた痛みや苦しみを想いつつ、自分自身に与えられた時に感謝することができますように。そんな思いを胸にしつつ、ローズンゲンに示された御言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉であるマラキ書の冒頭にある一節で、神はご自分の民たちへ、特に礼拝を司る祭司たちに向けて「私に対する尊敬はどこにあるのか」と問いかけています。今日のローズンゲンの言葉には反映されていませんが、同じ節の続く部分で、神は祭司たちに向かって「私の名を軽んじる祭司たちよ」と呼び、祭司たちは「私たちはどのように御名を軽んじましたか」と答えています。つまり、祭司たちにとっては、まさか自分たちが神を軽んじていることなどないだろうという意識のなかで、神にそのような言葉をもって、本当に尊敬をしているのだろうかと問いかけられているのです。
 
尊敬と日本語で訳されている言葉ですが、原語のヘブライ語では重さを示す意味として用いられています。つまり、尊敬とは重きを置くこと、重んじていること、重要なものとして取り扱うことを意味します。ですから、神は祭司たちに対して、本当に自分のことを自分自身の生活のなかで、重要な存在として位置付けているだろうかと問いかけているわけです。ですから、その対義語としての「軽んじる」という言葉が成立するのです。重要なという意味ではなく、大して重要な存在ではないということを、無意識のうちに祭司たちは示していたのでしょう。
 
この「無意識のうちに」ということがポイントなのだと私は受け止めたいのです。祈ること、聖書の言葉に聴くこと、賛美をすること、礼拝に出席することなどなど、そのどれもが大切なことですし、その行為をすること自体立派なことなのだと思います。しかし、心はどこにあるのだろうか。私たち一人ひとりの言動というものが、神が私たちとともにおられるということを重要なもの、大切なこととして受け止めてそいうことがなされているのだろうかと、じっくりと黙想することこそが、今日のマラキ書から得ることのできるメッセージなのだと私は思ったのです。
 
御名を軽んじるとは、神は私たちとともにおられるという神のお名前の指し示す意味を軽んじるということです。そして、神の御名に示された意味が具体的に、今日の新約聖書の言葉にもあるように、慈しみと慰めというかたちをもって、今日一日の私たちの生活を支えてくださるのだと是非受け止め、受け入れることができるのです。ここにこそ、神が与える幸いというものが、皆さんの一日を活かしてくださるのです。
 
どうか今日一日を生きる私たちの心が、神に重きを置くそのような思いへと導かれますように。そのような私たちを神が今日も祝福してくださいますように。お祈りします。

01/04/2025

2025.4.1(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編146編7節
主は
虐げられている人のために裁きを行い
飢えた人にパンを与える。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二9章10節
蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたに種を備えて、それを増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節24日目を迎えました。そして、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「パンを与えられる神」であると私は受け止めました。パンとはなにか、そのことについて綴ってみたいと思います。
 
私たちの命をつなぐ食物でも主食となるものを、聖書では「パン」という言葉で表現しました。主食ですから、最も大切なものであると同時に、ありふれたもの、手に入りやすいものとも考えることができるでしょう。ただ、私たちはありふれたものであればあるほど、それが「本当に大切なもの」としてどれだけそれをみなすことができるだろうか、とも思わされるのです。
 
昨年、日本では主食であるコメが高騰したことがありました。それは今でも続いているわけですが、いざ当たり前のものが無くなるのが分かると、何となく私たちの心が騒ぎ、ちょっとした騒動から社会問題となることを経験からよく知っています。本当に大切なものは何かということを、常日頃から意識しておくことは本当に大切なことなのだと痛感させられます。いざそれが欠乏してあたふたすることのないようにです。
 
今日の新約聖書の言葉は、私たちにとって最も大切なものであるパンを通して、神は私たちに義の実というものを増し加えてくださると伝えています。義とは神の正しさのことであり、私たちが日ごろから最も大切なものを大切なものとして受け取り続けていくうなかで、神の正しさというものを自らのなかで増し加えることができるというのです。
 
神の正しさは、聖書を通して与えられる神の言葉の本質によって明らかにされます。それを私たちが理解しようとするときに、聖霊はそのために大きな助けとなって私たちの心を促してくださいます。神の正しさによって生きようとするときに、神は私たちにパンを与えてくださるように、ごくごくありふれたものから宝を生み出す力というものを私たちに分からせてくださるために、私たち一人ひとりに働きかけてくださいます。
 
たとえ、大切なものに事欠いてしまい、飢えや虐げられるような感覚に陥ったときにでも、いや、そういう時だからこそ、神は私たちにパンを惜しみなく与えてくださる。そういうことを通しても、私たちは本当に大切なものが何なのかに気付くことすらできるのです。今日の旧約聖書の言葉が物語るエッセンスと言ってもよいでしょう。神の裁きを通して、神の正しさが私たちに慈しみと憐れみをもって私たちに応えてくださるというのですから。
 
今日も神の言葉というパンが私たちに与えられました。このパンが私たちの霊的な、そして精神的な命を健やかに保たせてくださることを喜ぶことができますように。皆さんの一日のためにお祈りします。