くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
歴代誌上29章12節
勢いと力は御手にあり、その御手によってあらゆる者を大いなる者、力ある者となさいます。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一5章6節
ですから、神の力強い御手の下でへりくだりなさい。そうすれば、しかるべき時に神はあなたがたを高くしてくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
四旬節32日目を迎えました。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「神の力強さ」であると私は受け止めました。そのことについて黙想したいと思います。
神の力強さが私たちひとりひとりを強くするということが、今日の聖句で語られています。私たちはこの世の中で生きるときに、日々を生き抜くための「強さ」が必要であることを、いろいろな所で叫ばれることがあります。弱さを捨てて強くなれ、そんなことを少なからず言われたことがあるのではないでしょうか?
しかし、こういうことが叫ばれるときに、それは単なる「精神論」に過ぎないのではないかと私は思ってしまうのです。確かに強さは必要かもしれません。しかし、強さの「質」というものがどういうところから来るのかということに、私たちは大きな関心を寄せることが必要なのだと感じさせられます。なぜならば、私たちは根本的には「弱さ」を抱えながら生きている存在だからです。
今日の聖句ではありませんが、使徒パウロは「弱いときにこそ強い」ということを手紙に書きしたためました。社会的には強さを抱える一面がパウロにはありましたが、彼は内面において、そして身体的には弱さを抱えながら、日々を逡巡しながら歩んでいたことも確かです。だから、パウロは強さを必要としました。それが、今日の聖句にも相通じるわけです。
私たち人間が必要とするのは、神の力強さそのものです。神の御手に示された力強さは、その腕力をもって私たちを支え、立たせてくださる力強さです。私たちが倒れそうになってもしっかりとホールドしてくださるというのです。この力強い御手に支えられるからこそ、私たちはどんなに荒波が自分自身を襲ったとしても、安心して神とともに生きるということの幸いというものを教えられ、そのことを自分自身の強さとすることができるのでしょう。
誤解を恐れず申し上げれば、私はいわゆる「スポーツ根性論」というものが大嫌いです。神の力強さよりも、自分自身の鍛錬によって強さがつくり出せるものだと思い込んでしまう元となってしまうことがあるからです。このような考え方が弱さというものを端へ追いやって悪しきものに仕立て上げてしまう。今日の聖句から私たちがいただきたいと思うメッセージに逆行してしまうのだと私は思えてならないのです。
自分自身の弱さを認めつつもそれに開き直ることなく、だからこそ神の力強い御手のなかで安心して生きることの幸いというものを、今日も味わいたいと願わされました。こうして私たちの一日が、神とともに歩む喜びへと導かれてまいりますように。心からお祈りします。
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