03/04/2025

2025.4.3(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書2章13節
わが民は二つの悪をなした。
命の水の泉である私を捨て
自分たちのために水溜めを掘ったのだ。
水を溜めることもできない
すぐに壊れる水溜めを。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書4章14節
しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節26日目を迎えました。今日もローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、神の言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のふたつの聖句に共通する言葉は「いのちの水」であると私は受け止めました。そして、私たちのいのちを支える水源について、ふたつの聖句は実に対照的な言葉をもって私たちに大切なことを指し占めていると私は思ったのです。そのことをつづってみたいと思います。
 
旧約聖書はエレミヤ書のはじめのほうにある一節でした。エレミヤ書が特にそうなのですが、神に従順を示しているようで、実はそうではない。かたちばかり口先ばかりの民たちに対して、神はエレミヤを送ってご自分の言葉を民たちに授けられました。ですから、エレミヤの口を通して語られる言葉は、とても鮮烈かつ痛烈なものとして当時の民たちに、そしてこの言葉を読む私たちに響いてくるのです。
 
そこでモチーフとして用いられるのが「水」です。私たちのいのちを支える水がどこからくるのか。民たちは自分たちの所有物であるとうそぶき、みずから貯水池をつくってそこに水をためることによって、いかに豊富な水を貯えることができるかを誇った。つまり、それは自分たちの功績というものをアピールすることへとつながるものだったのです。
 
どれだけ伝道をしたか、どれだけ洗礼者を増やし、礼拝出席者を増やし、いかに大きな会堂を目抜き通りに建てて、大企業のようなメガチャーチをつくることできるか。もちろん、それ自体が悪いことではありません。しかし、その成績を競い合うかのように増殖することばかり考えて、一番大切にしなければならないことをおそろかにするならば、そこにはたとえ水が豊富にあるように見えても、必ず枯渇する日がやってくるのです。
 
それをエレミヤは「すぐに壊れる水溜め」という言葉で民たちに語ったのでした。なぜか。水源がどこにあるのかという一番大切にしなければならないじことを民たちはおろそかにしたからです。自分たちの功績ではない。自分たちの功績など、いつかは壊れてなくなってしまう。そうではないのだ。いつまでも堪えることのない水源こそ、私たちにいのちを与える神である主ヤハウェにあることを、エレミヤは神からいただいた言葉をもって民たちに知らせたのでした。
 
教会という場所が、私たち一人ひとりのいのちが、名によって形づくられ、また建てられているのかということを、私たちは日々確認していくことにこそ幸いというものを見い出すことができるのです。後にイエスは、井戸端でそのことを語られたのでした。私が与える水こそ、決して渇くことのない、永遠にわたって私たちのいのちを支えるいのちの水の泉がどこにあるのかということを。
 
決して滅びることのない神に言葉に、今日も私たちのいのちを活かす根本があることを大切にしてまいりたいと思うのです。どうか、私たちに与えられたいのちの幸いが神とともにありますように。祈りつつ歩んでまいりたいと思います。そのことをお祈りします。

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