04/04/2025

2025.4.4(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ミカ書7章19節
主は私たちを再び憐れみ
私たちの罪をことごとく
海の深みに投げ込まれる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一1章9節
私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節27日目を迎えました。仙台はおととい昨日と冷たい雨が降り続けていましたが、今朝は久しぶりに太陽が顔をのぞかせています。青空の下で春のひと日を過ごしつつ、イエスが負われた受難の出来事に心を寄せたいと思いました。今日も、ローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、黙想を深めてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに共通するテーマは「罪のゆるし」であると私は受け止めました。先日、SNSに目を通していましたら、どうしてキリスト教は罪のことをここまでも強調するのだろうか、イエス・キリストが私たちの罪をゆるしてくださったのならば、罪のことをここまで強調する必要はないのではないだろうか。にもかかわらず、どうして「私たちの罪をゆるしてください」と祈り続けるのだろうか、というポストを目にしました。
 
その方がおっしゃるには、罪をゆるしてくださいという言葉を聞くたびに、自己嫌悪におちいって、やはり私は神にゆるされていないのではないだろうかと思うのだそうです。私もこれまでこのような反応というものにたびたび出会ってきました。だからこそ、罪という言葉には慎重に、かつどのような用い方をすればバランスの取れた見方をすることができるかということを考え続けています。
 
聖書で言う罪は、私たちが一般的に考える悪事=罪という以前に、神との関係が破綻している状態のことを「罪」という日本語を用いて表現しているに過ぎないと私は考えています。一般的な悪事は、その前提の結果として表面化することなのであって、そちらがメインではないということを私は強調したいのです。
 
人間は神がいなくても独立独歩の道を歩むことで、世界は平和になると考えたことが、聖書の冒頭に記されています。神との絶縁を選択した人間は、その後誰か特定の人物を「神」に仕立てることによって、支配ー被支配の構造が確立されました。この支配構造がゆがむと、どんなに平和を願ったとしても、それが実現することが無くなってしまうというのは、人間の歴史が繰り返し物語っています。これが表面化することによって、私たちの目に見える罪が明らかにされるというのです。
 
問題なのは神ではない、宗教でもない。そういうものを我田引水のごとく利用悪用する人間の側にあるのだと、私も自己反省的に痛感させられます。神との関係を健全に理解すれば、神や宗教の存在は決して悪いものではないのです。ただ、それがなかなかできないからとても悩ましいし、神のゆるしを聞いても、それをなかなか受け入れることができないのだと自戒を込めて思わされるのです。
 
だからこそ、神との関係性を健全なものとしてもらえるように、神のことをよく深く知りたいのです。神との関係の破綻を海に投げ込んでくださる神。そのことを自分自身の問題として神の御前に素直に告白したときに、必ず神は私たちに健全な関係性というものを築かせてくださるのだ。今日の旧約聖書・新約聖書の言葉が言わんとしていることなのだと私は受け止めたいのです。
 
今日も神が私たちとともにいてくださる。そのことを希望のいしずえにして歩むことができますように。皆さんの一日に神が豊かにともなってくださいますように。お祈りします。

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