くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
マラキ書1章6節
主はあなたがたに言われる。
子は父を敬うものだ。しかし、私が父であるなら
私に対する尊敬はどこにあるのか。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章3節
私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈しみ深い父、慰めに満ちた神がほめたたえられますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
四旬節25日目を迎えました。今日の一日もまた、救い主イエスが負われた痛みや苦しみを想いつつ、自分自身に与えられた時に感謝することができますように。そんな思いを胸にしつつ、ローズンゲンに示された御言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
今日の旧約聖書の言葉であるマラキ書の冒頭にある一節で、神はご自分の民たちへ、特に礼拝を司る祭司たちに向けて「私に対する尊敬はどこにあるのか」と問いかけています。今日のローズンゲンの言葉には反映されていませんが、同じ節の続く部分で、神は祭司たちに向かって「私の名を軽んじる祭司たちよ」と呼び、祭司たちは「私たちはどのように御名を軽んじましたか」と答えています。つまり、祭司たちにとっては、まさか自分たちが神を軽んじていることなどないだろうという意識のなかで、神にそのような言葉をもって、本当に尊敬をしているのだろうかと問いかけられているのです。
尊敬と日本語で訳されている言葉ですが、原語のヘブライ語では重さを示す意味として用いられています。つまり、尊敬とは重きを置くこと、重んじていること、重要なものとして取り扱うことを意味します。ですから、神は祭司たちに対して、本当に自分のことを自分自身の生活のなかで、重要な存在として位置付けているだろうかと問いかけているわけです。ですから、その対義語としての「軽んじる」という言葉が成立するのです。重要なという意味ではなく、大して重要な存在ではないということを、無意識のうちに祭司たちは示していたのでしょう。
この「無意識のうちに」ということがポイントなのだと私は受け止めたいのです。祈ること、聖書の言葉に聴くこと、賛美をすること、礼拝に出席することなどなど、そのどれもが大切なことですし、その行為をすること自体立派なことなのだと思います。しかし、心はどこにあるのだろうか。私たち一人ひとりの言動というものが、神が私たちとともにおられるということを重要なもの、大切なこととして受け止めてそいうことがなされているのだろうかと、じっくりと黙想することこそが、今日のマラキ書から得ることのできるメッセージなのだと私は思ったのです。
御名を軽んじるとは、神は私たちとともにおられるという神のお名前の指し示す意味を軽んじるということです。そして、神の御名に示された意味が具体的に、今日の新約聖書の言葉にもあるように、慈しみと慰めというかたちをもって、今日一日の私たちの生活を支えてくださるのだと是非受け止め、受け入れることができるのです。ここにこそ、神が与える幸いというものが、皆さんの一日を活かしてくださるのです。
どうか今日一日を生きる私たちの心が、神に重きを置くそのような思いへと導かれますように。そのような私たちを神が今日も祝福してくださいますように。お祈りします。
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