08/04/2025

2025.4.8(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
歴代誌下30章9節
もしあなたがたが主に立ち帰るなら、あなたがたの神、主は恵みに満ち、憐れみ深い方となり、あなたがたから御顔を背けることはない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書22章32節
しかし、私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った。だから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節30日目を迎えました。早いものでレントも4分の3が過ぎたことになります。特にこの日本では年度末年度初めの忙しいときでもありますから、慌ただしさのなかで何かを置き忘れているような感覚に陥ってしまうこともありますが、新しい一日が与えられたことを神に感謝しつつ、今日もローズンゲンに示された御言葉に耳と心を傾けたいと思います。
 
今日のふたつの聖句に共通するテーマは「悔い改め」であると私は受け止めました。悔い改めという言葉がすでにこの日本では聖書の言葉として広く知られているわけですが、今日の聖句のなかで言及されている「立ち帰り」「立ち直り」という言葉が、果たして悔い改めという言葉にマッチングするのだろうかということをあらためて考えたいと思ったのです。
 
悔い改めという言葉を国語辞典で調べてみますと「(penitentia ラテン)キリスト教で、神に対して罪を悔い、心を改めて主なる神を中心において生きようとすること。改悛」(広辞苑第七版)とあります。もちろんこの意味自体間違ったものではありません。しかし、これは私がいつも思うことなのですが、私たちが悔い改めという言葉を耳にする時に、悔いることが強調されすぎるあまり、改めという言葉が薄れてしまっているのではないかと感じるのです。
 
もちろん悔いることは大切なことなのですが、それよりも大切なことは神が再び私たちを立たせ、御自身とともに歩むように私たちを助けてくださるという面にあると私は思っています。人は痛い目に遭わなければ分からない。しかし、私たちを再生へと向かわせてくださる方が確かにおられるからこそ、そこにとどまり続けることなく未来志向の視点で神がともにいてくださることを実感できる。ここにこそ福音の真髄というものがあるのだと。
 
実は悔い改めという言葉の原語であるギリシア語メタノイアには、悔いるという言葉を示す意味は直接的には含まれていません。メタは「方向を変える」ノイアは「心や思い」という意味をもっていますから、悔い改めというよりも今日の聖句にあるように「立ち帰り」「立ち直り」という言葉のほうがしっくりと来るのです。つまり悔い改めは、悔いることよりも改めることに重きが置かれている言葉であるということを私たちはぜひ覚え続けたいのです。
 
ちなみに、今日の聖句で「立ち直る」という新約聖書の言葉はエピストテレフォーというギリシア語が、「立ち帰る」という旧約聖書の言葉はシューブというヘブライ語がそれぞれ用いられています。いずれも「向きを変える」という言葉であり、神とともに歩むために悔いること以上に必要なことなのです。ともに歩もうと心から願ったときに、おのずと自分自身のうちから悔いるということが生まれてくるということを私たちは実感したいのです。
 
今日も神が私たちとともに歩んでくださる。そのために自分自身が歩もうとしている方向というものを確認することができますように。そして、神の招きに心から喜んでそれに応じることが出来ますように。

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