くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書58章7節
家がなく苦しむ人々を家に招きなさい。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書25章40節
そこで、王は答える。『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。』
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
四旬節5回目の日曜日を迎えました。刻一刻と救い主の御復活を祝うイースターが近づいています。しかしその前に、救い主イエスの苦しみが私たちの目前に迫っています。この苦しみを私たちはどのように受け止めることができるのでしょうか。そんなことを心に刻むことのできるような一日となることを願いつつ、今日もローズンゲンに示されたふたつの言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
今日の旧約聖書の言葉は、それに先立って「私の選ぶ断食とは」という問いかけから始まっています。ここで言う私とは神御自身のことを指すわけですが、断食というのは苦しみを意味する象徴的な言葉でもありますから、神が苦しみの道を選び取るという前提で今日の言葉が語られていると考えることができるでしょう。
安住する場が見つからない方々をご自分の家に招かれる神。そこには寛大な心を私たちは読み取ることが出来るかもしれません。神はこうしてどんな人でも迎え入れてくださるのだと。しかし、誰彼を迎えるということは決して楽なことではないということを、私たちはよく知っています。私自身、仕事上誰かを引き取らなければならない時がありますが、引き取った後に訪れる様々な出来事に、正直音を上げてしまいたくなることがこれまで幾たびもありました。
つまり、寛大な心をもって何かを迎え入れるということは、迎え入れる側に何かしらの犠牲を伴わなければならないということなのでしょう。神が私たちひとりひとりを迎え入れるために、神御自身が犠牲を払われるということを想うときに、最愛の独り子を私たちのために差し出してくださったという、私たちの想像を絶する犠牲があったことを思わずにはいられないのです。
私たちもまた、そのような犠牲を払うという道を選び取ることが、イエスの言われる十字架の道を歩むということにつながるのだと私は考えています。本当に助けを必要とする人が、神の犠牲によって再生することを心から願いつつ、自分自身のうちにある犠牲を払うこと。そのことは本当に苦しいことですし、投げたしたくなるかもしれません。しかし、犠牲の苦しみを知っておられる神がおられるからこそ、その神の守りと助けを十分にいただきながら、いただいた命を尊び合うことに喜び、今日の一日を生きてまいりたいと思いました。
どうか今日の一日もまた、神とともに歩む幸いを味わうことができますように。心からお祈りします。
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