05/04/2025

2025.4.5(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
サムエル記上2章7節
主は貧しくし、また富ませ
低くし、また高めます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙12章3節
私に与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。分を越えて思い上がることなく、神が各自に分け与えてくださった信仰の秤に従って、慎み深く思うべきです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節28日目を迎えました。そして今週も最終日を迎えました。この一週間にあったさまざまなことを想い起こしながら、今日を生きるための糧となる御言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「与えられた信仰」についてでした。そのことについて綴ってみたいと思います。
 
信仰とは得るものか、それとも与えられるものか。それは決して悟りを得て自ら見つけ出すものではありません。そうではなくて神が私たちの人生のために、惜しみなく与えてくださるものなのだということを、今日の聖句は私たちに伝えているのです。大切なことは、私たちがそのことに気付いて、いかにいただいたものを大切に用いることができるかということなのです。
 
そのことを、今日の新約聖書のことばには「信仰の秤」という言葉で表現されています。その秤(はかり)は、神が私たちの各自に与えてくださったのだと、この手紙の筆者である使徒パウロは愛するローマにあるクリスチャンたちに書き送りました。私たちそれぞれに別物の信仰が与えられたわけではありません。量の大小の問題でもありません。私たちに与えられた信仰という秤を、私たちがどのように健全に用いることができるのかということなのです。
 
つまり、与えられたものの使い方をトリセツ通りに使うならば、そのものの機能が十分に発揮されます。はかりの場合は、ものの重さを正確に量ることができるようにメンテナンスをする必要があります。1グラムという重さを1グラムとして量ることができるように整えることは大切なのです。
 
目方をごまかして、多いものを少なく見せたり、その逆のことも私たちの世界ではよくあることです。自分自身を過大評価、もしくは過小評価することで、本来示されるべきことが示されないままに自分自身を受け入れることもあれば、それが結果として、人をだますなどということが、人間の歴史では繰り返し起きてきました。聖書のなかにもそのようなエピソードというものを私たちは見ることができるのです。
 
神はイエス・キリストという信仰の秤を私たちのために惜しみなくプレゼントしてくださいました。その秤自体は完全完璧なものなのですが、それを使う私たちが、いつのまにかに自分好みの秤に改造してはいないだろうか。そんなことを私たちは自問することは本当に大切なのだと思わされます。
 
そこに自分自身の慎み深さが働く時に、神は余すところなく私たちの心を富ませてくださることでしょう。もし、神である主ヤハウェが私たちを貧しくされるのであれば、それは決していたずらにそうさせるのでは決してありません。私たちの判断と決断、選択の結果なのです。そのことを私たちは、誰かに責任を転嫁することなく、神が本来私たちに与えようとされておられることを真摯に受け止めながら、今日も与えられたイエス。キリストという信仰の秤を、よいものとして用いてまいりたい。そんなことを受け止めたいと思います。
 
今日の一日が、明日の主の日の良き備えの時となりますように。お祈りします。

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