くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書29章13節
この民は口で近づき
唇で私を敬うが
その心は私から遠く離れている。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書15章11節
(イエスの言葉)
口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用
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おはようございます。
今週も最終日を迎えました。この七日間の旅路を振り返る一日として、また、明日の主の日への備えの一日として、今日もローズンゲンを通して与えられる神の言葉の味わい深さをいただいてまいりたいと思います。
今日のふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「私たちはどのように自己表現をすることが、神にあってふさわしいのだろうか」ということでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
私たちは心に思ったり、感じたりすることをもって、そのことが言動というものに表現されるというのは、誰もが知っていることです。しかし、私たちは、どんなに良いことを考えよう、神から与えられた良いものを保ち続けようと願っても、そのことを拒絶する自分自身の頑なさがあるということも、よく知っているのではないでしょうか。
私の思考や感情の根拠にあるものが何かを、よく考えてみたいのです。それが我欲のためなのか、それとも本当にこの世界の平安を願ってのことなのか、ということをです。今日与えられたふたつの聖句は、どちらも、私たちに対する「警告」のことばであると言っても過言ではないでしょう。私たちに実に問わされる言葉であると、私は思えてなりません。
表向きには神を賛美している「ようにみえる」が、実はそうではないのだという指摘が、はるか昔、神によってご自分の民である南イスラエル(ユダ王国)の人々に向けられました。動機を問え、その心を問えと、神は私たち一人ひとりにも、この言葉を通して大切な問いを与えているのだと私は受け止めます。
私たちはどうしても、よこしまな思いを抱いてしまいたくなることがあります。しかし、大切なのは、そのようなよこしまな思いをまったく自分自身の心から、100%取り除くということよりも、そういう自分自身があるという深い「自覚」があるかどうか、ということなのではないでしょうか。この自覚があれば、まだ私たちは神と向き合うスペースというものが、確保されることになるのです。
いわゆる「面従腹背」的な生き方をしても、それは結果として、神の御前では何の意味も果たしません。神はすべてをご存知だからです。それは他者に対しても同じことが言えるのだと私は思います。自分自身の心身からほとばしり出るものが、少しでもクリアなものになればどれだけ楽になるかということもありますが、そのために、私の心というものを常に、神に点検していただくことこそ大切なのだと。そのために、神の言葉があり、聖霊の助けが与えられているのです。
主イエスは言いました。口から出るものが人を汚すと。どうしても人を汚してしまうこともあるでしょう。私たちは欠けある人間ですから。しかし、そのことの自覚を持つだけでも、この世での生き方というものが、神によって少しでも変えられる、変えられたいという願いへと導かれることが大切なのです。
この一週間に起きた出来事を振り返りながら、今日も、そんな私たちをなおもご自分の言葉で励ましてくださる神の愛に心から感謝しつつ、一日を過ごすことができますようにと祈ります。皆さんの一日もまた、神の祝福と守りに満たされたものでありますように。お祈りします。