くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編71編20節
あなたは多くの苦しみと災いを
私に思い知らせましたが、
再び命を与えてくださいます。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙二2章9節
主は、敬虔な人々を試練から救い出す。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用
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おはようございます。
今日から10月、そして年度の下半期に入りました。あっという間に半年が経ってしまったという印象をぬぐえませんが、下半期も一日一日を大切にしながら、神様から与えられる時と機会を過ごしていきたいと思います。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句から黙想をつづりたいと思いますが、今日の新約聖書の言葉であるペトロの手紙のなかから、私が注目したいと思ったのは「敬虔」という言葉でした。
敬虔という言葉を聞くと、よく「敬虔なクリスチャン」という言葉を思い出すかもしれません。一般的にも、クリスチャンを指す言葉として用いられるのではないかと思います。しかし、よくよく考えてみれば、敬虔とはいったい何かということを、あらためて思わされるのです。意味をよく理解することなく、使われている言葉なのではないかと思ったりするのです。
敬虔という言葉を辞書で調べますと、「うやまいつつしむこと。特に神仏に帰依して、つつしみ仕えること」(広辞苑第七版)とあります。ここで登場するのは「つつしむ(謹む・慎む)」という言葉です。ここから想像するイメージは静的なものであると私は感じていますが、果たして敬虔とは、静的なイメージだけを私たちに与えるものなのだろうかと、私は思ったりするのです。
神を敬うということは間違いないと思います。しかし、神を敬うかたちは、なにも静的なものだけではない、極めて私たちの動的な営みなのではないかとも思うのです。この言葉の原語(ギリシア語でエウセベイア)は、「神に向かう健全な姿勢」というもともとの意味があります。つまり、敬虔とは動的であれば静的であれ、神に私たちが誠実に向き合おうとする態度のことそのものを指す言葉ですから、そのことに私たちは「敬虔」であることの意味を見い出したい。そんなことを感じたのです。
そのような敬虔さがあってこそ、巡り来るさまざまな試練に向き合う知恵と力というものが、神によって豊かに与えられるのだ。そんなことを今日の黙想としてつづりたいと思いました。
どうか、今日の一日も試練と感じるようなことがあっても、私たちの神に向かう誠実さを、ご自分の言葉と聖霊の導きで養ってくださる神が、ともにおられますようにと祈ります。皆さんの一日にも、神である主がともにいてくださいますように。お祈りします。
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