17/07/2025

2025.7.17(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書17章14節
主よ、私を癒やしてください。
そうすれば私は癒やされます。
私を救ってください。
そうすれば私は救われます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書5章24~25節
「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、体の麻痺した人に、「あなたに言う。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた床を担いで、神を崇めながら家に帰って行った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
今日も暑い一日を迎えますが、どうか皆さんの健康が神である主によって守られますよう、心からお祈りします。私はこの黙想を書き終えたら、近くの中学高校礼拝へ行ってまいります。歳若い方々に御言葉をお届けできるのが本当に楽しみです。そして、帰宅後は午前に祈祷会、午後には家庭集会と訪問聖餐が控えています。今日も一日楽しみつつ主の御用に当たりたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「神に赦されること」についてです。そのことをつづってみたいと思います。
 
神に赦されるというのは、具体的には私たちが神無しでも生きていくことができるという確信のもと、隔絶されていた神との関係性が回復されるために、神が私たちに対して働きかけてくださった「大いなる譲歩」なのだと私は考えています。この譲歩なくしては、私たちは再び神のもとに帰ろうと思うことも無ければ、神とともに生きたいと願うことすら無かったでしょう。神は常にご自分の譲歩をもって、私たちに近づかれ、私たちに気付きを提供し、私たちが自分の判断と決断によって神の差し伸べられた手に、我が手を伸ばすことができるようにしてくださいました。これが究極的な「赦し」なのだと思うのです。
 
私たちには神がなされたような完全無欠の赦しを行うことはできません。ある程度の譲歩ができたとしても、神のような極めて一方的な赦しを提供することなど、本当に難しいことなのです。しかし、私たちは神がなされた赦しにひとつのモデルを見ます。神が差し伸べられた手に、私たちは自分の手を伸ばすことができる、ということです。
 
私たちは人間関係のなかで、許しを実行することを極めて困難にさせる多くの出来事があるのをよく知っています。私自身、なかなか許すことのできない相手がいます。しかし、許せないという気持ちを抱き続けることは、本当に労力のいることですし、疲労とストレスを抱えながら負のパワーというものに付き合わなければなりません。だから、私たちはこの「許せない感覚」から、少しでも解放されたいと心から願うはずなのです。
 
だからこそ、私たちには「赦される体験」が必要なのです。神の譲歩によって私たちが今生きているということを自分自身を確かめようとしたときに、そこには得も言われぬ安心感というものを手にすることができるのだと。この安心感こそ癒しの結果であり、救いへの道なのだと私は受け止めたいのです。
 
私たちは神の一方的な赦しを自分自身に応用することは難しいでしょう。しかし、神によって赦され、癒され、救われたという経験を持った者同士が、互いに譲歩しあうことは可能でしょう。ここに神のモデルというものに自分自身を沿わせながら生きることができるのだと。私はそういう生き方というものを今日の聖句を通して確認して歩みたいと願わされました。
 
どうか今日一日の歩みも、神がくださった譲歩ゆえに喜びを抱けるような時でありますように。皆さんの主にある守りと祝福を心よりお祈りします。

16/07/2025

2025.7.16(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編127編1節
主が町を守るのでなければ
守る人は空しく見張ることになる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一2章2節
王たちやすべての位の高い人のためにも献げなさい。私たちが、常に敬虔と気品を保ち、穏やかで静かな生活を送るためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
夏の暑い日々のなかでも、不安定な天候が続くここ数日です。大雨などで不安を抱えているすべての方に、その安全が神によって守られますように心からお祈りします。今朝はゆっくりと起きることができました。そして今日は教会でゆっくりと過ごすことのできる一日ですので、資料や原稿づくりに励みたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、今参議院議員選挙のさなかにあって、私たちが政治に対する私たちの態度について深い示唆を与えることばであると私は受け止めました。そのことをつづってみたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、使徒パウロが若き同労者であるテモテへ書いた手紙の一節です。この節だけだと少しわかりにくいと思いました。「王たちやすべての位の高い人のためにも献げなさい」とありますが、一体何を献げるのでしょうか。その答えはこの節の前に記されています。

テモテへの手紙一2章1節
そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人のために献げなさい。
 
つまり、私たちが献げるものとは「願いと祈りと執り成しと感謝」であることが分かります。では、誰に対して私たちは献げるのでしょうか。それはすべての人や王たち、高位の人々に対して献げるのではなく、神にに対して私たちが献げることができるものであるということです。つまり、私たちがこの世界の人々のために、また政治家や権力をもった人々のために、平和かつ安寧であり、品位が保たれるなかで、誰もが幸せな生活を営むことができるように、人々に神が働きかけてくださることを切に願い、私たちはこれらのものを神に献げるのです。
 
私たちにとっては、あらゆる政治思想をもった方々に対して、好意をもって受け入れることのできる方々や政党があれば、その逆もあるでしょう。その際に、私たちに求められる態度とは何でしょうか。自分の意見を隠してまで世の中に迎合する必要はないと私は考えています。しかし、私たちはあくまで神の国による統治に守られた者として生きるときに、神の国が指し示す価値観や態度というものを大切にして、自らの意見というものを是非大切にしていきたいのです。
 
今日の新約聖書の聖句後半には「私たちが、常に敬虔と気品を保ち、穏やかで静かな生活を送るためです」と記されています。神の態度に聴き、ともに歩みたいと心から願う敬虔さ、そこからにじみ出るキリストによって練られた品性は、いたずらに挑戦的にならず、好戦的にもならず、しかし是々非々な態度で世の中に向かって歩もうとする態度が、穏やかさであるとか極めて動的な静けさというものを神の助けによって生み出すことができるのだと、私は積極的に受け止めたいのです。
 
この手紙が書かれた時代、イエスを救い主と告白し、それを伝えることは、ときに命の危険にさらされなければいけないくらいのものでした。ローマ帝国という権力が、いまだ残存していたであろうユダヤ教の影響が、彼らにとって大きな逆風となったからです。そのようななかで、パウロが指し示した態度とは、相手に牙をむくことではありませんでした。あくまで神の御心に聴き、平和の主であるキリストを伝えることに、心を寄せて歩もうというものでした。
 
今日の聖句は、選挙中の日本にあって実にふさわしい聖句であると私は感じました。私たちの国をも守ってくださる神である主がおられることに心を寄せつつ、神の御心を尋ね求め、その態度を今日一日の生活でも明らかにし、その態度を示していくことができますように。皆さんのために、また私自身のために神に祈ります。

15/07/2025

2025.7.15(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
列王記上6章27節
見よ、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書4章23節
まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
昨日は、私の所属する日本基督教団の仕事で、ふたつの神学校を訪問しました。そのうちのひとつは私の母校だったのですが、今の神学校で展開されている神学教育の詳細を知ることができ、とても学ばされるひと時を持つことができました。神学校を卒業して20年が経ちますが、こうして神の国に向かって歩みを進めている働きを担っておられる先生方や、そのもとで学びを進めている学生の皆さんのために祈らなければならないことを心から想わされた次第です。私は神学生時代はろくに勉強をしなかったことを思い出しながら、しかし、神学校で得たひとつひとつの思い出はとても尊いものだったことを再確認することができて、本当に良かったです。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「神を礼拝する真実」であると私は受け止めました。そのことを少しつづってみたいと思います。今日の旧約・新約の両方に記されているエピソードは、それぞれに興味深いことを私たちに知らせています。
 
今日の旧約聖書の箇所は、ダビデ王の時代から構想のあった神殿が、その息子であるソロモン王の時代に完成した時の話です。親子二代にわたる偉業を成し遂げたということは、それだけ当時のイスラエルが栄華を誇っていたことを示す象徴であったと言っても良いでしょう。その神殿がいよいよ奉献されようとしていたとき、王であるソロモンの祈りの一部が、今日のローズンゲンに示されているというわけです。
 
ソロモンは、自分自身の偉業であるといくら誇っても誇り切れないくらいの神殿に対して、決してそのことを誇ることのない、大変へりくだった態度をもって神へ祈りました。私などの人間によってつくられた神殿に、果たしてあなたはお住まいになられるのでしょうかとソロモンは祈ります。ここに、ソロモンのあくまで本質に帰ろうとする態度を見ることができるのです。どんなに立派な神殿であっても、その本質は神を礼拝することにあります。
 
私の卒業した神学校は、約15年ほど前に新しい礼拝堂を建設しました。とても豪華なつくりとなっている礼拝堂です。建設時はブライダル事業などにも使用することを想定してそのようになされたものですが、その後紆余曲折があって、しかし、その紆余曲折を通して、神学校が礼拝堂を持つことの意味というものを問わされてきたということを、昨日の神学校訪問で伺うことができました。礼拝堂は多岐にわたる用い方がされることに何の異論もありませんが、本質は「霊とまことをもって神を礼拝する空間」であり、そこで私たちが神と向かい合うドラマが展開されることが本質そのものなのだと。この本質なくしては、。単なる建物で終わってしまうのだと思わされたのでした。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスとサマリア人の女性との出会いのシーンから取られたものです。イエスは井戸にいたサマリア人の女性から水を求めます。それは女性にとっては意外なものでした。サマリア人はユダヤ人から「忌避すべき外国人」という扱いを受けていたからです。いわゆる排外的な扱いを受けていたサマリア人の女性が、排外的であるユダヤ人であるイエスからのアプローチがあったのですから。
 
しかし、イエスはその水を通して、この水こそ人間を活かす無くてはならないことを女性に伝えます。それは単に渇いた喉をいやすだけの役割にとどまらない、私たちの命を根本的にうるおす活ける水であるということを、イエスはこの女性に伝えたかった。それが父なる神を礼拝することなのだという、礼拝の本質に沿った目的そのものだったのです。
 
私たちはこのような礼拝を、今日も御言葉を通して神と向き合い、聖なる礼拝のひと時を持つことができるのだと私は受け取りました。たったひと言の聖句でも、私たち一人ひとりを活かす神の助けであることを心から受け入れつつ、神とともにある幸いを味わうことができますように。皆さんの一日のために、そして私自身のためにも祈りたいと思います。

14/07/2025

2025.7.14(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書2章28節
あなたが造った神々はどこにいるのか。
災難に遭ったとき、あなたを救えるのなら
彼らが立ち上がればよい。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一10章14節
私の愛する人たち、偶像礼拝を避けなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
今日からウィークデイの日々が始まります。世の中で生きる毎日が、神が私たちとともにいてくださるがゆえに、充実したものとなりますように。心からお祈りします。東北・関東地方は台風が接近しているため、天候が荒れることが予想されています。そんなときに、今日は東京出張。トラブルがないことをただ祈るばかりです。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「あらためて偶像礼拝とはなにか」というものです。それは、単に像を拝まないとか、キリスト教以外の宗教的行事や習慣を忌避するといったことだけで、遇層礼拝を避けることにつながるのかという問題提起とともに、このことをつづってみたいと思います。
 
偶像礼拝とは、神以外のものに「心が引き寄せられる」ことであると私は考えています。それは行為だけを示すものではありません。行為というのはあくまでその結果論であって、もっと大切なのは「私たちの心がどこにあるのか」ということなのだと私は考えています。
 
ですから、この世の中で私たちが生きるに際して、神が私たちに与える価値観というものと異なる価値観がこの世の中に存在していて、では、私たちはあらゆる価値観のうちどれを大切にしていきたいかと問われた時に、その両立や兼ね合いの難しさを感じたとしても、それで困難さを覚えたとしても、最終的には神の与える価値観を選び取るのであれば、それは偶像礼拝を避けるということになるのだと私は思うのです。
 
たとえ、表面的な行為で「私はクリスチャンである」と称していても、心の中が神の価値観以外のものに囚われ、それによって生きようとするのであれば、その行為自体が表面的なもので終わってしまうということなのです。もちろん、それらのすべては決して無駄なものではありませんから、表面的なものであっても続けることでいつか自分自身の心が気付かされるならば、それはそれで大きな意味があるというものです。
 
ですから、私たちが偶像礼拝という言葉について考えるときに、このことを表面的なことだけにとどめてしまうようなとらえ方というものを、是非とも避けたいと私は思います。私の心が神の御心以外の何かに毒されていないだろうか。そうだとしたらそれはいったい何か。そのことをじっくりと検証することが大切なのです。その時に、私たちは神の言葉を頼りに神に聴き、祈りをもって神と対話することができるのです。聖霊の助けが私を包むときに、私自身に神が大きな気づきを与えてくださることを信じつつ、です。
 
偶像礼拝を避けなさいという言葉の本質が、今日も私たちひとりひとりに気づきを与え、神とともに生きる幸いを味わうことができますように。皆さんのために、そして私のために祈りたいと思います。

13/07/2025

2025.7.13(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書26章9節
私の魂は夜にあなたを慕い
私の中で霊があなたを捜し求めます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書1章35節
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんこんにちは。それぞれの場所で朝の礼拝を終えたことと思います。私が働く仙台宮城野教会でも礼拝が終わって、メッセージ動画の編集も終えてアップロードを済ませ、ローズンゲンの言葉に触れたところでした。久しぶりに暑さが戻った、皆さんが帰られて静けさのなかにある礼拝堂でキーを叩いています。午後と夜のひと時に、神の守りと祝福が皆さんとともにありますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉を通して私が聞きたいと思ったメッセージは「神は静けさのなかでその姿を現わされる」というものでした。そのことについてつづってみたいと思います。
 
私たちにとって神が現臨される、つまり私たちに分かるような仕方で現れ、神としての力を発揮してくださるということに対して、どのようなイメージというものを抱いているでしょうか。究極的には神は静けさの中にも、にぎわいの中にあっても、ご自分の姿というものを私たちにわかるような仕方で現わしてくださると私は受け止めています。ですから、どちらかしかないということは決してないのです。
 
ただ、私たちはどうしても動的なもの、にぎやかなもの、元気なものが分かりやすいという理解があるかもしれません。動いていない人よりも動いている人のほうが私たちの記憶に残りやすく、説得力や影響力もあったりするものなのです。しかし、そこに私たちが注目しすぎてしまうことは、神が静けさのなかにも現れる御方なのだという深い理解を欠落させ、失わせてしまうきらいがあるということを、決して忘れてしまってはならないのだと、今日の聖書の言葉から想わされた次第です。
 
夜中に魂が神を慕い求め、わが霊が神をその静けさのなかでじっくりと求めるということが、預言者イザヤの書に記されているように、私たちは誰にも妨げられることのない環境のなかで、神の言葉を介して神とじっくり向き合うことができるのです。いわゆる「デボーション」の営みとは、雑踏から離れた静けさのなかで神の現臨を肌身で感じ取り、神の言葉を我が霊に染み込ませるひと時なのだと。そう考えると、私などは礼拝堂のような空間を自宅に持っているわけですから、それはそれで本当に幸せなんだと思わされるのです。
 
イエスは朝早く、人々との出会いに先立って、ひとりしずかに祈りの時を持っていたことが、今日の新約聖書の言葉から読み取ることができます。イエスはそうでなかったとは思いますが、私たちが日々の生活のなかで感じる焦りやいら立ち、先行き見えない不安のなかでこそ、すべてをご存知である神との深い対話を楽しむことができるのだと。こうしてこの世の中で生きる冷静さというものを取り戻しながら、一日の持ち場へ神が遣わしてくださる。この時を大切にし続けてまいりたいと、今日の聖書の言葉から願わされた次第です。
 
この新しい一週間、私たちには何が待ち受けているのでしょうか。すべてを善へと導いてくださる御方の平安と祝福が、皆さんとともに、そして私自身とともにありますように。そのことを心より願いつつ、お祈りします。

12/07/2025

2025.7.12(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書49章8節
主はこう言われる。
私は恵みの時にあなたに応え
救いの日にあなたを助けた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二6章2節
今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
仙台の街は今日も涼しい朝を迎えました。今朝起きた際、久しぶりにすっきりとした目覚めを感じることができました。身体の疲れも睡眠でしっかり取れたのがとても嬉しく、明日のための準備が心地よく行えそうな気持ちで、今パソコンに向かい始めたところです。一週間も最終日を迎えました。どうか皆さんの一日も良き振り返りと備えのときとなりますように。心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句はともに関連性のあるものであり、新約聖書・コリントの信徒への手紙二6章2節の前半部分には、今日の旧約聖書の言葉であるイザヤ書49章8節が引用されたうえで、パウロは自分自身の思いを後半部分でつづりました。それが今日のローズンゲンの新約聖書部分となっています。
 
このとき、パウロは自分が伝道者として働いているという事実の根拠について説明しています。コリント教会のなかには、そもそもパウロに伝道者としての資格に疑問を抱く人たちの存在がありました。パウロが伝道者としてふさわしくない。そのような批判でした。
 
私も経験のあることですが、私もかつて牧師としての資質を問われ、牧師を名乗る資格はあるのかということを言われたことが幾たびかありました。もちろん、私はそのようなことを問われると、その通りですとしか言いようのない自分自身があったことを思い出しますし、今ですら、伝道者としての資質にふさわしくない自分自身を発見することがしばしばあります。
 
私は人間が立派だから、このような仕事についているわけでは決してありません。私よりももっと素晴らしい資質を兼ね備えた方々が大勢いることを私はよく知っています。もちろん、より良い資質というものを身に付けたいという願いやあこがれはあります。しかし、それよりも大切にしたいのは、そのような資質というものはどこから来るものなのかということです。
 
自分自身のふさわしくなさというものがあるにもかかわらず、その自分を牧師として、伝道者として立ててくださったのは、ただ「神の恵み」によるものなのだと。神がその深い恩寵のなかで、神の力と助けによって今の務めをいただいているのだという自覚と認識こそ、私自身の傲慢を鎮め、自助努力だけでこの仕事はとうてい務まるものではないのだということを、いつも心に刻みながら、神から与えられた時を大切にし続けたいと思うのです。
 
もちろん、そう願いながらもたくさんの失敗を繰り返すことも、逃れきれない事実として残っています。だからこそ、神の恵みによる助けによって、神とともに働く者としてその務めを全うしたいと願わされます。それは牧師でなかったとしても、ひとりのクリスチャンとして歩むときに、是非大切にしたいものであることを思わされるし、それを大切に守り続けたいと思わされたのでした。
 
明日の主の日の備えの時が、そのような思いを確認し、温める一日でありますように。皆さんの一日にもそのような神の恵みがともに、豊かにありますように。心からお祈りします。

11/07/2025

2025.7.11(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編119編52節
主よ、あなたのいにしえよりの裁きを思い起こし
私は慰められました。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二5章1節
私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物があることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住まいです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
昨日に続いて、涼しい朝を迎えた仙台です。暑さが続いて疲れを覚えらているすべての方々に、神の守りを心からお祈りします。どうぞ引き続き健康が守られますように。そして、今日も神が与えてくださった言葉が、私たちのすべてにとって霊的な健康の源となりますようにとお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「私たちに対して神は公正に取り扱われる」というものでした。そのことをつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は詩編の一節でした。そこには「神の裁き」という言葉が登場します。私たちは裁きと聞けば、どのような印象を持つでしょうか。一般的に裁きとは断罪をイメージすることが多いのではないでしょうか。もちろん、断罪は裁きのひとつの方向性であることに間違いありません。しかし、裁きは断罪だけを意味するのではありません。公正な判断によってすべての出来事が取り扱われることを意味します。
 
ですから神の裁きとは、神がご自分の公正さをもって世の中を取り扱われるということを意味するのです。たとえ目に見えないことが暗躍し、そのことで理不尽さを感じることがあったとしても、そのことで苦痛を味わうことがあったとしても、神はそのことをすべてご存知であり、そのことに基づいて私たち人間を公正に取り扱われるということなのです。
 
今日の詩編の言葉を歌ったダビデ王は、神の裁きゆえに慰められたという言葉を賛美しています。日々の生活のなかで経験するやるせなさ、どんなに誠意を尽くしてもわかってもらえない辛さ、自己保身ゆえにその犠牲となった人々が味わう悔しさ、それらを私たちの神はすべてご存知なうえで、私たちの誠意に応えてくださるというのです。
 
では、私たちの誠意とは何でしょうか。すべてをご存知である神の御前に誠実であるがゆえに神の思い願いを携えて生きようと心から願った時に、私たちは神の誠意を自分自身の生き方とすることができるのです。ですから、たとえこの世の中でつらい目に遭ったとしても、神の誠意が私たちを慰め、励まし、今日一日を神とともに、隣人とともに生きる力というものを与え、私たちを活かしてくださるということなのです。それゆえに、ダビデ王は大きな慰めを得たのでした。
 
今日の新約聖書の言葉は、そのことを「住まい」という言葉を用いて比喩的にパウロが語ったものです。人間の思いは壊れやすく、ちょっとしたことで裏切りがあり、自分を守るためならば他をも犠牲とすることをいとわない態度が、ある意味で虚構をつくりあげることだってあるのです。しかし、神の公正に基づいた誠意によって建てられた神の国は、そのような虚構とは一線を画すものなのです。この永遠の住まいに、私たちひとりひとりが招かれているということこそ、神の裁きの結果なのです。繰り返して言いますが、この場合の裁きは断罪の結果ではなく、神が私たちを大切に取り扱ってくださるがゆえの結果であるものなのだということを、私たちは是非受け止めたい。私はそのように感じたのです。
 
今苦痛の渦中にいるならば、そのことを神は必ずや慰め、励まし、何が公正なのかを教え諭し、ときに思い誤りを矯正し、整えて、私たち一人ひとりを神とともにある喜びへと導いてくださいます。そのことを私たち一人ひとりが自分自身の希望とすることができますように。今日一日の神にある守りと平安が、私たちすべての心に届きますように。お祈りします。