15/10/2026

2026.10.15(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
哀歌3章25節
主は、ご自分に希望を置く者に
ご自分を探し求める魂に恵み深い。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録3章20節
見よ、私は戸口に立って、扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

******
 
おはようございます。
今日も秋晴れの朝を迎えた仙台の街です。この空のように、主にあってさわやかでありたいと思いました。その思いを確かなものとするために、今日もローズンゲンに示されたふたつの聖句から、黙想を得たいと思います。
 
今日のふたつの聖句から、私は「探求し続けることの幸い」というものを感じることができました。私たちも探求します。しかし、私たちをいつも、いつまでも探求し続けてくださる方がおられるからこそ、私たちも探求することが大いに許されているのだということを、今日のみことばを通して、深く味わうことができました。そのことをつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、哀歌3章の一節でした。哀歌と言えば、紀元前6世紀にイスラエルの都エルサレムが、新バビロニア帝国の攻撃によって陥落し、民たちが強制連行されて、捕虜生活を余儀なくされた、ある意味で言えば「どん底」の時代でした。そんな時に、預言者エレミヤを通して語られたのが、希望のメッセージだったのです。どん底だからこそ、神を探し求めようと。求めるところには、必ず神が私たちを祝福してくださっていることを実感できるのだからと。今日のみことばは、そのことを民たちに、そして私たちに知らせるものとなっています。
 
私たちが探したから神にたどり着いたのではありません。そもそも神はご自分がおつくりになられた私たち人間にずっとまなざしを向け続けてくださっています。しかし、私たちは気付かないのです。そのことに忘れてしまうのです。どこかそっぽを向いてしまう私たちの現実があるのです。
 
しかし、神は私たちに対するまなざしを反らすことは決してありません。私たちが自分の身の周りをじっくりと眺めまわしたときに、そこに神がずっと私たちのことを見つめてくださっていたという事実に気付くのです。この気づきこそ、私たちにとっての「希望」となることを、私たちは忘れたくはないのだと、私はあらためて受け止めたいと思いました。
 
求めるのは私たちからではなく、そもそも私たちを求め続け、戸口の前に立ち続け、その扉を叩き続けておられる神である主に他なりません。私たちはその神を迎えるために、自らを御言葉と聖霊様で整えつつ、たとえその迎える準備が万全でなかったとしても、迎えたいという思いがあるならば、必ず神はその恵み深さというものを、余すところなく与えてくださるのだと。そのことを心に刻みつつ、今日の与えられた一日を過ごしてまいりたいと思いました。
 
どうか皆さんの一日も、そのような恵み深さに満たされる時でありますように。主にある守りと平安を、心からお祈りします。

0 件のコメント:

コメントを投稿