02/05/2024

2024.5.2(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編81編14節
もし、わが民が私に聞き従うならば

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙1章23節
あなたがたは揺るぐことなく、しっかりと信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句。特に旧約聖書の言葉である詩編81編の言葉は、なにやら尻切れトンボのような印象を私なんかもってしまいました。これは81編14節の前半部分に記されている言葉なのですが、その後にはこのような言葉が続いています。
 
わが民はわが声に聞き従わず
           イスラエルは私を求めなかった。
           私は彼らをそのかたくなな心に任せ
           彼らは思いのままに歩んだ。
           もし、わが民が私に聞き従い
           わが道をイスラエルが歩むならば
           たちまちその敵を屈服させ
           彼らを苦しめる者に向かって手を上げよう。(81編12~15節)
 
この詩編は、神が「私」として、ご自分の民に語りかけておられるようなかたちで歌われています。神の民が自分の思うままに振舞うことにって、神に背を向けて神から離れていく姿が描かれています。
 
しかし、神はここで「私は彼らをそのかたくなな心に任せ」たとあります。私はこのひと言に深い黙想を得ることが出来たのですが、私たちの神は、私に聴き従いなさいと言われつつも、私たちに対して首根っこをつかまえて、操縦するようなことはなさらない御方であることが分かります。あくまで、私たちの心に判断と決断を任せられたと、私は受け止めました。
 
結局のところ、神の言葉に聴き従うか否かは、私自身の問題なのです。私が本当にそのようにしたいのか、したくないのか。神がともにおられることを受け入れ、そのために救い主イエスが与えらえれたことを信じ、受け入れ、洗礼を受けた。そのような誰の目からも見えるかたちで起きた「信仰の出来事」が崩され、取り消されることは決してないのですが、それでも、私たちは「神に聴き従うこと」の本質を、神の助けと力をいただきながら、真摯に求めていく営みというものがいかに大切であるか。私たちひとりひとりに求められている課題なのだと、あらためて思わされました。
 
神はそのことを強制されない。しかし、神は私たちに願っておられる。私たちが自分自身の判断と決断でそうなるように、じっと待っていてくださっている。私たちがたとえ、何度もくじいたとしても、神は私たちが神を心から求め、その言葉に聴き従ったときは、全身全霊をもって私たちの命を支えてくださる。ここにこそ、神が私たちの神となってくだったゆえんというものがあるのだと。
 
今日の新約聖書の言葉は、コロサイの教会に集められた信徒たちに語られた勧めと励ましのメッセージです。信仰に踏みとどまってくださいという勧めですが、いくら勧めたとて、最終的にそのことを受け止められるかどうかは、私たちの各人にかかっていることを思わされます。だからと言って勧めなければ良いというわけにもいかない。だからこそ、自分自身の頭で考え、心でとらえ、自分自身で決断をすることができるように、神が見守り続けてくださったように、私も今日のことはをとらえていきたいと願わされました。
 
今日の一日に、神様の守りと平安が豊かにありますように。お祈りします。

01/05/2024

2024.5.1(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書30章11節
私があなたと共にいて救い出す――主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙2章18節
(イエス)ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
4月に終わりを告げ、5月がやってまいりました。あっという間の1か月間だったことを思いながら、さらに季節が進んでいく感があふれてきます。初夏を思わせる日も少しずつあるなかで、この新しい一か月にも、神様が皆さんに守りと祝福を与えてくださいますように。お祈りいたします。
 
神が私たちを救うことができるのは、神が全知全能の御方であるというのもさることながら、私たちの負う痛みや苦しみというものを、神御自身が身をもって経験されるからこそできるものなのだ。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私たちに伝えようとしていることです。
 
自分自身が痛みの経験をすれば、人の痛みも知ることが出来るのだと人は言います。それは事実ですが、痛めば痛むほど卑屈になってしまうのも人間の偽らざる姿であるように私は思ったりもしています。人間が経験した痛みは、きちんと癒されることがなければトラウマにも発展することは、私たちの誰もが認めるところです。だからこそ、適切な時に適切なかたちで、私たちは癒される必要があるのだと思えてなりません。
 
個の癒しこそが「救い」という言葉で表現できるものなのだ。救われるとは癒されること。私たちの負ったさまざまな傷を癒されるのは、もちろん医療的なアプローチや周辺の温かい言葉もそうですが、究極的には主イエスがそのことのために、私たちに向かって臨んでくださるのだ。今日の新約聖書が伝えようとしているメッセージの肝なのだと私は思うのです。
 
人の痛みがわかることは、本当に大切なことだと私も心から思うことですが、そのモデルというものがどこにあるのかを、私は今日の聖書の言葉を通して、改めて考えさせられました。十字架の痛みをもって私たち一人ひとりに臨み、私たちとともに歩まれたイエスが、私が今負っている痛みというものを一緒に担ってくださっているのだ。そう思うだけで、今抱えている痛みというもの自体は何も変わらなかったとしても、少しでも心の癒しになればと願ってやまないのです。
 
今日もどのような痛みが私を襲うだろうか。しかし、その痛みに付き合ってくださるイエスをただただ見つめつつ、歩むことが出来ますように。祈りつつ、皆さんの一日のためにも、心から祈りたいと思います。

30/04/2024

2024.4.30(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編25編6節
主よ、思い起こしてください
あなたの憐れみと慈しみを。
それはとこしえからあるもの。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テトスへの手紙3章4~5節
しかし、私たちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたとき、神は、私たちがなした義の行いによってではなく、ご自分の憐れみによって、私たちを救ってくださいました。この憐れみにより、私たちは再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて救われたのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
先々週の後半から悩まされてきた風邪も、今朝はひと味違う感覚を味わうことができました。ほぼ治ったような感覚です。2週間近くつらい思いをしてきましたので、あらためて健康の大切さというものを実感させられました。引き続き過信しないように歩みたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「神の慈しみと憐れみ」という言葉です。神が人間を慈しまれること、そして憐れまれることを、同列において私たちに伝えています。
 
そして、慈しみという言葉を補う言葉として、テトスへの手紙の筆者は「人間に対する愛」という言葉を用いています。ここで言われている愛は、いわゆるアガペーの愛ではなく、人間に対する親愛の情を表すフィラントローピアという言葉の派生語が用いられています。この語は、のちに「人間愛」を表すものとして使われることになりますが、もともとは「神が人間に向けられた親切」という意味で用いられていました。
 
つまり、慈しみという言葉の原点にあるものは、人間に対する深い親切の念であり、その源が神御自身であるというのです。つまり、神が私たちひとりひとりに親しく臨んでくださるために表される思いが慈しみであって、自己犠牲愛を示すアガペーよりも、より私たちが理解しやすい愛のかたちなのかもしれません。もちろん、神由来の愛ですから、アガペーと慈しみの間になんら差があるわけではありませんが。。。
 
そして「憐れみ」という言葉については、原語であるギリシア語では、慈悲をあらわすエレオスという言葉が用いられていますが、実はエレオスに対応するスペイン語では、フィラントロピアという単語が慈悲に相当します。そうです「人間に対する親切のこもった愛」という意味のギリシア語が、そのままスペイン語に継承されているのが、とても興味深いことと言えます。
 
憐れみは、みじめな私たちの姿に対して、神が働かれた思いです。まさに人間に対する深い愛と親切に基づいたものであり、慈しみと憐れみという言葉が、それぞれの意味を抱きながらも、それらが組み合わされて私たちに及ぼされるときに、神の愛というものがより深く理解できるのではないか。私はそのように思わされたのでした。
 
私たちは自分自身の正義心というものを抱えながら、この世の中にその正しさが開かれることを望みますし、そのようにする自分自身があります。しかし、正しさと正しさがぶつかり合うときに、そこに平和どころか衝突と分断を繰り返し続ける。そこには慈しみも憐れみもあったものじゃない。神がそもそもそのような慈しみや憐れみを、私たち人間に向けてくださっていることすら、忘却のかなたに私たちは押しやってしまっているのではないか。その当事者である自分自身を強烈に省みながら、あらためて慈しみと憐れみについて考え続ける一日でありたいと思わされました。
 
神による慈しみと憐れみはとこしえからあるもの。そして私たちに神の義を伝え、私たちを根本的なところから再生させてkづださるための源。そんな聖書を通して神の与えてくださったメッセージに、心を寄せることができますように。皆さんの一日のためにも祈ります。

29/04/2024

2024.4.29(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
哀歌1章18節
主は正しい。私は主の口に逆らった。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書21章28~29節
ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
その時は気付かない。後になって分かることがある。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉を通して、私のなかに思い浮かんだ言葉です。
 
今日の新約聖書に描かれた物語はイエスによって語られたものですが、父親がふたりの息子のそれぞれにぶどう園で働くよう命令をしたという話です。兄は最初は拒んだが思い直してぶどう園で働いた。弟は行きますと言ったものの結局行くことを拒んだ。さて、父親の望み通りにしたのは誰か。人々は兄のほうですと答えました。
 
最初は父の言葉に逆らったとしても、思い直して向かったところにこそ祝福があったことを、兄はのちのち気づかされることになります。それは、人々から「罪人」とみなされて社会から除外されていた徴税人や娼婦たちに代表される人たちが、神から大きな祝福を受けて神の国に入れられるのだと、イエスはなぞらえて語られました。その逆もしかりです。
 
私たちは納得したうえで言うことに従うという行動に出るのがほとんどです。しかし、納得をする過程において、それが科学的数理的に確かなエビデンスを与えるから納得するのでしょうか。少なくともその時点では不確かな部分を残しながらも、私たちは判断をして決断をしなけれなならない時もあると思うのです。
 
今日の物語のなかで、兄は「考え直した」とイエスは語られました。私はこの「考え直す」という行為にこそ、父の言葉によって自分の価値観というものを変えさせられた兄があったのではないかと思います。考え直す、思い直す。これはキリスト教でしばしば用いられてきた「悔い改め」という言葉に相通じるものだと私は考えます。
 
悔い改めというのは、神の御前にあってただただ懺悔をするようなイメージというものを私たちは抱くかもしれませんし、それは間違いないことです。しかし、それ「だけ」ではありません。その後こそが大切なのです。神の御前に自分自身をさらけ出したときに、思い直し考え直すことが、悔い改めの真骨頂なのだと思えてならないのです。そういう意味で、考え直した兄はぶどう園へ出かけ、イエスの時代罪人とされた人たちは、イエスによって新しい人生というものを歩み出すことができた。そして祝されている自分自身を、のちのち確認することができたのではないかと思うのです。
 
後になって気づかされる神からの祝福のために、今の私に何ができるだろうか。神の前に卑屈になる必要はないし、許しを得られない世間を目の前にして沈み続ける必要もありません。神が私たちに再生の道を与えるために、私たちに「考え直す」道を与えてくださっている。そこに希望を見い出しつつ、新しく与えられた日々を歩むものでありたいと心から願います。皆さんの一日に、主が与えてくださる平和がともにありますように。お祈りします。

28/04/2024

2024.4.28(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編86編11節
私の思いを一つにしあなたの名を畏れる者にしてください。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙2章9~11節
神はキリストを高く上げ
あらゆる名にまさる名を
お与えになりました。
それは、イエスの御名によって
天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが
膝をかがめ
すべての舌が「イエス・キリストは主である」と告白して
父なる神が崇められるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間を迎えました。世界中で行われる主の日の祝祭を通して、私たちの神が私たちに祝福を与えてくださることを。心から感じ取れるひと時でありますように。皆さんの関わる一日、そして教会・集会のために祈ります。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句、特に旧約聖書・詩編における、イスラエルの王ダビデの祈りに込められた歌には、「私の思いを一つにしてください」という、ダビデの懇願が込められています。その後の詩に触れれば、それは神を畏れ敬う思いを一つにしてくださいということが分かります。何にもブレることなく、ただ神を敬う思いにおいて、私の思いを一つにしてくださいと祈ったのです。
 
私は、ダビデの願いに込められた思いというものに黙想しました。どうしてダビデはこのような祈りを神に向けたのだろうか。ただ神に向かって専心している自分自身を。祈りを通して確かめたかったからなのか。いや、逆だろうと私は思うのです。神に自分の思いを集中させたくても、そうできない自分自身、あちこちに関心が集中してしまい、神を見つめることのできない自分自身を痛感していたからこそ、神に変えていただけるようにダビデは祈った。そういう風に受け止めたいと思いました。
 
思い悩めば悩むほど、物事に集中できない。礼拝に出席しても、御言葉や祈り、賛美に触れたとしても、どこか心があちらの方を向いている。私自身がそんなことを自分でもあきれるくらいに経験していることを想い起こします。まさに「思いを一つにできない」自分自身がそこにあるのだと。
 
だからこそ、今日も神を畏れ敬う思いで自分自身を満たしていきたい。満たされたい。そんな思いをもって礼拝に臨みたいと思います。今日の新約聖書は、フィリピにある教会に手紙を書き送ったパウロの信仰告白の言葉です。「イエス・キリストは主である」。ギリシア語では「キュリオス・イエスース・クリストス」と大文字で強調されています。イエスこそ、私たちの命を祝され、救われるキリスト、私たちの主です。私たちが誰でも、神に畏敬の念をもって生きることの幸いを味わうことができるように、今日も私たちのキリストでいてくださいます!

27/04/2024

2024.4.27(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書2章35節
「私には罪がない」とか「主の怒りは私から去った」とあなたは言う。
「私は罪を犯していない」と言ったために
今、私はあなたに裁きをもたらす。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書23章42節
イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
イエスとともに十字架につけられた重罪人が、イエスに向かって語ったひと言が、今日のローズンゲンに示された新約聖書の言葉です。
 
イエスの両脇で十字架につけられたふたりの重罪人。そのうちのひとりが、イエスをののしりながら自分を十字架から解放してみせろと言いました。しかし、もう片方の男はそれをたしなめながら、自分が罪人であることを認めながら、イエスのどこに罪をみいだすことができるだろうかと告げました。そののち、イエスに向かって語った言葉が、今日のローズンゲン(新約)の言葉です。
 
あなたが御国に行くときに、私を思い出してください。この「思い出す」という言葉に込められた男の思いに、私は自分の思いを寄せたいと思いました。自分がいかに神の御前において傲慢であったか。自分が神になったかのように振る舞いながら人に接してきたか。神の御前に自分の正しさばかりを主張してきたか。私は悪くないと自己弁護ばかり繰り返してきたか。そんなことが次々と思い出されるとき、そんな私を罪の全く無い御方の前で「私を思い出してください」と告白した。この男の思いこそ、今日の御言葉から聴きたいメッセージだったのだと痛感させられました。
 
人は感情だけに左右されると、今あることだけに集中して周囲に対する視野というものが一気に狭まり、物事を総合的にとらえることが本当に難しくなります。特に、怒りの渦中にある時には、自分の正義だけが際立ってしまいます。そして思うのです。「私には罪がない」と。私は悪くないのだと。
 
もちろん、私は悪くないのだと思うことで、気持ちが随分楽になるということがあります。しかし、そのような思いに導かれるとするならば、そのように私の心のうちに思いを起こさせてくださるのは神御自身であり、イエスが私たちに宣言されることによってのみ成り立つのではないかと思えてならないのです。
 
だからこそ、私たちは自分がとうてい正しいなんて思えないという余地というものを、心のうちにいつも抱えながら、イエスの御前にあって今日の重罪人のように「私を思い出してください」と告白できるような一日を過ごしたい。そのように思わされました。
 
一週間の最終日を迎えました。皆さんの生きる道を導いてくださる神が、皆さんに守りと平安を与えてくださいますように。祈ります。

26/04/2024

2024.4.26(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
コヘレトの言葉12章13節
神を畏れ、その戒めを守れ。
これこそ人間のすべてである。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書12章29~31節
イエスはお答えになった。「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めはこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる戒めはほかにない。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマ、それは「神の戒め(ご命令)」です。神は人間にご自分の「愛」というものを、私たちが想像できないくらいに注いでおられる。これは、聖書全体を通して語られている最大のメッセージと言えますが、その愛がいったい何なのか、結局のところ何なのか。私たちはそれを理解することができない。理解していると思っていても、それが本当に神の愛なのだろうかと、私は改めて考えたいと思いました。そして、ことあるごとに思い違いをしている自分自身というものに、あらためて気づかされます。
 
旧約聖書・コヘレト(知恵者)ですら、「人間のすべて」と言わしめてしまうほどに、私たちの姿を包含するのは、神に畏敬の念をもって、神のご命令を守りなさいというものです。しかし、それを文字づらだけでとらえようとしても、私たちはそれをするだけの根拠というものを自分のものとしなければ、心から神を敬い、また敬うほどに畏れることなどできないだろうし、神が告げられたご命令など、守ることができないのだと思います。「言わされている感、させられている感」が、自分自身のうちを支配してしまうのです。
 
本来ならば、心から、自発的に、自分の判断と決断によって、神のご命令に従うことができれば、こんなにも気持ちの良いことはないでしょう。しかし、私たちのうちにある自我というものがそうはさせない、それを拒んでしまうのです。そして、自分なりに守りやすいようにアレンジメントした結果、とても自分本位で、自分の都合だけにフィットした物事をなすことで、神のご命令に従っている「ふう」な自分自身に満足してしまう。そんなことを私自身の日常から思わされてしまうのです。
 
イエスは、最大の神の戒めとは、神を愛し隣人を愛することに尽きると言われました。つまり、愛の実践であると。キリスト教が愛の宗教と言われるゆえんがここにあります。しかし、今日の聖書の言葉を通して、私自身考えさせられるのは、私は神の愛というものを本当に理解しているのだろうか。神が、そしてイエスが人間に示された愛を、自分なりのコーディネイトをあしらえて、自我の愛に貶めてはいないだろうか。そんなことを自省とともに感じさせられたのです。
 
人の愛は人を裏切る。人に嫉妬し、人と比較しては自分を優位に立たせようとする。だから、愛という言葉そのものに重みが感じられなくなる。だからこそ、神がご自分の愛をどのように私たちに示されているかを、丹念に、丹念に聴き取り、それを自分自身の「生」にすることの覚悟をもって、今日という一日を歩みたい。たとえ、それが自分自身のうちに成せなくてもです。むしろ、成せない自分自身を認めることで、神の示される愛を目の前にして、それに圧倒されるからこそ、おそれ敬う思いへと導かれたい。そんなことを、今日の聖句から黙想しました。
 
神の愛を自分のものとする営みは、御国が訪れるその時まで続くテーマだと私は思います。そして、そのために今日という一日があるのだと。皆さんの一日にも、神の示される愛が、すべての浸みわたりますように。お祈りします。