30/04/2024

2024.4.30(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編25編6節
主よ、思い起こしてください
あなたの憐れみと慈しみを。
それはとこしえからあるもの。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テトスへの手紙3章4~5節
しかし、私たちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたとき、神は、私たちがなした義の行いによってではなく、ご自分の憐れみによって、私たちを救ってくださいました。この憐れみにより、私たちは再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて救われたのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
先々週の後半から悩まされてきた風邪も、今朝はひと味違う感覚を味わうことができました。ほぼ治ったような感覚です。2週間近くつらい思いをしてきましたので、あらためて健康の大切さというものを実感させられました。引き続き過信しないように歩みたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「神の慈しみと憐れみ」という言葉です。神が人間を慈しまれること、そして憐れまれることを、同列において私たちに伝えています。
 
そして、慈しみという言葉を補う言葉として、テトスへの手紙の筆者は「人間に対する愛」という言葉を用いています。ここで言われている愛は、いわゆるアガペーの愛ではなく、人間に対する親愛の情を表すフィラントローピアという言葉の派生語が用いられています。この語は、のちに「人間愛」を表すものとして使われることになりますが、もともとは「神が人間に向けられた親切」という意味で用いられていました。
 
つまり、慈しみという言葉の原点にあるものは、人間に対する深い親切の念であり、その源が神御自身であるというのです。つまり、神が私たちひとりひとりに親しく臨んでくださるために表される思いが慈しみであって、自己犠牲愛を示すアガペーよりも、より私たちが理解しやすい愛のかたちなのかもしれません。もちろん、神由来の愛ですから、アガペーと慈しみの間になんら差があるわけではありませんが。。。
 
そして「憐れみ」という言葉については、原語であるギリシア語では、慈悲をあらわすエレオスという言葉が用いられていますが、実はエレオスに対応するスペイン語では、フィラントロピアという単語が慈悲に相当します。そうです「人間に対する親切のこもった愛」という意味のギリシア語が、そのままスペイン語に継承されているのが、とても興味深いことと言えます。
 
憐れみは、みじめな私たちの姿に対して、神が働かれた思いです。まさに人間に対する深い愛と親切に基づいたものであり、慈しみと憐れみという言葉が、それぞれの意味を抱きながらも、それらが組み合わされて私たちに及ぼされるときに、神の愛というものがより深く理解できるのではないか。私はそのように思わされたのでした。
 
私たちは自分自身の正義心というものを抱えながら、この世の中にその正しさが開かれることを望みますし、そのようにする自分自身があります。しかし、正しさと正しさがぶつかり合うときに、そこに平和どころか衝突と分断を繰り返し続ける。そこには慈しみも憐れみもあったものじゃない。神がそもそもそのような慈しみや憐れみを、私たち人間に向けてくださっていることすら、忘却のかなたに私たちは押しやってしまっているのではないか。その当事者である自分自身を強烈に省みながら、あらためて慈しみと憐れみについて考え続ける一日でありたいと思わされました。
 
神による慈しみと憐れみはとこしえからあるもの。そして私たちに神の義を伝え、私たちを根本的なところから再生させてkづださるための源。そんな聖書を通して神の与えてくださったメッセージに、心を寄せることができますように。皆さんの一日のためにも祈ります。

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